第97話 キグルイ 〈13〉

文字数 2,961文字

「それだあああ!」


有雪(ありゆき)(くし)を引っ掴むと駆け出した。

「え? え?」
 呆気(あっけ)に取られた軽野(かるの)に口早に成澄(なりずみ)が言う。
「大丈夫、いつものことです。何か(ひらめ)いたらしい」
 続けて双子に向かって、
「後は任せたぞ、狂乱(きょうらん)丸! 婆沙(ばさら)丸! 有雪には俺が付いて行くから――おまえたちはここで母者とともに沙耶(さや)丸を見守っていてくれ!」
 身を翻すと検非遺使は陰陽師を追って走り出した。

 

 ああ! 俺はなんと馬鹿だったんだ! もっと早く気づくべきだった!
 振り出しに戻れ、だ!
 俺は既に会っている!
 あの時、もっと真剣に心を寄せて話を聞いてやれば良かったものを!
 だが、今、行く! 
 今、行くから……
 待っていてくれ、どうか……!


「待て、有雪! 俺も行くから!」
 くそっ、あいつ、日頃はのんべんだらりとしているくせに、こういうことになると嫌に俊敏だな?
「おおい、有雪――っ!」
 一町ほど先を飛ぶように走る巷の陰陽師の白い背を追って、検非遺使尉(けびいしのじょう)も駆けに駆けた。
 空には冴えた霜月の月が浮いている。

 堀川通りを下る。
 幾つもの辻を過ぎり、築地塀を掠め、見えて来たそこは、五条坊条の松原の橋だ。
  
  (いた……!)
 
 この深夜、橋の中央に被衣(かづき)姿の女が立っている。

「ばあ様! いいや、母者(・・)!」
 
 走りながら有雪は叫んだ。
「連れて来たぞ! おまえが待ち望んだ大切な息子を!」
 
 遠く被衣が揺れた。


「さあ、 受け取れ―――っ!」
 
 力いっぱい櫛を投げつける――

 
 白閃……!

 有雪の目が眩んだ。
 ぼやける視界。だが、彼方に佇んでいるのは確かに母者だ。
 刹那、思った。
 どっちのだ?


   母者――――っ!
   会いたかったぞ――…… ……

  

   


   雪よ。雪。
   
   この世の汚濁を消し去る純白の雪。
   私が最も美しいと思う物。
   おまえにあげられるのは名だけじゃ。
   でも、名なら、いつも供に在れる。
   一生ついている。

   
   どうか沢山の人に呼んでおもらい。
   形は消えても思いは消えない。
   呼ばれるたびに……

   ほら、また、誰かが……この名を……

   
   
 




 「ゆき……有雪?」
 
 肩を揺さぶられて有雪は目を開けた。
 そこには見慣れた検非遺使の顔があった。心配そうに覗き込んでいる。
「う? 何があった? 俺はどうなったのだ?」
「それはこっちが訊きたいわ! おまえを追って駆け続けていたら――」
 烏帽子(えぼし)に手をやって成澄、
「この橋の手前でおまえがいきなり櫛を――沙耶丸の母者の櫛を投げた……!」
 途端に稲妻(いなづま)のような光が奔って、流石の検非遺使も地に突っ伏したそうだ。
 どのくらいそうしていたかはわからない。
 恐る恐る顔を上げて、橋の(たもと)で倒れている陰陽師の姿を見とめ、こうして走り寄った。
「おまえが見たのはそれだけか、成澄?」
「え? ああ。他に何があるよ?」
 起き上がると有雪はゆっくりと橋の中央へと歩いた。
 被衣姿の女の立っていた辺り。

「見ろ!」
「あ!」

 橋板の隙間にぴったりと嵌め込んだようにあの櫛が挟まっていた。

「これでよい。こっちの迷い子も、無事、母者の元へ帰ったようじゃ」
「?」
「沙耶丸に取り付いていたのは〈櫛〉……いやもっと正確に言えば〈(ひのき)〉だったのさ!」
「……どうも、よくわからぬ」
 一層首を捻る検非遺使。
「相変わらず鈍いな、成澄。この橋は何で出来ている?」
 巷の陰陽師は足でとんとんと橋板を鳴らした。
「?」
()じゃ。多分、紀州から切り出した大木だったのだろう。紀州……紀の国は木の産地。元々は木州、木の国と書いたほどだ」
 自慢の博学を披露してから、
「ところで、この橋、架け替えられてまだ新しいな?」
「おう、1年前に完成したばかりの新橋じゃ」
 今度自慢げに胸を張るのは衛門府官人の官位を有す成澄だ。
「それに先立つ数年前、帝の命で紀州の山の大層見事な巨木を京師(みやこ)まで運んだ。そりゃあ大事業だったと聞くぞ。 そうして、見ろ、この――いまだ木の香も(かぐわ)しい新橋となってここに架けられたのだ!」
「――」
 これで全て合点が行く。
 俺が見ていたものは全て、この木の(・・・・)辿った光景(・・・・・)だったのか。
 切り倒され荷車に載せられた。
 その際しっかりと結わえ付けられた荒縄の感触まで有雪は見知っている。
 そう、不必要な枝が切り落とされる場面も。
 伐採に関わった(きこり)那図(なず)――沙耶丸の父――が削り、最愛の妻に与えた櫛はその大木の枝から作ったものだった――
 京師への運搬の際に邪魔になると言って切り払われた枝……!
 その後、父が逝き、母は京師に去った。
 独りになった少年は母が残して行った愛用の櫛を肌身離さず持ち歩いた。
 離れ離れになり母に会いたい人間の子の思いと、同様に母――親木――を恋い慕う枝木の思いが同調した。いつしか一つに凝り固まった。
「まさか……」
「まあ、信じる信じないはおまえの自由だがな」
 だが、俺は見たような気がする。有雪は胸の中で付け足した。
 白く輝く光の中で、一瞬だが、母の胸に飛び込む少年の姿を。

   母者――っ!
   会いたかったぞ――……

「しかし、おまえ(・・・)も悪いぞ? 最初、老女の姿で出て来るから――」
 橋の欄干に手を置いて囁いた後で、有雪は微苦笑して首を振った。
 いや、待てよ。おまえ(・・・)としたら実年齢(・・・)で化現したのだろうな? 
 それなら仕方がない。
 樹木の年輪で言えば、確かにあのくらいの老女になるだろうから。



 田楽屋敷の門前では田楽師兄弟が二人を待ち構えていた。
「沙耶丸はもう大丈夫だ!」
 検非違使と陰陽師に晴れ晴れとした笑顔で告げる。その姿たるや宛ら一対の牡丹のよう。
「さっき、突然、熱が引いたんだ!」
「今はもうスヤスヤ寝息を立てているよ!」


 薄く開けた寝所の(ふすま)の向こう、安らかな表情で眠っている少年の姿を成澄と有雪は確認した。
 抱きしめて寝入っている母・軽野の安堵の顔も。
「いい眺めだなあ! この世にこれ以上美しい光景があるとは俺には思えないぞ!」
 涙声で言ってから検非遺使は勢いよく振り返った。
「改めて飲みなおすか、有雪! 今度こそ祝杯じゃ!」
「……いや、いい」
「え?」
 意外なことに巷の陰陽師は首を振った。この男が酒を断るなど信じられない。
「俺は……眠りたい。もう寝るよ」
 今夜こそ、ぐっすりと。夢など見ずに。

 

 とはいえ、その夜も有雪は夢を見たが。
 抱き合って眠る母子の夢だった。
 それが、沙耶丸と軽野なのか、はたまた檜なのか、判然としなかった。



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