第12話 花喰い鬼 〈3〉

文字数 6,877文字

 深更、薄月夜。
 とある貴人の屋敷──

 さやさやと風が鳴っている。
 やがて、風とは違う、幽き音が混じった。
 衣擦れの音……忍びやかに裸足で縁を渡る音……
 寝所と思しき東の対屋(たいのや)(しとみ)は開いていた。
 風を入れるためか、唐戸もまた、細く開いている。
 その僅かな隙間から滑り込んだ影には三本の角があった。
 几帳(きちょう)の影、絹の夜具に(くる)まれて眠っているのは美しい貴人。
 室内に灯はないが、薄い月のおかげで烏帽子をつけた麗しい輪郭は見て取れた。
 鬼は蹶然と刃を振り上げるや、夜具の上から、貴人の腹に突き立てた……!
 くぐもった鈍い音が奔る。
 同時に、光が飛び込んで来た──
「見たか、成澄! これが鬼の正体ぞっ!」
 手燭を掲げているのは双子の田楽師の兄、狂乱丸。
 その背後に立つ、検非遺使、中原成澄。
 流石に今日は日頃の蛮絵装束ではなく、香染めの狩衣に二藍の指貫(さしぬき)というくだけた格好だったが。
 鬼の顔が引き攣った。
「成澄? 馬鹿な──」
 今経っても小刀で貫いた夜具の方を振り返る。
 と、その夜具を払ってむっくり起き上がったのは田楽師、弟の方。頭には常にはない烏帽子が乗っていた。
「ヒヤー、危ないところだった! この役、流石にヒヤリとしたぞ?」
 懐より引っ張り出した丸めた(しとね)には小刀が刺さっている。
「これが〈鬼〉のやり口だ。(ねんご)ろになった男の屋敷を、深夜訪れ、寝入っているその腹を突いてから、存分に蹴り殺すのよ。そうだな、十六夜姫(・・・・)?」
 狂乱丸は改めて、手燭で姫を赤赤と照らした。
「──」
 呆然として言葉も出ない検非違使。
 だが、眼前にいるのは紛れもない、あの十六夜(いざよい)姫である。
 濃紅の小袿(こうちぎ)の下は、やはり今夜も生絹(すずし)(ひとえ)に紅袴──
 この装束は別名〈裸姿〉と呼ばれるだけあって桃色の乳首が透けて見えるほどだ。
 そうして、頭には三本の角……
 顔が常のまま愛くるしいだけに、一層見る者の肌を泡立たせた。
 成澄は姫から目を逸らすと、掠れた声で田楽師兄弟に質した。
「おまえたちは何故……姫だと(・・・)わかった(・・・・)?」
「まずは匂いから」
 狂乱丸は言う。
「俺の鼻は人より()く。先刻、藤原顕方様の寝所に入ってすぐ、俺は独特の匂いを嗅いだ。貴人の屋敷特有の伽羅(きゃら)や練り香などとは全く違う匂いだった。
 帰り道、通った東の市でもそれと同じ匂い(・・・・)を嗅いだ。その際は、直前に殺人者がそこを通ったせいかと思ったが──」
 いったん言葉を切って、首を振る狂乱丸。
違った(・・・)。いや、同種の匂いという意味なら当たっていたのだが。
 つまり、その匂いとは……()だったのさ!
 飴屋が飴を煮る匂いが市の中を風に乗って漂っていたのだ!」
 吃驚して成澄は聞き返した。
「まさか? 日頃から飴が好物だという姫の──その残り香だとでも?」
「いや、残り香なんて、そんな半端なものじゃない」
 狂乱丸は十六夜姫の頭を指差した。
「見ろ! 姫はご自分の髪を角に塗り固める(・・・・・・・)のに飴をお使いになっておられるさ!」
「!」
それだけではない(・・・・・・・・)
 今度進み出たのは、双子の弟、婆沙(ばさら)丸。
「姫様、御身の内に隠し持っていらっしゃる花をお見せ下さい。そこにあるのは全て噛み跡のある花(・・・・・・・)のはず」
 姫の袂に手を伸ばし素早く抜き取る。
 パッと一面に花が舞った。
「成澄、よく見ろ。これは食いちぎったのではない。元々この花はこうなのだ(・・・・・)
 俺と兄者は姫の屋敷の庭で、この花の咲く木を見つけたぞ!」
「サンショウバラと言うのさ」
 いつからそこにいたものやら。
 薄汚れた白装束。肩にはこれまたお揃いの(・・・・)白い烏まで止まらせて、橋下(はしした)の陰陽師の登場である。無位無冠、(ちまた)の陰陽師、有雪(ありゆき)とはこの男のこと。いつの頃からかちゃっかり田楽屋敷に寄宿している。一見、貴公子然としていて、博識が売りなのだがどこか胡散臭い。
 その陰陽師が、厳かに説明し始めた。
「このサンショウバラ、元々は唐土の産なり。実は食用に、根は生薬になる。向こうでは〈刺梨〉とも書くそうだ。花びらの一部が欠けるのは持って生まれた性質だと。さても、珍しいことよ!」
 陰陽師は足下の一つをつまみ上げてつくづくと見入った。
「ふむ? 我が国では東国に自生すると聞いたことがあるが──京師(みやこ)にもあったとはなあ!」
「都にはない。父が東国から持ってきた花なれば……」
 三本角の花喰い鬼がとうとう口を開いた。
 
「我が父なる人は東国の生まれ。院に仕えていた北面と聞く。尤も──私が父について知っているのはそれだけじゃ」 
※北面=警備の武士。院の御所の北面に詰め所があったのでこう呼ばれる。
 顔も知らぬ、と十六夜(いざよい)姫は笑った。
「……その昔、坂東の地から上って来た若武者があった。恋に堕ちた都のやんごとない姫に愛の証として、故郷より携えてきた花苗を贈った。若い恋人達は二人して手ずから庭に植えて、根付くのを心から祈ったそうな。さても、花は無事根付いたが、皮肉なものよ。若武者の愛の方が早くに枯れ果てたと見える」
 京師(みやこ)には百花繚乱、目を惑わす美しい姫たちがいる。
 心変わりした若武者の足は遠のき、遂に、再び姫の屋敷を訪れることはなかった。
 一方、恋人に捨てられたことを当の姫は最後まで信じようとはしなかった。
「物心ついて後、私が父のことを問うたびに母様は言ったものじゃ。凛々しい父君に懸想した鬼が奪って行ったのだ、と」

   ── 鬼などいるのか、母様?

   ── いるとも。その証拠に、ほら、お庭の花をご覧。皆、食い破られておるぞ。
     この花は父君が私に下さった花。
     それ故、私ばかり愛しがるのを憎いと言って、
     嫉妬に狂った鬼めが、花が咲くたびやって来て、これ、この通り……
     夜の内にすべて食い荒らすのじゃ。

   ── 怖い……母様……

   ── おお、怖いとも! 
     父君はある夜、その鬼を成敗すると言って追って行かれた。
     そして、それきりお戻りにならない。きっと、囚えられてしまったのじゃ。
     父君を奪い取ってもまだ鬼は気がすまないと見える。
     今でも、この木が花をつけるとやって来て、食いちぎっていくものなあ?
     本当に、この世に鬼ほど恐ろしいものはないぞ。
     十六夜や、おまえも()には充分気をお付け。

   ── はい、母様……

「私が母様の言葉に本気で頷いたのは十かそこらまでじゃ。それでも、母様が死ぬまで、この話を聞くたびに頷き続けたのは、あんまり哀れに思えたから──」
 本当はとっくに鬼などいないと気づいていた、と姫は哂った。
「鬼などは絵空事。物語の中だけじゃ。父に捨てられた母が自分の怨みや悲しみを紛らわすために思いついた嘘に過ぎぬ」
 姫は目を伏せて、足下の、自分が庭から摘んで来た花たちを眺めやった。
 再び、昂然と白い顎を上げると言った。
「私が本当に鬼がいる(・・・・・・・)と知ったのは、今年になってから……初めて、(おのこ)に恋してから……」
 あんなにもお優しかった源匡房(まさふさ)様がフッツリと来なくなった。
 他の姫に心を移したのだと風の噂で知った。
「その時、私は鬼がこの世にいることを知ったのじゃ。何処に? 私の内に……私の中に……私こそ鬼じゃ(・・・・・・)!」
 姫は握った小さな拳を透けて見える胸の上に置いた。
「この愛しさ……憎しみ……愛物の血肉以外では(なだ)められない……!」
「十六夜姫──」
「鬼となった私は、今生無二の匡房様を蹴り殺してやった!」
 見開かれた姫の瞳は皓皓として、凍った月のように煌いている。
「あんな気持ちの良いことはなかったぞ! 匡房様は血も肉も、骨まで、私のものじゃ!」
「な、ならば、せめて──」
 狂乱丸が乾いた声で質した。
それで(・・・)良かったではないか! 何故、そこで(・・・)終わりにしなかった?」
 婆沙(ばさら)丸も、いったん唾を飲み込んでから、兄の言葉を継いだ。
「その通りだ。姫、あなたは他に三人も(・・・・・)襲っている。今日だって、こうして──成澄の屋敷にやった来た」
「田楽師が馬鹿なことを聞くわ」
 蔑んだように貴人の姫は言う。
「一度〈鬼〉になったら二度と〈人〉には戻れぬ。そんなこともわからぬか?」
 唇から薄桃色の舌を零して鬼は舌舐りをした。
「あの心地良さが忘れられない。美しい男の腹を裂き、柔らかな肉の上で踊り、熱い血で足を濯ぐ……匡房様以外の男に恨みなどないわ。ただ、欲しただけじゃ。鬼になった私の心と体が」
 きっぱりと十六夜姫は言い切った。
「ああ! もはや私は身も心も……あの味(・・・)なしにはおさまらぬ……!」

「憐れな……」
 婆沙(ばさら)丸は歯の間から息を漏らした。
 陰陽師の有雪も頭を振った。
「まさしく鬼に獲り憑かれておる……」
 狂乱丸は、恍惚として微笑んでいる姫から背後の検非違使へ視線を移した。
「さあ、成澄、もう充分だろう? これ以上何を聞く必要がある? 早く姫を絡め捕れ!」
 ところが、この後、一同が聞いたのはゾッとする音だった。
 床に投げ出された大刀の音──
十六夜(いざよい)姫よ、俺で気が済むなら好きにしろ」
 言って、成澄は横臥した。
「な、何だと?」
「血迷ったか、成澄?」
 屈強な検非遺使の意外な行動に居合わせた全員、色を失った。
「俺は構わぬよ。こんな俺の……不浄な体で姫を喜ばすことができるなら、それも良い」
 床で成澄は笑う。
「俺はもう散々っぱら浅ましいものを見て来た。これ以上見ずに済むなら──今宵、愛した女に殺されるのも一興じゃ」
 更に、独り言のように呟いた。
「思えば、今日まで生き永らえたのも、単に俺が自分で自分の命を絶つ勇気に欠けていたまでのこと。そんな愚かな身が姫と契ったのも何かの縁だ。いや、こうなってみると、俺は姫に殺されるために生きて来たような気もする。だから──俺は、姫に殺されても良い」
「何てこった! 成澄? おまえも鬼に獲り憑かれた(・・・・・・・・)な?」
 橋下の陰陽師は舌打ちして吐き捨てた。
 双子たちも半ば驚き、半ば呆れて、口々に叫ぶ。
「おまえがそんな腑抜けだったとは!」
「しっかりしろ! 早く正気に戻れ!」
「俺は正気だ!」
 検非遺使は、日頃懇意の仲間に向かって声を荒らげた。
「浮かれ生きているおまえたちに何がわかる? 俺はとっくに……こんな世に愛想が尽きているんだ!
 思えば、姫に殺された男たちは皆、至福の顔だった。長いこと、俺はそれが不思議でならなかったが。
 今こそ、わかった! 連中は極楽を見たのだ! 十万億土の浄土とやらを愛しい姫に殺されて……
 だから──ならば、俺も、この成澄も、姫よ、その可愛らしい足で存分に……蹴り殺してくれ!」
「アーハハハハ……」
 雷鳴にも似て、鋭い笑い声が寝所を震わせた。
「あな、嬉しや! 検非遺使様もこう言っておられる。さあ、この上は卑しい下郎どもは去れ! この殿御も私のものじゃ!」
 花を飛ばして、床に打ち捨てられてあった大刀に跳びつくや、十六夜姫は鞘を払った。
 成澄は固く瞼を閉じたまま微動だにしない。ただ、刃の振り降ろされるのを一心に待っている。
 今度こそ、とばかり姫は細い腕を伸ばして成澄の腹へ大刀を突き立てた──
「成澄っ──!」
 一瞬早く、狂乱丸の袖が揺れて、手燭が飛んだ。
 白閃……
 姫の頭が炎に包まれる……
「ギャッ!」
 凶行を止めようとして、咄嗟に投げつけた燭の火が姫の頭部に当たり、髪を塗り固めていた飴もろともアッという間に燃え上がったのだ。
 手燭は姫に当たった後、弾けて床の成澄の上に落ちた。
「アツッ!」
 火の粉を浴びて飛び起きる成澄。
 婆沙丸が夜具を引っ掴んで床を転がる燭に被せて炎を消した。
 その間にも、姫は──
「熱い……熱い……!」
 姫は蝋燭のように三本の角を燃え立たせながら、踊るような足取りで部屋を抜け、縁から庭に転げ落ちた。そのまま蹌踉(よろ)めきおろめき、月を映して涼しげに澄んだ池へと走る。
 やがて、得も言われぬ清らかな水音が屋敷中に響き渡った。
 花食い鬼が、自身を池に沈めた音だった。

 十六夜姫の乳母は姫の狂気を知っていた。
 中秋の名月の夜、最初に源匡房(まさふさ)を襲って戻って来た時に全てを察したのだ。
 だが、その後も、何に使うかを知りながら大鍋で飴を炊き、辻に牛のいない車を停めて、自分好みの男を漁る姫に協力し続けた。
 母の代から使えてきた稲目は、恐ろしくもあり憐れでもあり姫を止められなかったと、引き出された使庁の白石を敷いた庭で泣いて告白した。
 さればこそ、姫が検非遺使の中原成澄を引き込んだ時には、流石に今度ばかりは身の破滅だと悟ってあれほど恐れ慄いたのだ。

「おまえたちが一緒でなかったら、俺はあそこで殺されていたろうな?」
 後日、月待ちの夜。
 一条堀川の田楽屋敷で成澄は率直に認めた。
「だが、あの時は、真実、そうしたかった。姫に殺されたかったのだ。何故って? 口では上手く言えぬ。姫自身も言っていたが、血肉でしか贖えない──そんな感覚がフツフツと沸いてきて俺を虜にした。
 身を滅せられることの……目眩(めくるめ)く快感……残酷な喜びを覚えて……煉獄の火に焼かれる嬉しさ、とでも言えばいいのか? とにかく、あの夜ばかりは蛾が篝火に飛び込む気持ちがわかったよ」
 成澄は庭を眺めやった。田楽師の庭には豪奢な池などなかったが。
「既に俺は姫と契っていたから……死も目合(まぐはひ)も同一のものに思えた。姫の与えてくれるものは全て貪り尽くしたかったのさ」
 一気に盃を呷って、更に成澄は続けた。
「十六夜姫はあの時、俺にとって限りなく美しい、身も心も焦がし尽くす炎だったのだ。実際、燃えてしまったのは姫の方だったが……」
「言うな。もうそれ以上、言うなよ、成澄」
 兄の田楽師は、儚げな紫苑色、吹き寄せ文様の袖を振って検非遺使の言葉を遮った。
 友の懺悔を聞くのが辛いのではない。姫の名を呼ぶその声を聞きたくなかった。
 そこには未だ鎮まらない恋の熱が燠火にも似て、確かに燻っていたから。
「改めて絵解きをするまでもないが──十六夜姫の三本の角は鉄輪(かなわ)を模したものだ」
 例によって、人の心の機微などには頓着せず橋下の陰陽師が言う。 
「昔物語が好きで精通していた姫は、女が鬼と化す(くだん)の話を読んでいたはず」
「〈宇治の橋姫伝説〉……?」 ※鉄輪=五徳。鉄の輪に三本の足がついた、火鉢に載せ鉄瓶をのせる。
「そう。あの中では、女が鬼に化けるとき鉄輪(・・)を被って角と為す。鉄輪の足は三本じゃ。それで、鬼になる正当な儀式として、どうしても角は三本(・・・・)必要だった。
 とはいえ、小柄で華奢な姫にとって本物の鉄輪を被って男の屋敷へ赴くのは体力的に不可能だ」
「だから?」
 感に耐えぬと言う風に婆沙丸が声を上げた。
「代用として? 飴で自分の髪を三本に塗り固めたのか……」
「それにしても」
 有雪は珍しく深く溜息を吐いた。
「今も昔も女の情とは恐ろしいものよ。あの可愛らしい姫があそこまでするとは! 目の当たりにした今でも俺は信じられない。ブルルル……今後、恋占いには安易に手を出さないようにしよう」
 女に限らぬさ(・・・・・・)……
 狂乱丸は知っていた。
 愛する者を失った時……奪われた時……人は鬼になる(・・・・・・)
 鬼の正体が十六夜姫だと、俺が見破ったのは、あの時、懇意の成澄を盗られた嫉妬に狂って、俺自身、鬼になりかけていたからではないのか?
 とすれば──
 ひょっとして、飴などではなくて、単に俺は同類の匂い(・・・・・)を嗅ぎ取っていただけなのかも?
「──」
 夜の闇の奥深く、同じ色の射千玉(ぬばたま)の髪を三本に分けてそそり立てている自分の姿をそっと思ってみる狂乱丸だった。
 松虫の声がして、石塔の上にいつの間にか二十三夜の月が昇っている。


          第三話 《花喰い鬼》   ── 了 ──
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み