第94話 キグルイ 〈10〉

文字数 2,732文字

 ここまで? 遂にこんな処にまで俺を追って来るのかよ?

 ヒタヒタヒタ……

 あの音が、そう、俺のキグルイの根源(おおもと)だ。
 あれに追いつかれた時、俺は完全に狂うぞ?
 どうする、有雪(ありゆき)
 逃げるか?

 ヒタヒタヒタ……

 目を閉じる。
 純白の雪の原が見えた。
 その目蓋の奥の雪原に今日は少女の姿はなかった。
 自分の始末は自分で付けろ。あくまでも一人で戦えということか?
 ままよ。何処へ逃げたとて、所詮、この世に逃げ場なんぞない。
 遠い色、白、純白を脳裏に刻んでから、カッと目を開けた。
 足音のする方向へクルリと身を反転して、真向かう。

 ヒタヒタヒタ……

 果たして。
 自分めがけて掛けて来る沙耶(さや)丸の小さな姿が正面にあった。

「おおい! 沙耶丸――――っ!」
 
 白い袖を振って有雪は叫んだ。

「こっちだ、こっち! 俺ならここにいるぞ!」
「あ! 陰陽師のおじちゃん! 助けて!」
 
 必死の形相で少年は有雪の胸に飛び込んで来た――
「捜していたんだ! 陰陽師のおじちゃん!」
「捜していた? 俺を?」
 (そうだろうとも。)
「大変だ! 婆沙(ばさら)丸が……怪我した……!」

「――」
 
 次の災いは婆沙丸だと? 俺ではなく(・・・・・)
 ええい、

「連れて行け、何処だ?」
「こっち!」
 白烏(しろからす)が羽ばたいて空へ舞い上がる。沙耶丸に手を引かれるまま有雪は走り出した。

   


 堀川通りを下ってちょうど冷泉小路に交わる辻近く。その一画に人垣ができていた。

「どけ、どけ」

 往来に血を流して倒れているのは美しい田楽師だった。

「婆沙丸!」

「災難だったな!」
 取り囲む衆人たちが異口同音にさざめいている。
「こんなことがあるとは!」
「恐ろしいのう!」
 割って入って、有雪が質した。
「俺は身内の者じゃ。ここで、一体、何があったのだ?」
「突然、木が倒れて来たんじゃ!」
 道の横、元は貴人の空き邸だろうか。崩れた築地塀のその向こう、荒れ放題の庭の木を指差して通り掛かりの一人が言う。
「イキナリだった!」
 続けて幾人もが口々に、
「そう、メキメキと凄い音がしたと思った途端――」
「ちょうどその下を歩いていたこの子たちの上に降って来たのじゃ!」
「年上のこの子が小さい方を庇って下敷きになった!」
「そ、そうなんだ、婆沙丸は咄嗟に俺を突き飛ばして……助けてくれた!」
 今まで堪えていた涙がどっと溢れ出して沙耶丸は泣き出した。
「俺……俺……」
 手を揉み絞りながら、
「何が起こったかわからなくて……振り返ったら……婆沙丸が倒れていたんだ!」
「――」
 横臥する婆沙丸の横に松の太い幹が転がっていた。
「見てみろ、中が腐っている!」
「危ないことじゃ!」
「これでは、いつ倒れてもおかしくない!」
「しっかりしろ、婆沙!」
 屈み込んだ有雪に婆沙丸は薄っすらと目を開けた。
「大袈裟だよ、有雪。ちょっとばかり……怪我しただけじゃ」
 田楽師の身の軽さが九死に一生を得た。枯れた松の直撃は免れたようだ。だが、左腕に折れた枝が突き刺さっている。鮮血が滴っていた。
  有雪は枝を抜き取り止血を施した。
 (これが首や胸や腹だったら即座に絶命している……)
 博識の陰陽師は胴震いした。
「戸板じゃ! 戸板を持って来たぞ! さあ、これで運ぼう!」
「手伝うぞ!」
「家は何処じゃ?」
 こういう時は見ず知らずの都人(みやこびと)の暖かさが身に滲みる。

 

 婆沙丸は戸板に乗せられて田楽屋敷まで帰った。
 薬師(くすし)を呼んで、傷をよく洗って薬を塗り、清潔な布できつく巻いてもらう。兄の横に寝かしつけられた。
「兄弟、枕を並べて不甲斐(ふがい)ないことじゃ!」
「みっともないったらない!」
 恥ずかしそうに言い合う双子たちを有雪が宥めた。
「そう言うな。おまえたち双方、大事に至らなかったことを神仏に感謝しろ」
「またしても俺のせいじゃ! ごめんなさい、婆沙丸!」
 ずっと泣き通しの沙耶丸。真っ赤に目を腫らしている。
「俺が、〈(ひがし)(いち)〉を見てみたいなどと言い出すから――」
 即座に庇う田楽師兄弟だった。
「ソレのどこがおまえのせいじゃ? 馬鹿も休み休み言え」
「そうじゃ、そうじゃ。せっかく京師(みやこ)に上って来て、一度も街中に出ないなど勿体無い。何処か、都見物に連れて行ってやれと婆沙に頼んだのは俺だぞ。この所、おまえはずっと俺の看病ばかりしてたから」
「そして、偶々(たまたま)向かった東の市の道すがら木が倒れてきたんじゃないか! 全て偶然じゃ。おまえは何も悪くないぞ!」
「敢えて悪いモノがいるとすれば――有雪だな!」
 矛先(ほこさき)が変わる。田楽師の兄は美しい目を細めて巷の陰陽師を睨みつけた。
「都1の陰陽師が傍についていてこれだものな?」
 勿論、皮肉である。
「何が『見通せない未来はない』だよ! 全然見通せていないではないか!」
「その通りじゃ!」
 弟の婆沙丸も瓜二つの顔で続けた。
「おまえが、日頃の言葉通り未来を予見して警告してくれていたら、俺も兄者も怪我をすることはなかった! 災いを免れたものを!」
「本当におまえは卜占(ぼくせん)一つ満足に出来ない、似非(えせ)陰陽師じゃ!」
「役立たずめ!」
 双子たちは散々悪罵したが、今日ばかりはその元気が嬉しい有雪だった。ひょっとしたら、今頃、この二人は黄泉(よみ)の国の川を渡っていたかも知れないのだ。仲良く綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)の裾を濡らして?
 そうならなくて本当に良かった!
「フン、何とでも言え」
 そこへ足音も荒らく駆け入って来たのは――

「有雪! 狂乱丸! 婆沙丸!」
 
 黒装束、熊の蛮絵も猛々しい天下の検非遺使・中原成澄(なかはらなりずみ)だった。

「おう、安心しろ、成澄」
 振り返って微苦笑する有雪。
「出血の割に怪我の方は大したことないらしいから」
「怪我だと?」
 成澄は怪訝(けげん)な顔をした。
「なんだ、それを聞きつけて戻って来たのではないのか?」
「いや違う。俺が来たのはそんなことじゃない。だが、まあ、良かった……!」
 並んで寝ている田楽師兄弟の顔を交互に眺めてから、その枕元にちんまりと座っている少年に視線を止める。
「そして、こっちはもっと朗報だぞ!」
 満面の笑顔で検非遺使は叫んだ。
「喜べ、沙耶丸! 母者が見つかったぞ!」

「――……」



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