第9話(1)

文字数 5,638文字

おはようございます。さて今日は講義の前に、少しお話しすることがあるのでは?
なんだろー?
清掃業は順調ですよ!
今最も許し難い重大事は、玄七郎が地球連合に100万すら貸そうとしなかった歴史的事実だ。私は一生これを根にもつと固く約束する。
 ゴホンと咳払いをした玄七郎は、ため息をついて続ける。
旦那様から電話が入りましてな、小1時間ほどお話ししました。旦那様は文字通り泣いておりましたぞ。男同士の話の内容を、洗いざらい申し上げることはできかねるのですが。
やっぱり泣いてたんだ……。結局、お父さんはお金を貸してくれようとしなかったんだよね。頑なになっちゃったから、これからも無理そう。だけど、お父さんとこのタイミングでお話しできたことは本当に良かったと思ってるんだ。
前社長の突発的な行動はそんなに珍しくないですけど、いきなり会社を逃げ出した事情は把握しましたよ。BS拡大病から逃げたって聞いて、なるほどと思いました。むしろ前社長のそうした直感は、さすがだなぁと思いましたけどねー。
すっかりギャンブル狂だ。治せる医者もおるまい。
よく自分で咄嗟に判断して熱海に逃げ込むことできたよね。普通の人だとこの選択はできなかったんじゃないかな。
私も企業買収の担当者の一人として、もうしばらく買うのはやめた方がいいと思ってましたから。いま世界中の資本が日本に集中しているタイミングなんで、まともな案件はほとんど蒸発しちゃってるんですよね。それでも、今は買収を強行しないよう説得しても、社長は買いたくて仕方ない感じだったんです。
今回の弁天町の物件を見ても、千景先生のそれすごく実感したよ。海外の人が唐突に買ってしまうから、何も残ってないんだと思う。不動産だけじゃなくて、きっと事業もなんだよね。
私が申し上げたいのは、旦那様がBS拡大の焦燥感に突き動かされていたことではございません。旦那様からの第一のお願いは、「帝王学講義を進めるのをいったんやめてもらえないか」ということでしたが? 少なくとも、両お嬢様が大学を卒業する時期まで待ってもらいたいと。
10年後ではないか。却下だ、そんな要求は撥ね付けろ。オヤジには諦めろと伝えておくがいい。
ここまでやっておいて、今更中止はなしですよ、玄さん。
そうだよ、今まで通りに続けてもらう。そもそも玄七郎は、お父さんに頼まれたくらいで引き下がるような、そんな中途半端な人じゃないはずだよね?
私個人の意見を申し上げたわけではなく、旦那様のご要望を伝言したまででございます。桜丈家の執事たる私としては、新しい当主でもあります小春お嬢様のご指示に従うまででございますので。
私って当主なんだ。というか何の当主なんだろー? 変なの。
桜丈財閥の5代目当主ってことじゃないの、たぶんだけど。
その前に執事とはどこのどいつだ? 指示に従うとほざくわりに、100万さえ貸さなかった悪鬼のことか?
それからもう一つ……小春お嬢様は旦那様の前で、高校に通わないと宣言したようでございますが?
別に高校や大学を敵視してるとか、そんなことじゃないからね。理由は単純に2つ。1つ目は、今は会社経営に時間を割く方が、人生全体として賢明だと判断していること。2つ目は、今さら高校の勉強を頑張るとかいう選択肢はないかなと思えたんだよね。もし将来そうした勉強が必要だと思うときがあったら自習するし、高認試験で済ませちゃっていいかな。
いかがですかな、水無月様?
いや私に振られましても……。
今こそ東大卒のメリットを熱く高らかに語り尽くしてくださるべき時かと。
あるのかな小春ちゃんの場合にそんなメリットが……。私みたいにサラリーマン社会で生きるんだったら、正直そりゃあメリットあるなと思いますよ。大企業に入れる選択肢が生まれますし、お給料もやっぱり良いはずですし、研究者を目指すときも箔がつきますし、官僚の方面に進んでも東大の人ばっかですし……。
すべて心底どうでもいいな。
だから商売の人とは全然違うんだよね。小春ちゃんや小雪ちゃんには無関係の世界だと思うよ。
水無月様はなぜ東大へ?
気づいたら偏差値が高かったから、ほぼほぼ自動的に……なんですよねぇ。理学部に進んだのも、高校のとき現代物理が不思議で超面白いと思ったからで、深い意味はないっす。言うほど勉強してきたわけじゃないですよ。東大に入ろうなんて全然思ってなくて、単に東大に入れたってだけなんです。実際、私の大学時代の友達も、朝から晩まで勉強漬けみたいな人って多くないんじゃないですかね。入れる人はスッと入れるんですよ、やっぱり。努力がちゃんと通用するのは一橋・早稲田・慶應くらいまでじゃないですかねー。
生まれつきの頭の良し悪しってあるんだねー。
ん〜、でもつくづく悟ったのは、頭の良し悪しとか成功と関係ないよね。むしろ私みたいにサラリーマン社会で楽ができちゃうと、わざわざ変な方向――自分で創業とか選択肢から消えちゃうよ。
実際のところ、日本の場合、経営者の半数近くが高卒・中卒となっています。こうした方々はプライドが高くないゆえに、恥も外聞もなく地べたを這いつくばることに抵抗が低いという点はございましょうな。かくいう私めも高卒でございますし。
そこすっごく大事ですね。大学時代の同級生で、今の私みたいに清掃業スタッフをやるなんて誰も想像できないはずです。私だってちょっと前はあり得ないと思ってましたし、自分とは無関係の世界の出来事でした。
成功できるかどうか、お父さんは運だって言い切ってた。だから私の理解は、良い運と遭遇する機会を増やすために、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる方式で、とにかく試行回数を増やすことだって思ったよ。高校や大学へ進むと無為に7年間も費やしちゃうでしょう? だったらそのぶん、試行回数を増やしたほうがいいんじゃないかなぁ?
小春ちゃんがPL脳のサラリーマン社会のなかで暮らすなんてもう絶対あり得ないことだから、それでいいんじゃないかな。もちろん親の立場だったらビックリするのは仕方ないけど。
旦那様が、すべてが運だと言い切る心情は痛いほど理解できます。もちろん実力と試行回数が伴った上での話ですが……動かす物事が大きければ大きいほど、膨大な関係者たちや社会情勢に影響をモロに受けるので、どうやっても運の要素が大きく絡みます。旦那様の場合には、運から逃げることなどできなかったでありましょう。
やるべきことは死力を尽くしてやり切った上で、最後ばかりは運を天に祈るという姿勢でいくべきだな。神頼みも必要なのかもしれない。
経営者には案外神頼みをする人も少なくないのですが、最後はそうした運がほとんどすべてを決してしまうことを誰よりも切実に理解しているがゆえでしょう。尤も、神頼みで確率が上昇する可能性はゼロと言っていいのですが、そこに至るまでの準備と、そうした心持ちが大事ということなのでしょうな。
この話の流れだと……玄七郎としては、私が高校にまだ入学してすらいないのに、いきなり辞めちゃうことには抵抗しないのかな?
もし小春お嬢様に、一時の熱気に流されているような側面が少しでも見られましたら、私は断じて許可しなかったでしょう。ですが今こうしてお話ししてみて、冷静であり、よく理解のうえでのことであると確認できました。ならば、私から言うことは特にないようです。
良かった……お父さんはともかく、玄七郎が許可してくれなかったら、縄に繋がれて無理やり通わされることになってたと思うよ。お父さんは泣き止んでくれると思うけど、たぶん私が毎日泣いてた。
子供の反抗期も有無をいわせず強引にねじ伏せる玄七郎……実に恐ろしいな。
ただし一点だけ補足しておくべきことがございます。低い学歴であろうとも経営者として大して問題にならないのは、この日本という国における特殊な環境があるのだという理解はしておいたほうがよろしいかと思います。
あー、そうですね。学歴に対する、日本と海外の温度差はかなり大きいかもですよ。日本がちょっと生ぬる過ぎるんだと思います。
欧米諸国、そして中国……こうした国々においては、学歴の差というのは人生を決してしまうほどの格差を生むことが少なくありません。経営者しか選択肢がないとしても、こうした国々の場合には、エリートとして振る舞うことも視野に入れておいたほうがいいでしょう。
そんなに違いがあるものなの?
あるある、すごいあるよ。
海外はほとんどファンタジー異世界だと考えたほうがいいのか?
ちょっと違う、その小雪ちゃんの理解は完全に逆かな。世界から見れば、日本がファンタジーなんだよね。グローバルスタンダードから外れている異世界は日本のほう。良いとか悪いとかじゃないんだけど。
私の祖父は欧米エリート専門のホテルを経営していたことがあるとお話ししたことがありましたな。相手にしていたのは貴族のような方々です。こうした人々と庶民との間には絶対的な格差がありました。その当時と、今もそれほど変わっていません。彼ら彼女らの世界においては、有名大学卒であることは社交界で自分をアピールするための切符として有用でしょう。
玄七郎がよく千景のことをエリートと揶揄するだろう? それは日本だから揶揄になるんであって、海外だとちっとも揶揄にならず、むしろガチなのか。
良くも悪くも日本には、エリート社会のようなものはございません。水無月様のことも、誰も心の底ではエリートなどと思っていないのと同じです。
いっつも私をバカにしてチクショー落とし前つけさせてやるー。
日本の旧軍と交戦したソビエト司令官ジェーコフは『日本軍の下士官兵は頑強で勇敢、青年将校は狂信的で屈強だが、高級将校は無能である』と報告しました。日本の人々は上から下までそこまで大きな差がないのです。強いて言えば、精強な凡人の大集団だとでも言えましょうか。プラスの側面としては、人生の逆転の目が誰にも比較的平等に担保されている社会だと言えましょう。マイナスの側面としては、水無月様が指摘した通り生温いので、今後の国力増強、経済成長が期待できない社会だと言えましょう。
何だかんだ言っても、どんな人でもなんとかやっていける日本というのは、良い社会なんだと私は思いますけどね。もちろん今後の政府の経済運営次第でどう変わるかわからないところはありますが、その国の文化的底流が一朝一夕で変わるものでもないと思います。
小春お嬢様が高校に進まないということでしたので、他国との差異をあえてやや過剰に強調しました。それほど気には留めなくてもいいのですが、海外のエスタブリッシュメントとの付き合いにおいては知っておいてもらう必要があろうかと。
やっぱり改めて思ったけど、少なくとも私たち目先は日本企業なんだし、高認だけ取っておけばいいよ。海外で活動するときにどうしても有名大卒の肩書とかあったほうが有利ってなれば、そのとき通えばいいと思う!
だが、経営者として順風満帆なときに、いちいち大学に行くというのはアベコベな感じはするな。
通信とかもあるんじゃないかなー。
通学か通信かということではなく、大学教授から授業を受けるというのはトンチンカンだと思うぞ。逆にお姉が大学教授どもに実社会の厳しさというものを伝授してやる側になるのが適正だ。
実際のところ、大学側から教わることなどないでしょう。
その時はその時だよ。臨機応変が正解なんでしょ、玄七郎?
人生に正解というのがあるのかどうか不明でございますが、悪い選択のようには感じられませんな。旦那様はさらに大泣きするに違いありませんけれども。
泣かせておけばいいのだ、あんなオヤジは。それにしても、お姉だけズルいと思う。
ズルいって、何がー?
私も中学を退学することをここに宣言する。
中学って退学できるの……?
私立中学のほうは退学できるけど、強制的に公立に移されるだけじゃないのかな?
フフフ、元々私がグレまくり、内外問わず大暴れしているせいで、学校の秩序は激しく乱れている。学校も内心では私を追い出したいに違いないのだ。ならば私から退学してやるのが温情というもの。
学校からは、小雪お嬢様はよく勉学に励み極めて成績優秀、剣道部と軽音楽部を兼部して優れた活動の記録もあり、言葉遣いなど素行の一部は完璧と言えない点があるものの、稀に見る驚異的な生徒だと報告を受けておりますが。
なっ!? それは違う、教師どもは私の仕返しを激しく恐れ、玄七郎に虚偽の報告をしたにすぎないのだ。私はグレて手がつけられない状態であることは明らか……。とにかく私は仕事に注力することに決めた。退学できないのなら不登校で構わない。お姉だけがズルをするなんて許されないぞ。
本当に問題児だったらともかく、小雪ちゃんって超優良学生ですよね。そんな子が不登校ってどうなるんでしょう?
義務教育事例などに興味はございません。ひとつあるとすれば保護者――この場合は私めですが、教育委員会などから何か通告があるやもしれません。なるべく旦那様に直接通告がいかないよう尽力することとしましょう。
ということは、玄七郎も私が不登校でさらにグレにグレまくり暴れまくるのを容認するということだな?
グレるのを容認したわけではございませんが、小雪お嬢様には中学校など世界があまりに狭過ぎる。世界を相手に戦うのが小雪お嬢様に相応しい場所であるといえましょう。
……………………。い、いま私を褒めなかったか玄七郎……?
は? 私は事実を口にするよう努めているだけでございます。
……………………。
 小雪は口元を歪め、言葉をなくして呆然とした。
さて、時間も押しております。本日は広告的手法の続きを予定していましたが、先ほどエスタブリッシュメント社会について少し触れたこともありますので、予定を変えて『財閥』について取り上げてみたいと思います。日本のエスタブリッシュメントを考える上で役立つでしょう。
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登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

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