第102話 白と赤 〈4〉

文字数 2,636文字

狂乱丸(きょうらんまる)さまーーっ!」
「いやぁ! 狂乱丸様っ!」
「きょうらんまるーーーっ! 
 
 境内に湧き上がる黄色い叫び。熱狂の渦の中から、一声、掠れた悲鳴が漏れた。

「ぎゃああ……助けてくれぇ――!」
「兄者!?」
 
 その声の元へ電光石火飛び入った婆沙丸(ばさらまる)、兄の手を掴んで引き上げる。
「ふう、間一髪だったな、兄者? 大丈夫か?」
「間一髪(・・)どころか――見ろ、俺の髪、ゴソッと10本は引き抜かれたぞ! イタタタタッ」
 射千玉(ぬばたま)の黒髪を撫でながら(うめ)く狂乱丸だった。
 京師(みやこ)内裏(だいり)北方、右京にある某神社でのできごと。
 そも――
 田楽は田植え神事から起こった。
 稲の健やかな成長を祈った儀式が邪を祓う修法となり、綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)の装束、独特の楽器で賑やかに奏す歌や踊りが都人の人気を呼んだ。法師からなる本座、俗人からなる新座が連立し、新座を()べる長が初代犬王(いぬおう)、一条堀川の田楽屋敷の主でもあった。この犬王急逝後、跡目を継いだのが愛弟子の狂乱・婆沙の双子の兄弟なのだ。
 そういう訳で、今や祭日に田楽は欠かせない。
 今日も、この神社の冬の大祭とあって田楽舞いを奉納した新座の一行だった。
 ところが、熱狂した観客(ほとんど京師の女子である)が田楽が終わったとたん、祭日用の特設舞台に押し寄せて狂乱丸を引き摺り下ろしてしまった――
 もみくちゃにした挙句、袖は引きちぎる、髪は引っこ抜く、装束を剥ぎ取り、ありとあらゆる場所を手当たり次第障りまくる……
 で、この有様である。
「クソ! あいつら田楽舞いを見に来てるんじゃないな?」
 何とか逃げ延びた宝殿の裏で、着替えの水干を渡しながら婆沙丸はキッパリと頷いた。
「そう! 兄者を見に来てるのさ!」
「ッたく、遠慮も恥じらいもない。これだから女は嫌いだ!」
「あーあ、また兄者の女嫌いに拍車がかかった。――いいよ」
 未だ悶え騒いで沸騰している群れを振り返る婆沙丸。鼓を手に取ると、
「ここは俺が鎮めてくる。兄者はその間にこっそり退散しろ」
「恩に着るぞ、弟! それにしても……」
 この先を兄は心の中で呟いた。
 何故だろう? 同じ顔なのにな?
 観衆は俺が舞うと熱狂して弟が舞うと静謐になる。
 本当に芸とは摩訶不思議なものである。
「あ、兄者、表も裏も〝門〟からは出ないほうがいいぞ」
 心優しい弟は念を押した。
「京娘たちはともかく――境内の門の周囲にもズラリと牛車(ぎっしゃ)が止まっている。さっき笛役が見て来て、教えてくれたよ」
 なるほど、()だし(ぎぬ)して高貴な姫君たちも今日の新座の田楽舞を堪能したようである。これら綺羅綺羅しい檳榔毛(びろうげ)の車のいづれかに引き入れられても、それはそれで面倒である。
 かつて摂政の娘に恋焦がれられたこともある狂乱丸だった。 
    ※出だし衣=車の(すだれ)から装束の袖や裾を出して飾りとする 
    ※檳榔毛車=高雅な貴人用牛車

「わかった。じゃ、あとは頼んだぞ」

 こうして、神社の破れた築地塀から、やっとの思いで抜け出した田楽師兄。
「やれやれ、飛んだ眼に合った……ん?」
 這い出た道で別の喧騒が耳に入って来た。

「やあーい! やーい!」
「このバケモノ娘!」
鉢被(はちかづ)きめ!」
「おまえの醜い顔を見せてみろ!」
「すみません……すみません……」
「おまえみたいなバケモノでも田楽が見たいのか?」
「場違いだぞ! こんなところへやって来て」
「とっとと(やしろ)の巣穴へ帰れ!」
 悪童たちが一人の娘を取り囲んで盛んに囃し立てていた。
「すみません……すみません……」
「謝るだけじゃダメだ!」
「その笠を取って顔を見せてみろ!」
「そーだ、そーだ!」
「本物のバケモノというものを俺は見てみたい!」
「俺もだ!」
「俺も!」
「俺も!」

「おい、そのくらいにしておけよ」

「なんだと? ――あ!」
 声の(ぬし)を見て一瞬で悪童たちの輪が解けた。
「狂乱丸!?」
「狂乱丸だ!」
「先刻まで田楽を舞っていた、あの――京師随一の田楽師だぞ!」
 あっという間に、今度取り囲まれるのは狂乱丸だった。
「ほら!」
 狂乱丸は着替えたばかりの普段着の(たもと)を探って鳥目を出すと悪童の群れに放った。
「これで(いち)へ行って飴や餅を買うといい。俺の奢りだ」 ※鳥目=貨幣、小銭
「ひゃっほー!」
「やったあ!」
「さすが狂乱丸様! ありがとうございますっ!」
 悪童たちが走り去った地面には縮こまって震える娘が一人。
 袖を取られ小突(こづ)かれたせいだろう。膝を折って座り込んでいた。
「大丈夫か?」
「すみません……すみません……」
 助け起こそうと差し出した狂乱丸の手を避けて一層深く地面に額づく娘。
「お許しください。全て私がいけないんです」
 狂乱丸は苦笑した。
「何故、おまえが謝る? 何か悪いことをしたのか?」
「大それたことをしてしまいました。こんな見苦しい身でありながら、貴方様の田楽舞を見たくて見たくて……その思いを押さえられずに、つい社から出て来てしまいました」
「ほう? おまえも俺の贔屓筋か」
「あ! いえ、その――」
「で? どうだった? そんなにまでしてやって来て――少しは見ることが出来たのか?」
「はい!」
 娘は嬉しそうに声を張り上げた。
「その築地塀の隙間から」
「え? あそこ?」
 今しがた自分が抜け出た築地塀の穴を振り返る。
「あんなとこからじゃ俺の舞いを見たことにはならぬ。それに第一……」
 娘を眺めて、思わず狂乱丸は訊いた。
その姿で(・・・・)見えるのか(・・・・・)?」
 先刻、悪童たちが〈バケモノ〉〈鉢被き〉と囃し立てていたが。
 その通り、娘は異様な装束(なり)だった。
 笠を被り垂れ布を長く垂らしている。
 平安のこの時代の女人の旅姿、いわゆる〈壷装束(つぼしょうぞく)〉に似ている。
 但し、眼前の娘が一際(ひときわ)異様に思えるのは、笠から垂らした領布(ひれ)が普通の壷装束なら白紗で、仄かに顔が窺えるのに対し、こちらは漆黒の布なのだ。その為、全く中が見えない。
 物凄く奇異である。

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