第89話  キグルイ 〈5〉

文字数 3,232文字

 あんな悪夢を見るくらいなら眠りたくはない。
 そうは言っても、人間は眠らなければ持たない生き物である。
 明け方、有雪(ありゆき)はうつらうつらした。すると――


 雪丸……
 雪丸……

「?」

 優しい声だな?
 
 少し安心して、目を開けると一面の純白。全てを多い尽くす雪。
 ああ、母者の言っていた、これが、穢れたものの上に降る、一切を浄化する雪?

 思わず微苦笑する有雪だった。

 無理だよ、母上。買被り過ぎじゃ。
 荷が重過ぎる。俺にはこれほどの力はない。

 (おや?)

 美しい少女が雪の原に立って手招きしている。
 傍に行くと、

「見て」

 少女はヒラヒラと手を翳した。親指と中指、薬指をくっつける。

「何に見える?」
「……狐?」
「そうよ! そうよ!」
 
 少女は嬉しそうに手を叩いた。

「狐は守り神。天の使者じゃ。いつも善い人間を護ってくれるぞ。ソレだけじゃない」
「ほう?」
「この狐の形で綱に掴まってごらん」
「そりゃ酷い! 3本指では力が入らぬ。すぐ落ちるぞ」
 5本の指全部で縋るより無力だ。
「それでよい。それだから良い」
 少女は朗らかに笑った。
「どうせ落ちる。ならば力を抜いて緩やかに世界をごらん」
 
 少女は今一度親指と中指、薬指で狐を作るとコン、コ-ン、コン、と鳴いて見せた。

 ははあ?
 俺が狂うのを食い止めようとしているな?
 全力を使い切るな。
 常に三分の力で行け。テキトーに、いい加減に。
 だが、今度ばかりはそれで通用するだろうか? 
 
 なあ、母者?





「また呼び立ててすまなかったな?」
 
 心から申し訳なさそうに中原成澄(なかはらなりずみ)は言った。
 有雪が幾つもの夢を彷徨した夜が明けて、その日の昼前。
 またしても使庁の早馬が一条堀川の田楽屋敷の門前に乗りつけた。
 白烏(しろからす)は空へ飛ばし、有雪は拍車した。
 そして、至った千本堀川の一角。
 待っていた長身の検非違使、その精悍な顔に刻まれた苦悩の翳は濃い。

「だが、俺としては訊ねる相手は……」
 咳払いをしてから、検非遺使尉(けびいしのじょう)は言い直した。
「頼れる人間はおまえしか思い浮かばなかった」
「――」
 足下には焼け爛れた屍骸。
「何故だ? そして、どうやったら、こんな死に方ができる……?」
 検非遺使は喘いだ。
「大体、場所が嫌だ」
 剛毅なこの男にしては珍しい物言いだが、有雪にはその理由がすぐわかった。
 この場所、宮内省に近い。そして、昨今話題の、夜な夜な(ぬえ)の啼き声がするという池にも。
 平安末期のちょうどこの頃、帝位に在った近衛天皇は〈鵺〉という魔物に悩まされていた、と今に伝わる史書に記されている。
 それら書物に拠ると、鵺とは頭が(さる)、尾が蛇と言う世にも奇妙な怪鳥である。丑の刻(午前2時)に限って身の毛もよだつ啼き声を響かせたとか。
「おい、まさか、これらの奇怪な死体が(くだん)の怪鳥と関わりがあるのではないよな?」
 陰陽師の薄汚れた白衣を掴んで揺すぶる黒衣の検非違使。
「悪いな、俺にはわからぬ。ただわかっているのは――」
 そこまで言って有雪は口を閉ざした。
「何だ? わかっているのは? いいから、言ってみろ!」
 逞しい友の手を払い除けてから巷の陰陽師は重い口を開いた。
「これで終わりではない。こりゃ、まだまだ……ずっと続くぞ」
「やっぱりな!」
 歯を食いしばって蛮絵の検非遺使は天を仰いだ。
 苦境に陥った際、必ずする仕草――烏帽子(えぼし)に手をやりながら、
「俺は鈍い人間だがよ、有雪。俺もな、そんな気がしていた……」


 その夜、また有雪は夢を見た。

 その闇は陰鬱ではなかった。

「?」

 爽やかな風が吹き過ぎて行く。
 夏の午後だ。心地よい影の中を有雪(ありゆき)は歩いていた。
 この薄闇、優しい日陰がずっとどこまでも続けばいいと願った。
 と、いきなり眩しい場所に出た。
 白い砂浜、その向こうに煌めく瑠璃色の海……

「!」

 有雪の足を止めさせたのは白砂青松の風景のせいではない。
 瑠璃色の波の上に浮かんでいるもの。
「あれは……?」
 
 ほとんど息が止まる思いがした。
 たゆとう波の上に女が浮いている。
 一糸纏わぬ白い肌。そう、打ち寄せる波よりも白い。
 その女は全裸だった――
 瞳は閉じられ、既に死んでいるように見える。
 薄っすらと開いた真紅の唇。
 だが歌っているのはその口ではなく体に纏いつく長い髪ではないのか? 
 寄せては反す幾千の波にさざめいて煌めく黒髪。
 立ち尽くす有雪の前を女の体は流れて行った。
 最初はゆっくりと、やがて波に乗り、波に運ばれて加速する。
 
 スイイィィ……
 
 見る見る波を蹴立てて水平線の彼方へ消えて行く美しい肢体――

 がっくりと膝を折ってその場に崩折れた有雪の耳にざわめきが聞こえて来た。

「何故動かぬ?」
「これはどうしたことじゃ?」
「押しても引いてもびくともしないぞ!」
「一刻も早く都へ届けねばならぬというのに!」
「帝が首を長くしてお待ちじゃ! なんとしても、動かせろ!」

「?」
 
 顔を上げると、いつの間にか山道にしゃがみ込んでいた。
 道の向こうに、荷車があってその周囲で人々が怒鳴りあっていた。どの顔も目を血走らせて必死である。
 どうやら車が停止して往生している様子。
 
 (どれ、俺も押してやろう。)
 
 有雪は腰を上げた。
 だが、荷車に近づいて凍りついた。
 その荷台に乗っているのは女――
 先刻、海辺で見た女、波に流されて行ったあの女と同じ女に見える。
 またしても、息絶えているのか?
 今回、女が乗っているのは波ではなく荷車の荷台の上だ。木目も粗い板の上。
 裸に剥かれたその体に荒縄がきつく巻かれていた。
 瞳を閉じて薄く開いた唇。
 生まれたままの白い肌に木漏れ日がチロチロ(うごめ)いている。
 
 (憐れにな。これは酷過ぎる……)
 
 有雪は水干を脱いだ。それを女の体にそっとかけてやった。
 刹那――
 
 ギシッ!
 
 軋んだ音を立てて車が動き出した。
 まるで、そうされることを待っていたように、有雪の水干に包まれてその人は都への道を滑り出した。
 




「起きて、陰陽師のおじさん!」
「起きてよ! おじさん!」
 
 耳元でがなられて我に返る。
 処は京師(みやこ)(ひがし)(いち)
 腰掛を一つ置いて、道行く人を呼び止めては卜占(ぼくせん)をたれる。巷の陰陽師のいつもの片手間仕事の最中だった。
 最近の不眠がたたってか、いつの間にか寝入っていたと見える。
「ん? 誰がおじさんだ?」
 突っ込むところはそこではないだろうが、有雪は目をしょぼつかせて子供たちを見回した。
「何なんだ、おまえら? 餓鬼どもが?」
 一瞬ギョッとする。何処から湧いて出たのかこの子供たち。これも夢ではないだろうな? 
「俺はタダでは商売はしないぞ。金は持ってるのか?」
「違うよ!」
「俺たち、田楽屋敷の――婆沙(ばさら)丸の使いで来たんだ!」
 子供らは一斉に叫んだ。
「狂乱丸が大変だって! 怪我をしたんだ!」
「なんだと?」

 海を流れて行く美しい肢体。
 荷台に括られていた美しい肢体。
 それらが暗示するもの何だ?
 有雪は身震いした。
 (……葬儀……葬送?)
 思えば、おおよそ、人が裸でいるのは2回だけだ。生まれた時と――
 死んだ時?
 夢では女と見えたが、あの美しさは……

「狂乱丸っ!」

 白衣を翻して有雪は駆け出した。

 怪我をしただと?
 これこそ夢であってくれ……!
 どうか……!






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