第6章(1)

文字数 4,633文字

おっそおじおっそうじ楽しいなーっと!

 ゴム手袋を両手にはめた小春は、モップ掛けの最中に立ち止まり、袖でひたいの汗を拭った。

 小春たちは、だだっ広いオフィスの一室の清掃作業をしていた。床はカフェっぽいフローリングのタイプである。一室といっても、エレベーターを降りてすぐの共用廊下から、男女それぞれの共用トイレ、キッチンなどの水回りまで含まれている。

 小春、小雪、千景の3人とも、灰色の作業着に帽子を被り、いかにも業者風に服装を統一していた。

 小雪がフローリングに跪き、シミらしき箇所を雑巾で激しく擦りながら奇声を上げる。

ふうううう、しゃらーーーーーーー!
小雪、ちょっと頑張りすぎだよ。そのシミは床張り替えないと取れないと思うし、そこまでやらなくて大丈夫だよ。
いやお姉、これはもうちょっとだぞ。私にはわかる。なぜなら私はすでに5つのシミを滅亡に追いやってきた。ここが一番の難所だが、この山さえ越えれば制覇したも同然……。
なんか、綺麗になってくの案外面白いものだね〜。自宅より熱心にやっちゃうよ。
たしかに小雪が集中してるシミ……どんどん薄くなってる……。そんなことあるんだ……。
何も努力していないのに恐ろしく綺麗になってしまう。ちょっとしたコツさえ掴めば簡単だぞ。どうも私という存在には、何事も本質を見抜いてしまうセンスが備わっているらしいな。
どう見てもセンスじゃなくて力技だし、小雪ちゃんが一番努力してるようにしか見えないけど。

 3人は、ゼリスト建物管理から発注された仕事に取り組み中だった。この清掃業務請負が、地球連合株式会社の最初の事業である。

 地球連合株式会社は登記提出済みであり、そろそろ登記が完了する頃合いだ。


 資本金48万円。

 発行済株式数4800株。


 代表取締役は、桜丈小春。

 取締役には、桜丈小雪、水無月千景。


 登記上の事業内容は、「1.清掃業務 2.上記関連の一切の事業」としている。手広くなんでも取り組んで足掻いてみる覚悟の小春たちにとって、事業内容など現時点で明確に定められるはずもなかったし、そもそも日本の法人登記におけるこの部分は形骸化しており深い意味もなく、シンプルなほうがカッコいいとして、この2項目だけを記載していた。どんな仕事だろうと日々の掃除くらいはするのだから、それに関連したものであれば、結果的に世の中すべての事業を含んでいるとも見ることができる。


 設立登記費用は20万円少々で、このお金は設立登記が完了するまで千景から一時的に借入し、登記完了後に返済する約束だ。貯金箱を壊すなどして小春がかき集めたお金は48万円だったため、登記関連をマイナスすると、手元には25万円が残るという計算だ。つまり地球連合は今のところ小春が100%出資する会社である。


 登記提出に合わせて、小春たちはゼリスト建物管理で清掃業の研修を2日で済ませ、中古機材一式を35万円で譲ってもらっていた。ゼリスト建物管理のほうも古い機材を廃棄するよりは、引き取ってもらったほうが都合がいいらしい。ちなみに35万円の支払いは月末締の翌月末払い――つまり来月末までの支払いである。この支払いタームはゼリスト建物管理側の都合であって、小春たちが支払いを待ってもらったわけではない。買掛金、要するに借金の一種のようなものだ。

 登記費用に費やした20万円少々はBS上から消失してしまうため、地球連合の実質的なBSは次のようなものである。

 小春たちは高層ビルなど専門機材を必要とされる場所ではなく、派遣されるのは中小規模のオフィスビルに限定されていた。請け負える地域も、新宿区を中心に、千代田区、渋谷区、豊島区くらいまでと伝えてあったが、都心であれば仕事は沢山あるそうだ。

 ちなみに、ゼリスト建物管理の正社員たちは高層ビルで室外ゴンドラに乗ってタワマンの窓を外から清掃したりする業務まであるらしい。その危険に見える仕事のせいで人材不足が続いているようだったし、万一ゴンドラから転落した場合などの保険もしっかり完備されているという。小春たちの請負範囲は、危険なことは何もなく、オフィスの各部屋が空室になった際のルームクリーニングだった。要するに末端の末端がやる雑務であり、研修も短時間で済んだのである。清掃機材も3人で手分けすればいささか目立つが電車で運べる範囲だったし、雨の日など3人でタクシーに同乗することになっても移動コストはそこまで膨らまなかった。

見ろ、私が掃除した場所がピカピカに光り輝いているぞ!
嘘みたい……本当に光っているような気がする……。
何これどゆこと? あれだけ濃かったシミが跡形もなく……どれだけ一生懸命やればこんな風になるんだろう。
家では玄七郎が勝手に掃除してしまうから、今まで私は掃除とは無縁の人生を歩んできてしまった。しかしそれは私を掃除から遠ざけて才能を封じ込めようとしていた玄七郎の陰謀だったのだ。サボる気満々の私なのに、つい美しく仕上げてしまう私がすごい、すごすぎる……。
いやまぁ実際すごいけどね……。
こんなにすごい小雪に負けるわけにはいかないね。ひとまずフロアのモップ掛け終わらせたつもりだったんだけど、もう一周しなくちゃならないような気がしてきた……。がんばれ私っ!
小雪ちゃんがエースなんてどこか不自然だし、私も本気でやらなくちゃ。ここも気になるな〜。

 そして小春は、モップで床磨き2周目に入った。千景も綺麗にしていたはずの窓を、再度チェックし始めた。

 それからしばらく、3人は掃除に熱中していた。

 そろそろ予定時間を終了する頃、ゼリスト建物管理の発注担当者がフロアに入ってきた。そして小春に声をかけてくる。

ご苦労様でーす。エレベーター降りてビックリしたんですけど、なんかメチャメチャ綺麗になってません……?
おつかれさまですっ! もうすぐ終わるところだったんです。ご確認ください。
 フロアをゆっくり見渡した担当者は、しばらく呆然とした面持ちだった。
どうしたんですか……?
う、嘘だろう……。こんなの初めて見た……光ってる……。
ですよね! 結構頑張ってます、私たち。
いや頑張るってレベルじゃないですけど……。正直、ここまでやらなくとも……。小綺麗でありさえすれば全然構わないので、地球連合さんの場合はもっと手抜きしてもらうくらいで丁度いいかと。どれほど一生懸命対応して頂いても、案件毎に予め決まったお支払い額は変わらないですよ?
お世話にになってるゼリストさんに、後出しで上乗せ請求しようなんて考えてないですよー! 仕事をもらえるだけでも夢のようです!
こちらこそ安く請負ってもらってるわけで……上とも掛け合って、地球連合さんの場合は発注費用を少しでも上げてもらうよう相談してみますね。
とってもとっても嬉しいです、ありがとうございまーす!
この状況なら何の問題もないと思うんですけど、いちおう作業完了チェックしていきましょうか。地球連合さんの場合、まだ日が浅いですし、チェックする義務がありますからね。

 小春と担当者はトイレや水回りなどを一つ一つ確認して回った。その度に担当者はひたすら感激し、「こんな業者さんは他にいないし、社内で一番熱心な人でもここまで出来ない」と小春たちを絶賛した。その表情から、お世辞ではないと小春にも判断できた。

 フローリングフロアに戻ると、小雪と千景はまだ黙々と掃除に取り組んでいた。床を磨く小雪の声が響く。

しゃらーーーーー!
あの……あちらの御社社員さん2人、まだ熱心にやって下さっているようですが……。これ以上は入居付けに一切影響しませんし、さすがにもう手を止めてもらっていいんですけど……。
真剣にやっているみたいなんで、まだ気づいたところあるんだと思います。大丈夫ですよ、このチェック終わったら帰りますから。
わかりました、急いでチェック終わらせたほうがいいですね。最後1箇所だけ……えっと、あれ……? この辺の大きなシミ……。
 担当者はフローリング中を見まわしながら、困惑した面持ちで続ける。
ちょっと待ってください、場所がちゃんと特定できないので、写真と照らし合わせて……と。
 スマホの写真をめくって確認していた担当者は、下を指差す。
あれっ、やっぱりありましたよね、ここにシミ? 床張替えも視野に入れてたんですけど、なぜか消えちゃってますが……?
あっ、シミなら消しましたよ。
冗談でしょう……?
私も嘘みたいって思うんですけどね。
感激しました……。地球連合さん清掃業は初めてだっていうから最初は心配していたんですが、何から何まで驚きです。やっぱり女性の仕事のほうが丁寧ですねー。男性は型通りにこなすので人材としてはとても扱いやすいですけど、細々としたところに目がいくのは女性の強みだと思います。
喜んでもらえて私も嬉しいです!
それでは税込5万5000円のお支払いになります。請負費用は、本来は末締め末払いですが、まだ銀行口座ができていないということで、しばらくは約束通り現金払いとさせて頂きますね。領収書はご持参いただきましたか?
はいっ、どうぞ! ……あっ、そういえば名刺も作ったんです。改めてになりますが、地球連合株式会社、代表取締役社長の桜丈小春です。しっかり頑張りますので、またいつでも現場に入らせてください。
いかにも女の子っぽいお名刺ですね〜。名刺に可愛らしいキャラクターもデザインしてますが、これ発注したんですか?
いえっ、そのキャラクターは私が描きました! もしゼリストさんの会社のイメージキャラクター制作などあれば、ぜひ私にやらせてくださいっ!
うちの会社は旧態依然としてるんで、こういう可愛い系キャラクターは上層部が受け入れないかと……。それにしても地球連合さんって色々珍しいですよね、異様に清掃が得意だし、若い女子ばかりの会社だし、社名までおかしいし。そういえば桜丈さんっていう苗字も中々珍しいですよねー。うちの親会社も桜丈ホールディングスっていうんですよ。たしか、うちの資本の67%持ってたはず。残り33%は銀行系列ですが。
子会社の人から見て、親会社の桜丈ホールディングスってどうなんですかぁ?
普段は何も意識しませんね。親会社の清掃の仕事は全部回ってきますけど、お互いに何か優遇し合ってるわけじゃないですし。それに案件は銀行関連からの紹介が多くて、親会社案件は全体の3割くらいなんで。桜丈ホールディングスのほうも経営には何も口出ししてこないって、うちの役員が言ってましたね。……あっ、そういえばうちの社長は銀行から天下ってくる人で3年毎に交代って感じですから、むしろ他の株主のほうがガッツリ食い込んできてるんですかねえ?

 担当者はそれ以上、桜丈ホールディングスとの関係性をよく知らないらしかった。大きなグループ企業とか、旧財閥系というイメージは漠然と持っているそうだが、それは世間一般のものと同じである。

 それから小春と担当者は、次の現場の打合せやスケジュールを確認し合った。また、請負の売上については、地球連合の銀行口座ができるまでは、現金払いをしてくれることを改めて確認した。少なくとも現金払いの間はお金がすぐ確保できるため、来月末にゼリスト建物管理に支払い予定の清掃機材費用35万円は問題ない見込みである。

 そして担当者に挨拶を済ませた小春は、小雪と千景と一緒に清掃道具をまとめ、帰路についたのだった。

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登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

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