第25章(3)

文字数 3,832文字

 3人でホテルを出ると、一家所有のリゾマンは目と鼻の先だ。

 90年代築バブル仕様のエントランスは不必要なほど豪華で、管理人が忙しく掃除に精を出していた。1階奥には温泉を引き込んだ共用大浴場やサウナ、アスレチックルームや小さな図書館などがあり、食事さえどうにかなれば一日中外に出なくても暮らせないことはない。引き篭もりには最高の環境だろう。

 小春たちはエレベーターに乗り込み16階へと向かう。一家所有の部屋は115平米の3LDKというゆったりとした造りだ。共用サウナがあるのになぜか各区分にもサウナルームが付いているというバブリー仕様で、小春が知る限り一度も部屋のサウナルームが使われた形跡はなかった。

 20年前に、まだ熱海が廃れていたころ、リゾマン市場がほとんど崩壊していたときに底値で買った中古の部屋で、2000万円くらいだったと聞いている。いま市場に出せば7000万円は付くらしいが、それでも東京の市場と比べるべくもない。多数の共用設備が付いているだけに管理費が高く、安いからといって買うようなものでもないようだ。ちなみにこの部屋も桜丈ホールディングス所有だから、高額の管理費・修繕費・固定資産税・熱海独自の別荘税などはすべて会社の経費で払っているという。


 リビングに入ると、小春と小雪はオーシャンビューの窓を見渡しながら口にする。

1年ぶりになるのかな〜。
ほう、男の一人暮らしのわりに、水回りも含めて綺麗に使っているようだな。かつて世界有数の掃除人として一世を風靡した私が手を貸すまでもないようだ。
自炊はほとんどしてないからね。
正直、変なデザインが多いうちの自宅より、こっちの普通な感じが暮らしやすいよ。自宅もその辺の狭いマンションで良かったのに。
ぼくもそう思うんだが、大人の色々な事情が重なってね……。それよりこっちだ、来てくれ。
 父親は、サウナルームの前へと2人を誘った。
南京錠? こんなもの付いてたっけ?

 サウナルームと言えば聞こえはいいが、あくまで個人用の、一人しか入れない程度の小さなものだ。分譲時から付いていたものらしいが、大浴場連結の10人以上が優に入れる広い共用サウナがあるというのに、わざわざ掃除の手間をかけてまでコレを使うリゾマン住人がいるのかどうか謎だ。

 鍵が付いていなかった以前は、骨董品置き場のようになっていたはずである。


 鍵をポケットから取り出しながら、陸が言う。

この鍵は最近付けたばかりさ。いや本当に大したものじゃないんだけど……。
さっきから『大したものじゃない』ばかりだな。だったら私たちに見せなくてもいいだろう。
その通りなんだけど……モノ自体が大事なんじゃなくて……ぼくの昔の想いを急に君たちに聞いてほしくなったっていうか……いやそういうのも、ぼくの独りよがりなのかな……。ここまで連れてきて悪いんだけど、やっぱり……。
ち、ちょっとお父さん! 散々もったいぶった末に、ここまで来て帰れっていうわけじゃないんでしょう?
むう……。あまりに小さな話だから、話すのが恥ずかしくなった……。
いいからグダグダ言わずに、とっとと開けろ!

 観念したのか、陸はサウナルームの扉を開けた。以前のように骨董品が積まれていたが、価値あるものを持っているとは聞いたことがない。あるのは主に桜丈家所縁のものばかりで、捨てるに捨てられず、ここに保管してあるのだろう。桜丈財閥の最盛期にまとめられた社業をまとめた本が重ねられていたり、丸められた掛け軸が積まれていたり、錆びついたミシンのような機械があったりと、家族という狭い範囲では歴史的価値がゼロというわけではないだろうが、一般的にはどうでもいいと想定される代物ばかりだった。


 陸は整理棚に手を伸ばし、木箱を取り上げた。その木箱を開けると、中からは小さなゴールドの塊が姿を現した。

 おそらく1キロくらいのゴールドの塊が、たった一つ。小さくはないが大きくもなく、玄七郎から見せられたようなゴールドバーのように正確に整えられた形でもない。

 玄七郎から5キロ強のゴールドを見せられていたし、金貨のような芸術性もなく、今さらゴールドの塊を見せられたところで感慨はなかった。

ゴールドだね。
ただのゴールドのようだ。
う、うん……。1キロ少々のゴールドの塊なんだけど、それ以上でもそれ以下でもないよ。
は? それがどうした?
玄七郎が持っていたものを見せられたことあるから、これくらいは何も感じないかな。1キロ――今の相場だと1300万円くらい?
誤解のないように言っておくと、うちの家としては50キロくらい持ってて、貸金庫に放り込んであるよ。だけどこの1本は、ぼくにとってのお守りだったんだ。
合わせて50キロあるっていうのに、この1本がお守り? 神社か何かが関係してるの?
いや、そんなんじゃない。何の変哲もないゴールドだ。ただ、桜丈財閥のころから残ってきたほとんど唯一のもので……桜丈財閥最盛期には、400キロくらいを倉庫に積んでいたらしいね。だけど戦前・戦中・戦後の混乱のなか、それらを処分しながら企業体の生き残りを模索してきたようだ。その苦労は並大抵じゃなかったんだろう。挙句の果てに財閥解体の対象にされて……唯一残ったものが、ここにあるたった1本さ。
うちの家の歴史が凝縮されているということなのかなー?
ただし、単なる物質だ。溶かせば一緒だぞ。
そうだよね、理屈は分かるんだけど……正直、自分が経験してきた苦労じゃないからピンと来ないところがあるなぁ。
それにはぼくも同意見で、これ自体を歴史として保存しようとか、そんな考えは持ってないよ。それでもぼくにとってはお守りだったんだ。
どうして?
ぼくが最初に事業を起こしたとき、ほとんど破れかぶれだった。うちの家をメチャメチャにした社会や運命を恨んだこともあるし、半ば自暴自棄での創業だった。それでも、チャレンジするのはやっぱり怖いもので、失敗のことばかりに頭を悩ませていたよ。
へー、お父さん勝負師だと思っていたのに、案外普通の感覚はあったんだね。
君たちほど悟れなかったぼくは、紛れもなく凡人だよ。そして実際、創業当初は毎日上手くいかなくて、事業も思うように進まず、人にも騙されて、大きなマイナスを喰らったこともある。今だから言うけど……自殺未遂だって一度や二度じゃなかったんだよ。
おいおい、さすがに大袈裟に盛っているだろう?
包み隠さない事実さ……。
人には歴史があるんだねぇ……事業の重さを感じるなぁ……。
玄七郎も、血の小便を流したと言っていたな。
そんな苦しい毎日のなかで、なんとかぼくの精神的な碇になってくれていたのが、残されたこの1本だったんだ。
どうしてコレが支えになってくれたの? 話し相手になるわけでもないのに。
身包み剥がされたって、会社が倒産したって、債権者に全部むしり取られたって、このゴールドだけは手元にきっと残される。そうすれば食い繋ぐことくらいはできるはずだっていう最後の安心が、唯一の心の支えになってくれていたんだよ。
そう言えば帝王学講義で『銀行預金、株、不動産など様々な資産は、その全てが捕捉されている資産』だって習った! いざ失敗すれば、それらは全部債権者に持っていかれるよね。でもゴールドだけは誰にも捕捉されないから、持って逃げちゃえば……。
……結局、売らずに残ったわけだ。
このお守りが今も手元にあるのは、正真正銘、少しもぼくの実力じゃない。時代が良かったんだと思う。本当に、よく生き残ってきた……半ば信じられない気持ちだよ……。ぼくが死なずにやれてきたのは、このゴールドが傍らにあってくれたおかげでもあるんだ。
だから、お守り……。
お守りにすがらなくちゃいけないのは、ぼくが君たちとは違う凡人の証明でもあるけどね。今は恥ずかしながら毎日一度、この塊を木箱から取り出して、静かに手を合わせているんだよ。
こだわりは窓から投げ捨てるべきだと考える私だが、この程度の凡人のこだわりは許容してやってもいいだろう。
ああ、惨めな凡人の、たった一つのこだわりさ。こんなお守りを必要としていない小春ちゃんや小雪ちゃんは、改めて本当にすごいと思う。ぼくとは違う、心から君たちを尊敬するよ。
でもまぁ、こういうお守りがあるのは悪くないとも思ったよ。見方ひとつで、ゴールドってお守りにもなるんだって初めて知ったな!
玄さんにゴールドを全部売らせてしまったらしいね。資産のほぼ全部をゴールド現物に変えるなんて普通じゃないから、おそらく玄さんはそれなりの想いがあって抱えていたはずなんだ。それをメチャクチャに……まったくトンだ食わせ物だよ君たちは。
本当にそれ。無知って怖いね、穴があったら入りたいよ! ホントごめんね玄七郎……。
いやアレは私たちが何度も撤回しようとしたのに、玄七郎が聞く耳を持とうとせず、無理やり売却してしまったんだぞ。私たちはおそらく悪くないはずだ……。
まぁ結局、形式上で玄七郎が出資した地球連合は大きな資産を確保しているわけだから、そこまで酷いことはしてないとも思う……言い訳だけど……。
小春ちゃんの一生のお願いに貢献できたことは、玄さんも本望なんじゃないかな。
このお守りは新宿に持ち帰るのか?
ああ、もうひと勝負打つことになるわけだからね。君たちがどんな無茶苦茶な手を打ってもビビらないように……凡人のぼくは、このお守りにしがみ付いて乗り越えることにしようと思うんだ。
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登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

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