第2章 第6話

文字数 1,319文字

 緑に囲まれた北鎌倉駅に降りる。思ったよりも暑くない。目を閉じて濃い緑を胸いっぱいに吸ってみる。朝の不安と緊張が嘘みたいだ、鎌倉の霊気に触れたせいなのだろうか。

 彼女は鎌倉に来るのは中学の遠足以来と言う。俺と違い彼女は克明にその遠足を憶えており、建長寺、長谷の大仏、鶴岡八幡宮などを回ったらしい。

 駅を出て最初の目的地の東慶寺に向かう。
「このお寺って、江戸時代『縁切り寺』で有名だったんだよね?」
「その通り。群馬の満徳寺と共に幕府公認の縁切り寺だったんだ。今で言う女性側からの離婚を取り持つ家庭裁判所みたいな。」
「へーー。早乙女くんよく知っているね。ひょっとして調べてきてくれたの?」
日本史塾講としては常識なんだけど……
「これ受験に出るぞ!」
「マジ? 憶えておこー」

 電車でのカップルムードは一変して修学モードに。そして知らぬ間に俺は塾講モードとなっており……
「これから拝観する仏像、特に『水月観音坐像』はしっかり見て欲しい。その名の通り、水面に映った月を見る姿なんだけど、何故か日本では鎌倉周辺でしか見られないんだ。その辺りをレポートに織り込めば、先生も納得のレポートになると思うぞ。」
「うん、わかった。楽しみだよ。なんかいつの間にか日本史の成績も早乙女くんに抜かれちゃったねーー」
「お、お前のお陰だって! さ、行こうぜ!」

 この仏像は事前に拝観予約が必要だった。そのことを彼女に話すと
「早乙女くんの人気の秘密がわかったよーー マメ! うん、それはモテるわーー」
「そんな事ねえよ。ただ俺も観たかっただけだしーー あ、こっちだ星野。」
 
 正直仏像に興味は無い。むしろこの若さで興味がある方がどうかしているのでは。だが、この水月観音坐像を一目見て、唸り声をあげてしまうーー

 一言で言うと、『可愛い』。これまで何となく見てきた仏像の中でも、ダントツに可愛いのだ! しかも名前が『水月』って、星野美月の美月と被ってないか……
「なんか、すごくキュートだよね! こんな仏像初めてだよ。」
「だよな。これは京都では見られないわ。鎌倉新仏教らしさが垣間見れるわーー」
「ねえ先生、これも受験に出ますかね?」
「出ることを祈ろう。なーむー」

 二人で肩を揺らしながら笑いを堪える。そんな俺らを見つめる仏像が笑顔で見守ってくれている気がする。

 俺はレポートには鎌倉国宝館の運慶作の初江王坐像を書く予定だと言うと、彼女はこの水月観音坐像を書きたいと言うのでどうぞどうぞ、と勧める。
 北鎌倉の山寺であるこの東慶寺を二人で散策してみる。話題は主に鎌倉時代の話。まさか女子とこんなに真剣に鎌倉仏教について語る日がくるとは思いもよらなかった。
 流石、読書が趣味の彼女のこの時代の透察は深く鋭く、現役日本史塾講の俺も知らない事も多々あったりする。

 これは最早『デート』では無い。『同志』による切磋琢磨の旅だ。相手の知らない事を語り、己の知らない事に耳を澄ます。どんどん己が研かれていくのが分かる。それは彼女も感じてくれているのだろうか。

 夢中で話し続ける彼女を見つめる。これまで付き合ってきた女子達との時間が途轍もなく無駄な時間であった事に気付く。何故もっと早く星野美月と……
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