第2章 第7話

文字数 1,906文字

 思いの外東慶寺で過ごす時間が長かった。いや俺ら的にはそんなに時間が経過しているとは思いもよらなかった。時計を見ると、既に一時を回っていた…

「本当はこの後建長寺、鶴岡八幡宮、それから鎌倉国宝館と思ってたんだけど……これは全部回るのはキツいかも。腹も減ったしーー」
「そうだねーー お蕎麦、食べたいな。」
「蕎麦…… やっぱ地味だなお前…」

 と笑いつつ、俺たちは鎌倉街道を若宮大路に向けて歩き始める。この辺りは緑が多く木陰が心地よい。空を見上げると変わらぬ晴天に聳り立つ入道雲が眼に眩しい。

 鎌倉街道沿いの蕎麦屋に入る。高校生の身分では不相応な店構えとお値段の店だ。土曜日の昼下がり、観光客でそれなりに混んでいるが十分ほど待つと席に通される。
 俺は天麩羅蕎麦を、彼女はとろろ蕎麦を注文する。

「早乙女くん、お蕎麦なんかじゃ足りないでしょ? 運動していたし。」
「あーー、でも最近運動不足だしーー、こんなもんでしょ。」
「やっぱり、優しいね、モテヲ君は。」
「今日はやけにそこに食いつくな?」
「だって… 私の… 初めての男子とのお出かけの相手だし…」
「そっか、俺が星野の初めての男――」
「なにそれ! いやらしい! 言い方!」
「いや、俺もお前が初めてだよ。」
「へ……な、なにが?」

 顔を赤くして星野美月が上目遣いで俺を見る。
「一緒にいて、自分が成長するって言うか、高まるって言うか… 影響を受ける、って言うか刺激を受けるって言うか…」
「あ、それそれ! 私もすごく感じている。お寺を男子と一緒に行ってどうなるかと思ってたんだけど。」
「どーなると予想してたんだよ?」
「んーー、それは『知らぬが仏』よ」

 出てきた蕎麦を啜り、キッチリと割り勘にする。正直味は憶えていない。それぐらい俺は話に熱中し、星野に夢中になっていたのだ。

 外の暑さに反比例しかなり懐が寒くなる。俺も彼女もバイトをしている訳も無く、小遣い内でのやり繰りな訳で、タクシーの様な贅沢は出来ない。徒歩で鎌倉国宝館に向かう。途中切り通しの跡などを見てはそこで語り合ったりしているうちに、目的地に到着する。

 木造初江王坐像は元々は円応寺が所蔵していたのを鎌倉国宝館に寄託したという、国重文の彫刻らしい。
 運慶の作、ではなく慶派の流れを汲む仏師の幸有という人の作だということが判明しているようだ。
 実際に見てみるとその迫力に思わず息を飲んでしまう。疚しい事があれば即座にそれを見抜かれてしまいそうだ。そんなオーラをこの仏像から感じてしまう。

「初江王かあ、初めて知ったよ。地獄の十王の一人なんだね。ところで早乙女くん…」
「なに?」
「初江王って、十王の一人だから、『仏』ではないのでは? この像は『仏像』ではなく『地獄王像』なのでは? 従って、課題の対象とはならないのでは?」
「そ、そんなここまで来て……正に『知らぬが仏』だな…」

 地獄の王の前で肩を寄せ合い忍び笑いをしてしまう。俺たち地獄に落ちるのだろうか……

 国宝館を出て、これで二人の課題は終了だ。あとは帰宅後それぞれレポートを書き月曜日に提出すれば良い。
 日は暮れようとせず時計を見ると三時をちょっと過ぎたくらいだ。今から帰るのはちょっと早い、と考えていると。
「『腰越状』の腰越の海が見たい。」
 とタイミング良く彼女が言い出したのでマップで調べると、鎌倉から江ノ電に乗れば『腰越』に行けることが分かり、駅に向かう。

 座席に座り車窓の景色を眺めているうちに意識が遠くなっていく。いかんいかん、ちゃんと起きていなければ、とシャンと背筋を伸ばすと、不意に肩に重みを感じる…
 そっと隣を伺うと、星野美月が俺の肩に頭を乗せ船を漕いでいる。顔を少し近付けるとシャンプーの匂いが堪らなくいい匂いである。
 俺は彼女の頭に左の頬を寄せ、そのまま目を閉じる。

 数ヶ月前の憂鬱な日々が嘘のようだ。好きでもない相手との将来、自由なき日々の生活、経済的な不自由の危惧。そんなことに頭を悩ませ苦しんでいた日々に比べ、今この瞬間の幸せはなんなのだろう。
 目を閉じたまま彼女の感触を、彼女の匂いを脳裏に刻み込む。いつまでこの幸せが続くかわからない。いつ元いた世界に引き戻されるかわからない。ならばせめて今この瞬間を…

 スマホが鳴った。俺のではなく、彼女の。目を開けると次が腰越駅である。
 俺にもたれていた彼女がハッと顔を起こし俺を見上げる。トロンとした眠そうな目が潤んでいる。
「ゴメン、落ちてたーー」
「てか、お前よくアラームセットしたな……危なく藤沢まで行ってたわ。」
「やっぱ早乙女くんも落ちてたんだーー良かったー」
 電車が止まり、俺たちは腰越の駅を降りた。
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