第32話 鳥の痕 〈7〉

文字数 2,564文字

 馬と付き人つきのくせして御室(おむろ)の稚児は、毎夜、成澄に送ってもらいたがった。
 使庁の仕事を請け負っているのだから送迎は当然といえば当然かも知れないが。
 さて、今夜も漸く重い腰を上げた迦陵(かりょう)丸、やっと帰ったかと思いきや、まだ田楽屋敷の門前でグズグズしている。検非違使を待っているらしい。
 婆沙(ばさら)丸は成澄を呼びに行った。親切心からではない。そういつまでも居座られてはこっちとしても迷惑なのだ。稚児がいる間は閉じ籠っているから狂乱丸はまだ夕餉も食べていなかった。
「成澄?」
 座敷に成澄の姿はなかった。
 暗い縁の果て、兄の部屋の襖の前に成澄はいた。
「いい加減、機嫌を直したらどうだ、狂乱丸よ?」
 返事はない。
 溜息をついて(きびす)を返す検非遺使を座敷の隅に逃れて婆沙丸はやり過ごした。

 翌朝、朝餉の支度が整ったことを告げに兄の部屋へ行くと、そこは(もぬけ)(から)だった。
「兄者……?」
(こんな早朝から一体何処へ行ったのだろう?)


 椋鳥(むくどり)の集う大木……そこから続く道……やがて見えてくる神社……
 その神前の鳥占いの屋台……
「鳥をくれ」
 床几に腰を下ろしていた鳥飼いはゆっくりと顔を上げた。
「はい。どれにしましょう?」
「全部じゃ!」
 狂乱丸は袂から鷲掴みにした鳥目(ぜに)を鳥飼いの掌にぶちまけた。

 その日、ぶら下がっていた鳥籠の中の全ての鳥を空へ放った狂乱丸だった。
「人間の業は深い。それらも全て……小鳥のように解き放つことができたらどんなに良いか……」
 今度という今度は己の悋気心にほとほと嫌気が差した。
「おまえ、(とび)丸と言うのだろう?」
 空から一転、視線を鳥飼いに移して、昨夜襖越しに聞いた名を呼んでみる。
「何処、私の名を?」
 言ってから鳥飼いの若者は思い当たったらしくすぐに白い歯を煌めかせた。
「ああ、ひょっとして──貴方様は鳰様のお知り合いですか?」
 田楽師の艶やかな装束をうっとりと眺める。
 とはいえ、どんなに綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)の衣を纏っていても田楽師も、巷の陰陽師や歩き巫女、声聞師、傀儡師と同じ仲間──〈異形の輩〉なのである。そして、漁師、狩人の類である自分もまた──
 (もとどり)も結えず、烏帽子を被ることも許されぬ最下層の(うから)
 だから、自然に親しみも湧く。
「それにしても、鳶丸、あれほどの美しい鳥を何処で手に入れるのじゃ? 俺が今日、全部逃がしてしまったから明日から大変だな?」
「大丈夫ですよ」
 鳥飼いは笑顔で答えた。
「懇意にさせていただいている貴人様のお邸の庭に美しい鳥たちがたくさんいるんです。そこで獲らせてもらっています。勿論、野山で獲ることもありますが」
「ふうん。これは?」
 傍らの水を張った土器(かわらけ)を指差して狂乱丸が訊いた。草の束が浸けてある。
「鳥の餌です。空に放さずに家へ持ち帰って飼いたいと言う方たちにお分けしています。次からはこれと同じ草を摘んで与えるように教えて。後は、毎朝、綺麗な水を。俺の鳥はそれで丈夫に育ちます」
「俺も鳥だったら良かったな」
「え?」
 唐突な田楽師の言葉に鳥飼いは吃驚した。が、合点が行ったらしく、
「ああ! 大空を思いっきり飛びたいんですね?」
「まさか! そんなおっかない真似したいものか! 俺は飼われたいのさ。毎日新鮮な草と綺麗な水をもらって大切にされたい。そうして、優しい飼い主のために、そのたった一人のためにだけ美しい歌を歌う。それが、俺の夢さ。変か?」
「いいえ、ちっとも」
 だが、すぐに美しい田楽師は頭を振った。
「チエッ、所詮、叶いっこない夢じゃ。人は鳥になぞなれぬ。ならば、せめて……俺も鳥の名前を授かっていれば良かった。それならば、小鳥のようにもっと素直で甘え上手な可愛らしい性格になっていたろうに」
 迦陵(かりょう)丸のように?
「狂乱丸では……あまりに激しくて……狂おしいばかりじゃ!」
 しかし、また暫くして、狂乱丸は射千玉(ぬばたま)の髪を揺らした。
 先刻、小鳥たちを逃がした空の彼方を見つめながらそっと呟く。
「いや、無理じゃ。俺はやはり、何処まで行っても俺……」
「そりゃそうでしょう」
 鳥の名を持つ鳥飼いが頷いてみせる。
「名前なんぞで中身は変わりませんよ。人も鳥も。だって、全く同じ鳥でも場所が違うだけで別の名になるんだから」
「へえ? 面白いな。なんという鳥じゃ?」
「例えば、都鳥(ミヤコドリ)
 と、鳶丸。
「あれは都の外では百合鴎(ユリカモメ)と呼ぶそうで。でも、別の名で呼ばれても鳥は全く変わらない。大空を飄々と飛び交っておりますよ」
「そうか」
 久しぶりに狂乱丸は爽やかな気分になった。小鳥をたくさん空に放って、放生の功徳を積んだせいと言うよりも、人と親しく言葉を交わしたせいかも知れない。
 思えば閉じ籠っていたせいでここ数日、誰ともまともに口を利いていなかった。分身のような弟とも……
(心配をかけたな、婆沙?)
 帰ったら優しい言葉の一つもかけてやろう、と狂乱丸は思った。


(にお)がいなくなった!」
 田楽屋敷の座敷に血相を代えて有雪が飛び込んで来たのはその日の昼過ぎのことだった。
 そこには仲良く遅い昼餉を取っている双子だけがいた。検非遺使の中原成澄は、今時分は囮役の迦陵丸と一緒に京師の何処かの辻に立っているはず。
 この男にしては珍しく有雪はひどく取り乱していた。
「今、仲間の歩き巫女たちが俺のところへ来て知らせてくれた。それによると──何処にも鳰の姿が見えないそうだ!」
 婆沙丸が訊いた。
「いつからだ?」
「それが……よくわからないらしい。気づいたらいなくなっていたとかで、仲間たちが彼方此方探し回っている最中だ。それで、さっき俺の元へも来て教えてくれたのじゃ」
「おまえ、巫女の住処は知っているのか?」
「今、仲間の巫女から聞いてきた。取り敢えずこれからそこへ行って──何か手がかりはないか探ってみようと思う」
「……俺たちも行こう」
 箸を置いて立ったのは、狂乱丸だった。
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