第12章(2)

文字数 2,465文字

 東都出版のマンガ編集部の会議室で、小春たちは2人の編集者と相対していた。マンガ家としてアポを取った小春と、技術の説明をするための千景が2人での訪問だ。今回の訪問は、小春のマンガ家デビューを相談するだけでなく、翻訳技術を開発するアドバイスもしてほしいと事前に伝えてあった。そのため小春の担当編集者だけでなく、編集長も打合せに参加してきたのである。

 挨拶のあとに小春のマンガの話を最初にしたところ、編集者2人は小春のマンガを褒め称えてきた。そしてデビューするために担当編集者と共に企画を練っていくことを強く薦められた。

 その話がひと段落したあと、小春と千景は肝心のマンガAI翻訳サービスの話題を切り出し、説明を始めた。最初は話半分といった様子の編集者たちだったが、同行した千景がIT技術の専門家で、フロントエンジニアとして様々な開発にも携わってきたことを知ると、編集者2人は徐々に真剣味を帯びて耳を傾けてきた。

AI翻訳システムで……1ページ50円? 仮に200ページの単行本だったとすれば、1万円ってこと?
その予定です。どうでしょうか……?
安いねー。そんなので採算合うの?
実際にはやってみないと分からないんですけど、採算を合わせられるように頑張ります。
 タブレットの画面を見せながら、千景が口にする。
翻訳の精度はこちらでご確認頂けます。事業立ち上げ時には16ヶ国語に対応させる予定でおります。
 タブレットの翻訳ページをいじりながら、編集者が口にする。
翻訳のレベルは、外国語のニュアンスが分からないから何とも言えないけど……。
サンプルとしてアメコミの画像を置いているので、ちょっと試してみてもらえますか。ここを範囲指定しまして……こちらに翻訳された日本語が表示されます。
おっ、自然な日本語だ……。
 それから編集者たちは画像を捲って幾つかのページで翻訳を試したが、特に不備があるものはないようだった。
少なくとも、現在のAI翻訳の技術においては最高峰のレベルであることは確かです。もちろんAIと人間では微妙な感覚の違いはありますし、翻訳が気に入らないセリフがありましたら、御社様に割り当てられた管理画面から個別にセリフ翻訳を修正して頂くこともできますよ。
うちの会社としてはマンガのデータをアップすれば、あとはそれが勝手に各国語に翻訳されて、御社のビューワーで見られるようになるってことだよね? 世界中の読者に読んでもらえるわけだ。
読者は、アプリのダウンロードなども不要です。ネットに接続されていれば、通常のウェブページを見るのと同じ感覚で読んで頂くことができますね。ビューワー自体は、大手マンガサイトで使用されているのとほぼ同一のものになります。
海外翻訳されたマンガに課金することもできるのかな?
……なるほど、課金……ご希望とあればもちろん対応できますね。その場合は15%くらいの手数料を頂戴することって可能ですか? クレジットカードの手数料だけで3〜4%くらい取られますし、システムの保守管理も必要ですので……。
いや15%だったら安いんじゃないの。うちも色々なマンガ配信システムをウェブで整備してるけど、そんなコストでやれるなら、わざわざ自前で作らなくても良かったくらい安いと思うんだけど……。
だったら、こんなのはどうですか? 翻訳代1ページ50円は頂きません。ぜんぶ、こちらの費用負担で翻訳します。その代わり、売上の20%をください!
レベニューシェアってやつだね。
うちはデータさえ渡せば、あとは全部御社が勝手にやってくれるってことだね? それならほとんど労力はかからないし、著者確認をすればいいだけかー。だったら別にやらない理由なんてないんじゃ……。

 それから編集者たちと話し合いを重ね、翻訳の精度が十分に高いのならばという前提ではあるものの、小春たちが開発したシステムを使わない理由はないという回答を得られた。また提示した費用も1ページ50円対応なら十分に安いのだが、売上の20%を持って行かれてもいいから出版社側の費用負担が一切ない形でレベニューシェアでやれるならさらに申し分ないという話だった。


 出版社としてどのくらいの分量を翻訳、海外発信できるか確認したところ、すべての東都出版のマンガ出版物をこのシステムを通したとすれば、新刊だけで月150巻分程度になるのではないかという概算だった。だがそれはあくまで新刊であって、過去に出してきた旧作は膨大にあるから、それまで含めて翻訳していけば月300巻になっても不思議ではないという話であった。


 最初に話し合ったように、仮に1ページ50円――1巻1万円での翻訳対応だとすれば、月150〜300万円の範囲の売上ということである。そしてレベニューシェアの場合には、確実に入る売上は当然ゼロだが、ヒット作など出ればもう少し上の数字を目指せるかもしれない。

 ただし、翻訳システムに月200万円、タッチペンに月15万円、システムの保守メンテナンス・バージョンアップ・開発業務に月450万円、サーバー代として数百万円を投入していくとすれば、まるで採算が合わせられない売上――要するにまったく儲からないことは間違いなかった。逆に言えば、提供費用がべらぼうに安いということの裏返しであり、だからこそ全てのマンガで当システムを使ってもらえるのは自然な流れということだろう。

 マンガのメジャー出版社だけで6、7社あるし、仮にこれらに全部使ってもらえるとすれば、大して儲からないけれども、損益分岐点ギリギリくらいにはなるかもしれないと想定された。

 もちろん1ページ50円やレベニューシェアなどはあくまで現時点の想定であり、事業の進展に応じて利益調整はできるはずだから、ひとまず儲からなくても市場を押さえてしまったほうがいいはずである。何より大事なのは、地球連合がマンガ専用AI翻訳システムを完成させた暁には出版社側がこのシステムを使ってくれるという肌感覚を知ることだったから、そこは十分にクリアされそうだ。

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登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

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