第3話 水の精 〈3〉

文字数 5,475文字

 続く十日あまり、婆沙(ばさら)丸は橋の近辺を飽かず徘徊した。が、遂に娘には出会えなかった。
 最初は面白がった兄もこの頃になるともはやからかうどころではなくなった。
 弟は本当に物狂いになってしまったようだ。
 それもこれも、あの胡散臭い橋下(はしした)の陰陽師のせいだ。あいつがくだらない卜占など聞かせるから──
 双子のくせにこの兄は弟と違い占いの類を一切信じない人間だった。夢見勝ちな弟の気質が母に似たのか、はたまた父のそれか、ふと首を傾げる狂乱丸である。
 とはいえ、父も母も兄弟はその顔さえ憶えていないのだが。
 二人は五つの歳に田楽を生業(なりわい)とする先代犬王に買い取られたのだ。
 無論、そのことで両親を恨んでなどいない。
 立派に生き(なから)えて、今こうして一端(いっぱし)の暮らしができるのも習い憶えた芸あってのこと。
 狂乱丸は(そして、多分、弟の婆沙丸も)現在の生活に心から満足していた。
 舞い歌うのも浮かれ騒ぐのも性にあっている。美しい装束も、都の風景も、周りに集う種々雑多な仲間たちも、何もかも。
 これらを絶対失いたくはない。
 そういう風に考えて行って、ふいに狂乱丸は思った。
 こんな幸福に行き着けたのもひとえに〝一人〟でなかったからではあるまいか? 
 親元を離れて辛い修行の日々を耐えられたのは、いつも傍らに自分とそっくりの、分身のような弟がいたから。やっぱり兄弟〝二人〟だったからだ。肉親とはありがたいものだな?
 待てよ、と言うことは──
 今後、もし、おまえ(・・・)に何かあったら? 
 おまえ(・・・)がいなくなってしまったら、俺はどうすればいい?
(なあ? 婆沙丸よ……?)

 その婆沙丸、兄の心配をよそに、ここへ来て一つの賭けに出ることにした。

「これは意外。私に会いたいというのはおまえ(・・・)か? 検非遺使ではなくて?」
 穢に触れて物忌(ものいみ)していた(くだん)の貴人、藤原雅能(ふじわらまさよし)の邸を一人訪れた婆沙丸である。
 中御門富小路に一町家(いっちょうや)を誇るその邸は目を見張るものだった。 ※一町家=一区画全部。約120m四方。
 屋根は、車宿(くるまやど)りや(うまや)に至るまで檜皮葺(ひかわぶ)き。
 本殿に渡殿で結ばれた北・東西・西の対屋(たいのや)
 南には種々の珍しい樹木が植えられ、季節の花々が咲き競う広大な庭が広がっている。
 鑓水(やりみず)を引いた池では反橋や泉殿を巡ってゆっくりと群れ泳ぐ水鳥たちの姿も見えた。
 かくまで豪奢な暮らしぶりは、当家の主・藤原大納言貞能(さだよし)が院の年預(ねんにょ)を長く務めたせいと言う。雅能は一人息子で邸の西の対屋に住している。 ※年預=出納係
 貴族の子息に似合わず(・・・・)学問が好きで未だに大学寮で学び続けていた。
 とはいえ、この雅能が近い将来、父の富を継ぎ、父の位を超えて隆盛して行くだろうことは誰の目にも明らかだった。
 片や、恋の病に侵された婆沙丸には恐れるものなど何もない。胡乱な目で見る舎人(とねり)にしつこく取り次ぎを依頼して、見事、〈(ひさし)の間〉で対面の運びとなった。
「しかしまた……どうして私に会いたいと?」
 舎人同様、頻りに訝しがる雅能だった。
 婆沙丸は率直に打ち明けた。
「私の名は婆沙丸。御覧の通りの下臈、田楽師にございます。本来なら貴方様などとは一生関わりのない身。それが先日の不幸な出来事により偶然にも知り合うことになったのです」
「ふむ。それで?」
「その縁に縋って、お願いがございます。どうか、どうか……貴方様の装束を私めにお貸しください!」
「何と……?」
 突拍子もない申し入れに扇の陰であんぐりと口を開けた貴人の若者。
 構わず婆沙丸は言い切った。
「私は〈水の精〉に会いたいのです! それには、是非とも貴人の装束が必要なのです!」
「〈水の精〉だと──?」
「はい。〈水の精〉は貴人しか襲わないと聞きました。ですから、貴人の風体をして歩けば、ひょっとしてこの私でも行き逢えるかも知れません」
「おまえ……正気か?」
 益々困惑の色を濃くする公達に、屈託なく笑って婆沙丸は続けた。
「貴方様は一度〈水の精〉に遭遇している。その貴方様の装束なら──再び〈水の精〉を惹きつけるのではないかと考えた次第です」
 床に額を擦りつけて婆沙丸は懇願した。
「あの夜、あの辻で出会ったのも何かの縁。どうか、何卒(なにとぞ)、私めに貴方様のお召し物をお貸しください!」

 年若い田楽師の熱意に圧倒されたのか、藤原雅能(ふじわらまさよし)は思いのほか快く自らの装束一式を貸し与えることを承諾した。
 貴人が田楽師風情に自分の衣類を貸すのさえ破格だというのに、その上この公達はその場で手ずから着方のあれこれを伝授してくれた。
 目を剥く舎人たちに命じて香唐櫃(からびつ)ごと持ってこさせると、
直衣(のうし)ではなくて狩衣(かりぎぬ)が好みか? ならば、どうかな? おまえにはこの色が似合うと思うが? おお、そうじゃ、狩衣がそれなら、指貫(さしぬき)はこれ……」
 という具合。 ※直衣=貴人の正装 狩衣=貴人の普段着 指貫=貴人の袴
 取っ変え引っ変えした挙句、ついに着せ終えると目を細めて吐息を漏らした。
「……思った通り、これはよく似合う」
 確かに。
 桜の狩衣、二藍(ふたあい)の指貫。 ※二藍=濃い藍色で若者向けの色
 垂髪のままとはいえ、公達自ら被せてくれた立烏帽子(たてえぼし)に至るまで、貴人の装束を纏った田楽師の少年には匂うような色香があった。
「──……」
 一方、婆沙丸は婆沙丸でつくづく感じ入ってしまった。
(この公卿の息子といい、検非遺使の成澄といい……貴人でありながら身分に拘らぬ、自由で気持ちの良い人間は至る処にいるのだなあ!)
 当世流行(はやり)の西方億万彼方、極楽浄土とやらまで行かなくても、どうして中々こっち(・・・)の世界も捨てたものじゃないぞ?
 元々、婆沙丸が田楽を好きなのは身分の上下を問わず、皆、一体になれるからだ。
 世俗の煩わしいあれこれに拘泥されず、瑣末な一切から解き放たれて舞い歌うあの一時(ひととき)目眩(めくるめ)く幸福感……高揚感……! 
 一度味わうと癖になる。
 実際、家柄も悪くなく将来のある成澄などが田楽に嵌るのもそこら辺に理由があるのだろう。

 装束のお礼に、婆沙丸はそのいでたちのまま田楽を披露した。
 自分に出来ることはこのくらいのものだ。
 抜かりなく(あらかじ)め持参して来た直黒(ひだぐろ)(つづみ)と自慢の喉に、貴人の姿で舞う田楽とは……!
 これを公卿の息子は物凄く喜んでくれた。
「眼福じゃ! いやはや──清瀧会(せいりょうえ)舞童(まいわらわ)にも、御室(おむろ)の今をときめく陵王役の迦陵(かりょう)丸にも退けを取らぬぞ! こんな風雅を味わった人間は京師(みやこ)広しと言えどそうはおるまいよ?」
 舞い終わった後、遠慮せずまた訪ねて来るよう雅能は言った。自分は物忌の身、今暫くは外に出られないから、ぜひ世間の話など聞かせに来てくれ、と。
「果たしておまえが〈水の精〉と出会うことを祈るべきかどうかはともかく、な?」
 ここでふと雅能は言葉を切って庭の棕櫚(シュロ)の木に目をやった。宝前以外で婆沙丸がこの木を見るのは初めてである。
「そうまでして〈水の精〉に会いたがるおまえの気持ちが私には分からぬ。あれは恐ろしい物怪(もののけ)じゃ。おまえは恐しくはないのか?」
「恐ろしくない、と言えば嘘になる。でも──」
 田楽を舞って、薄らと汗の滲んだ額に零れる髪を掻き上げながら婆沙丸は答えた。
「何が何でも俺は会いたいんだ。いや、会わなければ(・・・・・・)ならない(・・・・)……!」
「……会ってどうする?」
「そうだな」
 田楽師は妙な笑い方をした。
「何故、人を殺めるのか訊いてみたい気もします。これは俺の勝手な想像だが──〈水の精〉はそれなりの特別な理由(・・・・・)があってあんな真似を繰り返しているのかも……」
 意味深な口振りに公達は膝を乗り出した。
「ほほう? 何か思い当たることでもあるのか?」
「俺は死体を目の当たりにしました」
 姿勢を正して婆沙丸は言った。
「人をあんな風に(むご)く殺めるなんて……何か理由(わけ)があるに違いない。俺は、〈水の精〉が、酷く苦しんでいる(・・・・・・・・)ように思えて仕方ないのです」
 それきり婆沙丸は床に深く顔を伏せたのでその表情を貴人の若者が窺い知ることはできなかった。
「まあ、何にせよ──上手く行くと良いな?」
 貸してもらった装束を大切に抱えて婆沙丸は邸を辞去した。

「本当に狂ったな、婆沙(ばさら)丸? 昨日までは橋で会った娘とやらを捜し回っていたと思えば、今度は〈水の精〉だと? おまけに、何だ、その格好は……」
 貴人の装束をつけた弟に狂乱丸はそれこそ狂乱の体で詰め寄った。
「田楽師の誇りは何処へやった? 立烏帽子(・・・・)だと? 我等の髪では(もとどり)も結えないのに……!」
 この時代、身分と装束は不可侵の掟だった。
 それぞれ身分や生業(なりわい)に応じて装束が定められていてそれを破る者などいなかったのだ。 常日頃、煌びやかな綾羅錦繍の衣装を誇る田楽師も、傀儡師や声聞師と同じ〈異形の輩〉。
 一生、童形を解けぬ身分──つまりは一人前の〈人〉としてみなされない最下層の(うから)なのである。
 だが、兄の罵倒も何処吹く風。日が暮れるのを待って婆沙丸はその装束(なり)で夜の都へと彷徨い出て行った。

 糸のように細い弦月の夜である。
 月は(おのれ)の貧相さを恥じてか、しょっちゅう雲間に隠れたがった。
 件の〈あははの辻〉を廻ってから、大内裏(だいだいり)の南面する三つの門をうち過ぎる。
 美福(びふく)門……朱雀(すざく)門……皇嘉(こうか)門……
 そのまま進んで西洞院(にしのとういん)に至り、そこから今度は中御門(なかみかど)大路へと上がった。
「もし……」
 呼び止められて振り返る。
 暗闇の中、薄らと浮かび上がった影が一つ。被衣(かづき)姿の女人だ。
 刹那、婆沙丸は、森羅万象、天地神明、(ことごと)くの神仏に礼を叫びたくなった。
 闇の中、自分の袖を引いたその女こそ、紛うことなく、一条橋で出会ったあの娘──
「もし、若殿? 私と同道なさいませぬか?」
 婆沙丸の口を突いて出た言葉は唯一つ。
「会いたかったぞ!」
「あ、おまえ様は、あの時の?」
 娘は頭を振って素早く四方を窺った。
 (さなが)ら、二人のこの邂逅を誰かに見られるのを恐れる風。でなければ、闇に潜む何者かを気にかけているのか?
 それから、むんずと婆沙丸の腕を掴むと駆け出した。
「こっちへ……!」
 勿論、婆沙丸は抗わなかった。
 そもそも、自らこの計画を立てた時から覚悟はできていた。
 娘と再び会うためなら命を賭しても構わない。そして、満願成就、娘と会えた暁には命など惜しむものか!
 婆沙丸は娘が(・・)水の精(・・・)だと(・・)薄々にせよ悟った時から己の命を差し出すつもりだったのだ。

 何処をどう走ったものやら。
 娘は手を引いたまま婆沙丸を一層濃い暗がりへと連れ込んだ。
 被り慣れない烏帽子を打ち、優雅な狩衣の袖を掠って、ガサガサ枝が鳴り、カサカサ薮が(きし)む。
(ここは森だな? しかし、都にこんな森などあったろうか? それとも……)
 この娘は〈水の精〉だから? 物怪(もののけ)だから?
 俺は誘われてとっくに異界へと連れて来られたのか?
 夢とも(うつつ)とも判然としない、あやふやな思いとは裏腹に、自分の手首を掴んだ娘の掌の熱が、これはくっきりと婆沙丸に伝わって来る。

「ここなら大丈夫」
 そう言うと娘は手を離し、慣れた動作で被衣を地面に広げた。
 ポカンとしている婆沙丸をそっと突いて座らせると躙り寄って胸に頭を寄せる。
 実際、婆沙丸が明瞭に記憶しているのはここまで。
 後は頭ではなく体が動いた。
(まずは諸々(もろもろ)の話をしなければならない。)
 婆沙丸は(あらかじ)め手順を考えていた。今回の連続する貴人殺害の真相を見極めるためにも、雅な装束を貸してくれた公卿の息子に宣言した通り、娘に会って真っ先にやるべきことは〈水の精〉の正体の確認……執拗に繰り返される残忍な殺生の理由……
 だが、ええい! そんなのは後だ(・・・・・・・)

 この娘に二十日もの間、想い焦がれ、会いたい会いたいと念じて来た婆沙丸である。
 少年の血は沸騰して、堰を切ったように(ほとばし)った。
 最初は娘に導かれるまま無我夢中。やがていつからか、思う存分、大胆不敵に振舞った。
 娘は柔らかく、暖かく、そのくせせせらぎのように潤っていて、婆沙丸は自分が遠い遠い淵、深い深い淀みに運ばれる心地がした。
 すっぽり嵌って、身動きできない甘美な渦の底へ──

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