第6章(1)
文字数 4,633文字
ゴム手袋を両手にはめた小春は、モップ掛けの最中に立ち止まり、袖でひたいの汗を拭った。
小春たちは、だだっ広いオフィスの一室の清掃作業をしていた。床はカフェっぽいフローリングのタイプである。一室といっても、エレベーターを降りてすぐの共用廊下から、男女それぞれの共用トイレ、キッチンなどの水回りまで含まれている。
小春、小雪、千景の3人とも、灰色の作業着に帽子を被り、いかにも業者風に服装を統一していた。
小雪がフローリングに跪き、シミらしき箇所を雑巾で激しく擦りながら奇声を上げる。
3人は、ゼリスト建物管理から発注された仕事に取り組み中だった。この清掃業務請負が、地球連合株式会社の最初の事業である。
地球連合株式会社は登記提出済みであり、そろそろ登記が完了する頃合いだ。
資本金48万円。
発行済株式数4800株。
代表取締役は、桜丈小春。
取締役には、桜丈小雪、水無月千景。
登記上の事業内容は、「1.清掃業務 2.上記関連の一切の事業」としている。手広くなんでも取り組んで足掻いてみる覚悟の小春たちにとって、事業内容など現時点で明確に定められるはずもなかったし、そもそも日本の法人登記におけるこの部分は形骸化しており深い意味もなく、シンプルなほうがカッコいいとして、この2項目だけを記載していた。どんな仕事だろうと日々の掃除くらいはするのだから、それに関連したものであれば、結果的に世の中すべての事業を含んでいるとも見ることができる。
設立登記費用は20万円少々で、このお金は設立登記が完了するまで千景から一時的に借入し、登記完了後に返済する約束だ。貯金箱を壊すなどして小春がかき集めたお金は48万円だったため、登記関連をマイナスすると、手元には25万円が残るという計算だ。つまり地球連合は今のところ小春が100%出資する会社である。
登記提出に合わせて、小春たちはゼリスト建物管理で清掃業の研修を2日で済ませ、中古機材一式を35万円で譲ってもらっていた。ゼリスト建物管理のほうも古い機材を廃棄するよりは、引き取ってもらったほうが都合がいいらしい。ちなみに35万円の支払いは月末締の翌月末払い――つまり来月末までの支払いである。この支払いタームはゼリスト建物管理側の都合であって、小春たちが支払いを待ってもらったわけではない。買掛金、要するに借金の一種のようなものだ。
登記費用に費やした20万円少々はBS上から消失してしまうため、地球連合の実質的なBSは次のようなものである。
小春たちは高層ビルなど専門機材を必要とされる場所ではなく、派遣されるのは中小規模のオフィスビルに限定されていた。請け負える地域も、新宿区を中心に、千代田区、渋谷区、豊島区くらいまでと伝えてあったが、都心であれば仕事は沢山あるそうだ。
ちなみに、ゼリスト建物管理の正社員たちは高層ビルで室外ゴンドラに乗ってタワマンの窓を外から清掃したりする業務まであるらしい。その危険に見える仕事のせいで人材不足が続いているようだったし、万一ゴンドラから転落した場合などの保険もしっかり完備されているという。小春たちの請負範囲は、危険なことは何もなく、オフィスの各部屋が空室になった際のルームクリーニングだった。要するに末端の末端がやる雑務であり、研修も短時間で済んだのである。清掃機材も3人で手分けすればいささか目立つが電車で運べる範囲だったし、雨の日など3人でタクシーに同乗することになっても移動コストはそこまで膨らまなかった。
そして小春は、モップで床磨き2周目に入った。千景も綺麗にしていたはずの窓を、再度チェックし始めた。
それからしばらく、3人は掃除に熱中していた。
そろそろ予定時間を終了する頃、ゼリスト建物管理の発注担当者がフロアに入ってきた。そして小春に声をかけてくる。
小春と担当者はトイレや水回りなどを一つ一つ確認して回った。その度に担当者はひたすら感激し、「こんな業者さんは他にいないし、社内で一番熱心な人でもここまで出来ない」と小春たちを絶賛した。その表情から、お世辞ではないと小春にも判断できた。
フローリングフロアに戻ると、小雪と千景はまだ黙々と掃除に取り組んでいた。床を磨く小雪の声が響く。
担当者はそれ以上、桜丈ホールディングスとの関係性をよく知らないらしかった。大きなグループ企業とか、旧財閥系というイメージは漠然と持っているそうだが、それは世間一般のものと同じである。
それから小春と担当者は、次の現場の打合せやスケジュールを確認し合った。また、請負の売上については、地球連合の銀行口座ができるまでは、現金払いをしてくれることを改めて確認した。少なくとも現金払いの間はお金がすぐ確保できるため、来月末にゼリスト建物管理に支払い予定の清掃機材費用35万円は問題ない見込みである。
そして担当者に挨拶を済ませた小春は、小雪と千景と一緒に清掃道具をまとめ、帰路についたのだった。
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