第80話 呪術師 〈10〉

文字数 3,701文字

「どうした、マシラ? ぼうっとして?」
 
 兄の声にハッとして顔を上げる。
 東の(いち)の一遇。
 怒涛のような拍手や歓声が消え去って、長い一日が漸く暮れようとしている。

「ははあ、例の田楽師のことを思い出していたのだな?」
 〈念〉の術を披露し終えて呪術師の装束から水干へ着替えたアシタバ。膨らんだ袋を抱えて近づいて来た。中身は言うまでもない。今日、喝采と共に虚空を飛び交った鳥目がぎっしりと詰っている。
「おまえも馬鹿だな?」
 訳知り顔に兄は笑った。
「だから、あの時、しっかり自分のものにして置けばよかったんだ。せっかく俺が気をきかして――二人きりにしてやったのに」
「え?」
「おまえだって、抱かれとけばこんな風に薄情に放り出されることはなかったのさ。きちんと面倒見てもらえたものを」
「じゃ、あの夜、兄様(あにさま)はわざと……?」 
 マシラは吃驚して飛び上がった。
「嫌だ! 婆沙(ばさら)丸様はそんな人じゃありません。わ、私だって――兄様は誤解してる! 私の気持ちなど何一つわかっていないくせに!」
 駆け寄って水干の胸元を掴む。
「そんなんじゃないって何度言えばいいの? 本当に兄様は何もわかっちゃいない!」
 押し殺していた思いが一気に噴き出した。赤い髪を炎のように揺らしてマシラは叫んだ。
「今度の件では皆、兄様のために力を貸してくれたのよ! 兄様が無事に、しかも面目を保ったまま京師(みやこ)を去れるよう計らってくれたのに――」
 ずっと思っていたことを妹は口に出してぶつけた。
「兄様一人だったら〝人〟を使った〈術〉なんて成功させられなかったわ!」
「だが、今は違う」
 アシタバは不敵な笑みを浮かべた。
「今日の観衆も凄かったな! 見たろう、マシラ? 皆、〈術比べ〉の俺の評判を聞いてやって来たのだ。ならば、そろそろ東の市(ここ)でも、あの〝人〟を使った〈術〉を披露しようと俺は思っているんだ」
「兄様? まだそんなことを――」
「やり方は学んだ。陰陽師に教わった通りにやればいいのさ。そのための双子を探さないとな? 何、あんなに美しくなくとも良い。もっと子供で、二人似てさえいれば――どうした、マシラ?」
 ぽろぽろ涙を零して泣き出した妹を見て流石に驚いたようだ。
「き、機嫌を直せよ、マシラ? 俺がここまでやってこれたのは、おまえが傍にいてくれたおかげだと心底感謝してるんだぞ?」
 地面に金の袋を置くと優しい声で言った。
「俺はおまえの笑い顔が好きなんだ。それを見たくてがんばってるようなものさ!それなのに――」
 兄は妹の肩を抱いてそっと顔を覗き込んだ。
 幾度となく繰り返して来た仕草。
 自分を追って駆けて来た畦道で、鮒を取り脱がした池の端で、サンザシの棘を抜いてやった裏山で……
 こうすると必ず笑ってくれた小さな妹。誰よりも愛おしい宝物……
「そう言えば、おまえは最近笑わないなあ。どうしたら、笑ってくれる? 言ってみろ、この俺にできることなら何でも叶えてやるから」
「兄様」
「おっと」
 慌てて兄は釘を刺した。
「但し、『故郷(くに)へ帰る』は、なしだ。それ以外で、おまえの叶えてほしい願いは何だ?」
「……鐘の音が聞きたい」
 遠い眼をして、ポツリと娘は言った。
「何だと?」
「母上様が教えてくれたんです。素晴らしい鐘があるって」
「何だよ、また神仏の話か?」
「何でも、その鐘の音を聞いた者は、自分の犯した全ての罪を一瞬で洗い流すことができるとか」
「はっ、そんな都合のいい話などあるものか」
「あるんです。母上様は子供の頃、諸国を旅して来た偉いお坊様に聞いたって言ってました。母上様は生涯でたった一つしか嘘はおつきにならなかった。その母上様がどうしても聞きたがった鐘の音じゃ。」


 ―― 聞いてみたいものねえ、マシラ?
    その鐘の音はこの世のものとは思えないくらい
    澄みきって美しいそうじゃ。
 
 ―― フフ。
 
 ―― 何が、おかしいの? 
    マシラはこの母の言うことが信じられないの?
 
 ―― 信じます。でも……
    母上様にはそんな鐘の音は必要ないでしょう?
    だって、母上様は何一つ罪など犯しておられません。
 
 ―― そんなことはない。母は恐ろしい罪を犯しました。
    嘘をつくこと。偽りの罪。
    人を騙すことは一番恐ろしい罪じゃ

 ―― それこそ嘘です。母上様が人を騙すなんてありえない。
    フフ、いつそんな嘘を?
 
 ―― 毎晩、好きでもない御方を好きと言っておる……



「私もその鐘の音を聞いてみたい。兄様のために」
 胸の前で両手を組んでマシラは言った。
「そうすれば兄様だって犯した罪がいっぺんに消えて……何もかも許されるでしょう?」
 夢見るように瞳を輝かす。
「昔のような兄様に……清いお心の兄様に戻れます」
俺の(・ ・ )ためかよ(・ ・ ・ ・)?」
 荒々しく妹から身を引き離す兄。
「どうしておまえはそうやって、いつも俺のことを一番に考えるんだ! もっと、自分を優先しろ!」
「だって、兄様が一番大切だから」
「やめろ! 下らん!」
 見えない糸を断ち切るようにアシタバはさっと腕を振り下ろした。
「いつまで拾われた恩を引きずるつもりだ? そんなのは俺の父や母までで充分だ! その父も母も死んだ。おまえを繋ぎ止めるものはもう何もない。だから――おまえはもっと自分の好きなことをして、思うまま生きていいんだぞ!」
 妹に背を向けたまま兄は続けた。地から響くようなくぐもった低い声。 
「俺が故郷へ帰らないのはそのためだ。俺はおまえを自由にしてやりたくて京師(ここ)へ来たんだから。都なら何のしがらみもない。好きなように振舞って好きな道を歩め。マヤカシの呪術師が気に食わないならとっとと去ればいいんだ。好きな男を見つけろ、とはそういうことさ! 俺はおまえがいつまでも〈恩〉に縛られているのが耐えられない。それを――」
「兄様……」
 再び荒々しい声に戻ってアシタバは怒鳴った。
「ふざけるのも大概にしろ! 全く! 訊いて損した、何が鐘だ! 『鐘の音を聞きたい』だ! どうせなら……『都一の花婿を捜して』と言え!」
「そうでもない。鐘の音(・ ・ ・)か?」
 突然の声。
 ハッとして呪術師兄妹は顔を上げた。
「それは名案かも知れぬぞ? 鐘を鳴らす……身を清める鐘の音を……」
 いつの間にか周囲にはグルリと法衣の壁。
 十数人の山法師たちが呪術師兄妹を取り囲んでいた。
 その中央には先日、神泉苑(しんせんえん)で〈術比べ〉をしたあの真済(しんぜい)の顔が――
「――?」




「聞いたか? 大変なことになったぞ!」
 息急き切って愛馬ごと一条堀川の田楽屋敷へ駆け込んで来たのは巡邏中の中原成澄(なかはらなりずみ)だった。
「明日、アシタバが、神泉苑でまた〈術〉を披露することになった!」
「懲りない奴」
 田楽の稽古中だったらしく編木子(びんざさら)を手に出て来た狂乱丸、冷たく笑って吐き捨てた。
「呆れたものじゃ!」
 片や、鼓を抱えた弟は心配そうに眉を寄せる。
「何でまた? 先刻あんなに華々しくぶち上げたばかりだろう?」
「それがな」
 蛮絵の検非遺使尉(けびいしのじょう)は荒い息を整えながら説明した。
 それによると――
 〈真実の呪術師〉アシタバの、〈念〉でモノを自在に動かす術について、その真相を見抜いた者が出現した。その者は〈術比べ〉で敗北を喫した法師の前でアシタバと似たような技を披露してみせたとか。
「そやつ、最近京師へ上ってきた傀儡師だそうだ」
「ふん、下らん」
 鼻を鳴らす橋下の陰陽師。婆沙丸との例の契約をいいことに、仕事にも出ず、朝からただ酒を飲んでいたのだ。
「アシタバの〈術〉がマヤカシだとバレるのは時間の問題だと言ったはず。遅かれ早かれこうなることはわかっていたさ」
 成澄は烏帽子に手をやった。
「まあ聞け、問題はここからじゃ。偽りの術を使ったと知った法師が、どうしてももう一度〈真実の術〉を見たいと言って、アシタバに新しい〈術〉の披露を持ちかけたのだ」
 勿論、それは表向きである。
 真の目的は、前回、術が巧く行かず大恥を掻いた法師の復讐だった。自分同様、観衆の面前でアシタバを笑い者にする魂胆なのだ。
「アシタバの術がマヤカシと知った上で、無理難題を吹っかけ、失敗する姿を都人に晒そうと言うのさ!」
 憤って婆沙丸が叫ぶ。
「法師のくせに陰険だな!」
 有雪がせせら笑った。
「いや、人の恨みとはそういうものよ。地位や職業に関わりないわ。これだから、人は物怪(もののけ)より恐ろしいのさ」
「で? その無理難題とは何じゃ?」
 狂乱丸の問いに涼しい目元を曇らせて検非遺使はぼそりと告げた。
鐘を鳴らす(・ ・ ・ ・ ・)ことだと」
「はあ?」

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