第2話 水の精 〈2〉

文字数 4,405文字

 中原成澄が語った話はこうである──
 実は昨今、京師(みやこ)で奇怪な事件が続いている。
 いつからか検非遺使庁内では〈水の精の怪異〉と囁かれるようになった。
 夜半、出歩いている貴人が何人も妖しい死に様で発見されたのだ。その数、既に三人。
 皆、顔が撫でられたように削がれていて、死体の傍らには必ず縄が結んだ形のまま落ちている……
「その縄がぐっしょりと濡れていてな」
「それで? それが何故〈水の精〉などと呼ばれるのだ?」
 怪訝そうに首を傾げた婆沙(ばさら)丸を見て成澄はニヤッとした。
「おまえもわからないか? うん、実は俺も初めてこの話を聞いた時はさっぱり要領を得なかった。歌い騒ぐのは得意でも書物には暗いからな」
 豪快に笑った後で教えてくれた。
「実は最近書かれたという物語集があってな。『今昔物語』とか言うのだ。秘本中の秘本だが識者の間で人気を博している。俺は今回のことがあって別当の命で読まされたのだ」 ※別当=最高長官
 熊の蛮絵は検非遺使の印。前をはだけた着方はともかく、精悍な風貌に黒摺りの装束がよく似合っている。そんな成澄がいつになく神妙な口調で先を続ける。
「その物語集に〈水の精〉の話が載っている。巻二七の五話目。時は陽成院(ようぜいいん)の御代、冷泉院(れいぜいいん)の屋敷は荒れ果てて〈水の精〉が出没しては悪さ(・・)をすると噂になった。
 その悪さ(・・)とは、寝ている人の顔を撫でるというもの。
 まあ、そのくらいなら見過ごされたろうが、この〈水の精〉、貴人を殺めるに及んで遂に搦め取られた。
 その際、後ろ手に縛られながら水を所望したので(たらい)ごと水を与えたところ──
 頭から盥の中に飛び込んで跡形もなく消えたしまったと!
 盥には唯一、縄だけが、さっきまで〈水の精〉を縛ってあったそのままの形でプカプカ浮いていたそうな……」
 成澄はブルッと身震いしてみせた。
「以来、〈水の精〉の行方はヨウとして知れない。その姿を見た者もいない。ところが、今回こうも繰り返される面妖な事柄──
 顔を撫で削ぐ(・・・・・・)のといい、結んだままの縄(・・・・・・・)といい、どれもかつての〈水の精〉の話に通じるではないか! 貴人ばかり(・・・・・)狙われる(・・・・)というのも然り」
 松明(たいまつ)を持っていない方の手でちょっと烏帽子に触れてから成澄は言った。これがこの男の癖なのだ。
「まあ、そういうわけだ。この話を聞いて狂乱丸も青褪めていたぞ。おまえが〈水の精〉に襲われては大変だと俺に縋って、すぐ連れ帰ってくれと泣くのだ。フフ、日頃強がっていても、可愛い奴」
「馬鹿馬鹿しい」
 婆沙丸は取り合わなかった。
「俺のことなら放っておいてくれ」
「それはないだろう、婆沙よ。狂乱丸は元より俺だって心底おまえの身を案じて──」
「だから、それが無用の心配だと言うのさ! そら、今あんた自身の口で言ったろ? その物怪(もののけ)に狙われるのは貴人だけ(・・・・)だと。俺は貴人ではない」
 婆沙丸は薄縹(うすはなだ)の地に蜻蛉(トンボ)の模様も鮮やかな摺衣(すりぎぬ)の袖を振って、
「ほうら! 誰が見たって俺は田楽師! それ以外の何に見える?」
「なるほど。だがな──」
 ここで橋に立っていた二人は同時に口を噤んだ。
 森閑とした京の闇を裂いて悲鳴が響き渡った。
「キャーーーー!」
「な、何だ!?」
「向こう……〈あははの辻〉の辺りだぞ?」

 弾かれたように二人は声のした方へ走った。
 果たして、大内裏(だいだいり)の南東、東大宮と二条大路の交わる辺り──俗に呼ばれる〈あははの辻〉に人が二人打ち倒れていた。
 どちらも狩衣(かりぎぬ)指貫(さしぬき)姿の貴人である。
 近づくにつれ、成澄の翳す松明(たいまつ)に照らされてもっとわかった。
 仰向けの方の顔面はベロリと削がれて血だらけだ。
「何てこった……! ウアッ?」
 駆け寄ろうとした成澄、何かに(つまず)いて蹌踉(よろ)めいた。 
 結ばれたままの縄が一つ転がっていて明かりを近づけるまでもなくべっとりと濡れているのが見て取れた。
「では、まさか、今たっても話していた〈水の精〉の仕業……?」
「成澄!」
 婆沙丸が注意を促す。もう一人、うつ伏せに倒れていた方が微かに動いたのだ。
 どうやら、こっちは生きている気配──
 地に腕を突いてゆっくりと身を起こした公達(きんだち)の顔を見て、成澄と婆沙丸はひとまず安堵の息を吐いた。こちらは倒れた際付いた地面の土で汚れてはいるものの顔は無傷のようだ。
 貴人の若者は低いながらもしっかりした口調で訊いてきた。
「おお、あなたは……検非遺使殿? では、私は助かったのですね……?」
 成澄の目は若者の背後の築地塀へと吸い寄せられた。
 ここ〈あははの辻〉はいつからこの奇妙な名で呼ばれるようになったかは定かではないものの、正確には〈二条大橋の辻〉である。さらに別の言い方をすれば〈神泉苑の丑寅(うしとら)の角〉であり、〈冷泉院の未申の角〉でもある。
──冷泉院(・・・)
 そう、こここそまさに秘本に曰く、〈水の精〉が出没した場所ではないか……!
 蛮絵の装束の検非違使の声が凍った。
「一体、ここ(・・)で何が起こったのだ……!?」

 冷泉院の前の辻で、襲われて命を落とした者の名は源実顕(みなもとのさねあき)
 辛うじて難を逃れた者の名は藤原雅能(ふじわらまさよし)
 共に公卿の息子で大学寮の朋輩だった。
 翌日、生き残った方の藤原雅能が使庁の別当に直接語ったところに因ると──
 その夜、二人は一緒に出かけた。
 夜歩きは貴族の若者の(たしな)みである。予々(かねがね)〈水の精〉の騒ぎは知っていたが、まさか自分たちの身に及ぶとは夢にも考えていなかった。
 いつものように連れだって大学寮を抜け大内裏は美福門の前を過ぎ、ちょうど〈あははの辻〉に差し掛かった時、突然何者かが襲って来た……!
「その者の姿形は見られましたかな?」
 別当の問いに若者は首を振った。
「それが全く。何しろ闇の中からいきなり肩を捕まれ、恐ろしい力で地面に突き倒されたのです。私はそのまま気を失ったようです」
 悲しげに顔を曇らせて藤原雅能は言うのだった。
「薄れる意識の中で、幽かに友の断末魔の叫び声を聞いた気がします……」

その声(・・・)をたまたま聞きつけたのが俺たちだったというわけさ!」
 使庁からの帰り、早速、田楽師の住まう屋敷に立ち寄った中原成澄だった。※使庁=検非遺使庁の略称
 一条通りは桟敷(さじき)屋の連なる辺り。田楽新座を起こした先代師匠・犬王の屋敷である。
 犬王急逝の後、歳は若いが芸に秀でた兄弟が跡目を継いだ格好だ。
「俺と婆沙(ばさら)丸は一条橋から大宮大路を二条に向けて突っ走った。その際、俺の掲げていた松明(たいまつ)の火を見て〈水の精〉は逃げ出したらしい」
「では、結果として──」
 小者が運んで来た酒瓶を受け取り成澄に供しながら狂乱(きょうらん)丸は感慨深げに言う。
「一方の上げた叫び声のおかげでもう一方は命拾いしたことになるな?」
「まあな」
 盃を持った手を止めて成澄は神妙な顔で言った。
「友に感謝せねばな。俺は死体を検分したが──顔が削がれ血塗れの悲惨な状態にもかかわらず、源実顕(みなもとさねあき)殿はそれこそ絵巻から抜け出たような公達ぶりだった。よくもまあ、あんな叫び声を出せたと思うくらい品の良い風情なのだ。きっと平生は声を荒らげたことなどあるまい。だから、あの叫び声は一世一代の〝大声〟だったのだろうよ。なあ、おまえもそう思うだろ、婆沙丸?」 ※公達=貴人の若者
 婆沙丸は先刻からムッツリと押し黙ったったままだった。
「嫌におとなしいな、婆沙丸? ハハァ、流石にあの無残な死体を見ては元気も出ないか?」
「そんなんじゃないさ」
 狂乱丸はせせら笑って、
「死体の一つや二つで今更萎えるタマかよ? そんなもの我らは鴨の河原で見飽きておるわ。こいつの物思いは恋の病というヤツさ」
「うるさい!」
 兄のからかいに婆沙丸は席を立って縁に出た。
 巻き上げた簾の向こう、裏庭の井戸の辺り、先代の愛でた菖蒲の青が目に涼しい。
 師匠・犬王は兄弟を引き取った際、二人の名を菖蒲(しょうぶ)丸と杜若(アヤメ)丸にしようか大いに迷ったとか。
 それはさて置き──
 昨夜来、婆沙丸の心に刺が刺さったように引っ掛かることがあった。
 それが今、成澄の話を聞いて益々落ち着かない気分になった。
 勿論、このことは誰にも言っていないが──
 実は昨夜、悲鳴を聞いて婆沙丸があれほど懸命に走ったのには理由(わけ)があった。
 なるほど、成澄は検非遺使だからその使命感から悲鳴の出処へ走って当然だ。だが、自分を居ても立ってもいられない思いに駆り立てて〈あははの辻〉まで駆けさせたのは、そのものズバリ、あの声(・・・)のせいだった。
 婆沙丸にとってそれは聞き覚えのある声だった。
 婆沙丸はそれをかつて一度耳にしたことがあった。
 そう、橋の上で腕輪を(・・・・・・・)つけて娘が(・・・・・)笑った時に(・・・・・)
 無論、笑い声と叫び声では全く一緒とはいくまい。だが、それにしても──
 間違いない、と婆沙丸は思った。あれはあの娘の声だ。田楽師の自分は耳には絶対の自信がある。
 その場所に娘がいると確信したからこそ、必死に駆けに駆けたのだ。
 ところが、辻には娘の姿は見当たらず、代わりにやんごとなき公達が打ち伏しているばかり。
 その上、叫び声の主は死体と成り果てた貴人、その人だと言う。
(一体全体、これはどういうことだろう?)
 婆沙丸はいよいよ頭がこんがらがってしまった。
 つまり、やはりこれは兄者の言う通り、〈恋の病〉のなせる技か? 俺は今や聞く声全て(・・・・・)愛しい娘の声に聞こえてしまうのか?
 だとしたら、大変だぞ!
 見るもの全て(・・・・・・)あの娘に見え出さない内に、ここは何としても本物の娘を捜し出さねば……!
「よし」
 婆沙丸は強く心に喫した。
「おい、婆沙丸? そんなところで拳を握って何を独り頷いてる?」
「放っておけって、成澄」
 編木子(びんざさら)を引き寄せながら狂乱丸が誘う。
「それより、どうだ一曲、一緒に舞わないか? せっかくこうして顔を揃えたのだもの」
「おうよ! 待ってました!」
 破顔して、肌身離さず持ち歩いている朱塗りの笛を懐から取り出す検非遺使だった。
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