第7章(4)

文字数 3,728文字

 小春たちは、玄七郎に対して地球連合のすべての経緯を話して聞かせていた。

 ゼリスト建物管理から清掃業を請け負うようになったこと、請負価格は採算ラインの限界点なため儲かっているとは言いづらいこと、地球連合の設立登記が完了したこと、各種の銀行からは追い払われたこと、信用金庫に何とか法人口座を開設できたこと、無人店舗事業を考え始めたこと、その物件の調査のなかで弁天町の店舗物件を買おうとしていること、物件について信用金庫の融資の審査中であること、日本政策金融公庫には打診したものの桜丈ホールディングス社長に就任しているせいで難色を示されたこと。

 これら全ては、法人運営に慣れている人であれば気にも留めるほどではなく、何気ない出来事の連続なのかもしれない。だが小春たちにとっては初めてのことばかりで、予想外の衝撃もあり、目まぐるしい展開だった。


 そうした成り行きを黙って聞いていた玄七郎は、小春の話が終わると、小さく相槌を打つ。

……ふむ……。
何とか言ったらどうだ玄七郎。まさか私たちがここまでやるとは思っていなかったのではないか?
ここまで、とは、どこまででいらっしゃいますか?
む? そ、それはだな……売上が上がり始めているところか……。
先ほど小春お嬢様がご説明されたではありませんか。請負価格が明らかに安く、採算ラインに乗るか微妙で、どんな会社であろうとも仕事を振ってくれるはず、と。そんな仕事をこなして恥ずかしげもなく自慢でございますか。
くう……。だ、だが私が掃除したところがピカピカに……。私がどれだけのシミに決戦を挑んできたと思っているのだ……。
私のささやかな意見としては、状況ほぼ変化なし……と受け止めます。もちろんお嬢様がたが右往左往して足掻くこと自体を否定しているわけではなく、帝王学学習にとって大いに喜ばしい実践であり、このまま形振り構わず進んでみて、無惨な大失敗をぜひとも経験してみてほしいものでございます。
状況変化なし、悔しいけど、そこだけは玄七郎の言うこと認めるよ。でも、無惨な大失敗は認めない。確かに右往左往してばかりかもだけど、小さな一つ一つが私たちにとっての新しい糧になっていて、これが成功に繋がるって実感が確かにあるんだよね。
…………。
そうですよ玄さん、私たちが降参すると思ったら大間違いってなもんです。
……水無月様の場合、帝王学講義への出席はともかくとして、仕事についてだけは管理部に戻られたほうが楽ができるのではないですか?
そりゃまぁ、そうに決まってますけど。地球連合に参加して土日の休みとかも関係なくなっちゃいましたし、寝てる間も事業の今後を考えたりして、これから365日年中無休で働かなきゃならないんだなーって思い始めてます。でも、なんでか不思議なことに、今はとーっても前向きな気持ちなんですよね〜。
水無月様は、PL脳の方々の世界においては最上位のキャリアでございましょう。ですがお感じになっているように、BS脳の世界はまったくの別世界でございます。貴方様のキャリアを評価してもらえる余地も皆無です。せっかく積み上げてきたものを台無しにしかねませんぞ。
よく玄さんにはエリートって茶化されますけど、私のPL脳キャリアはもう十分ですし、これ以上先には大したものは残ってませんって! どーしてもダメになって奴隷として生きなくちゃならい世界に戻っても、私の経歴なら何とか食べていけますし。まぁ地球連合でのほうが奴隷のように働いているわけですが、心は奴隷じゃないなって思います!
…………。
知ってるよ、玄七郎って言い返せないときは黙るんだよね。つまり今の対決は、千景先生の完全勝利!
……むう……。
ククク、玄七郎が悔しがるのはいい気味だ。泣いてもいいのだぞ、その方が私の気分がさらに良くなる。
……正直な話、まさかお嬢様がたと水無月様がある程度の決意を固められているのは意外でございました。しかしながら皆さまが大失敗するだろうと私が確信していること、そしてその大失敗は帝王学をより切実に実感してもらうにあたって都合よく、全体として悪い状況ではないという理解は変わりません。
その理解はきっと踏み躙られる、私という存在の大活躍によってな!
今はいいよ、玄七郎がどう考えていようとも。それでね、玄七郎に今日は頼みがあるの。どうしても……どうしてもお願いしたいこと。
慎ましい小春お嬢様が私に頼み事とは、珍しいこともあるものでございますな。なるべく善処いたします、どうぞ仰ってくださいませ。
さっきも話した通り、弁天町物件を押さえたいんだけど、今はまだお金が足りないの。清掃業でコツコツ稼ぐのを待っていたら物件を逃しちゃう。東京みらい信用金庫が400万円を融資してくれたとしても、差額の220万円……それから売買の諸経費で40万円くらい持っておかなくちゃならないとしたら260万円が足りない……。
地球連合の手持ちのキャッシュは?
清掃業での稼ぎと、小雪が貸してくれた19万円を合わせて、法人口座と現金で70万円くらい持ってる。
小春ちゃん、来月末の清掃機材35万円の支払いも忘れないでね。
あっ、そうか、そうだよね。ということは必要なお金は260万円プラス35万円で、295万円。でも私たちは70万円しか持っていない。もしかしたら日本政策金融公庫が200万円を創業融資してくれる可能性もありそうだったんだけど……私が桜丈ホールディングス社長ってせいで、ダメになる可能性が高そうなの。
足りないのは225万円か。くそう、私がもっとお金を貯めていれば……。
……つまり?
お金を貸して、玄七郎。300万円……ううん200万円でいいの。
お断りします。
えっ、そんな!? お願い、玄七郎、お願いだよ……。
お断りいたします。
ど、どうかお願いいたします、お金を貸してください……。本当に、どうか……。
お断りいたします。
だ、だって日本政策金融公庫がダメになったとしたら、その理由ってたぶん桜丈ホールディングスの社長だからなんだよ? 私のせいじゃないと思うの。
事業とは、自分の実力など何の関係もないところで、そして、あからさまに無慈悲な事情によって、望みが絶たれることなど日常茶飯事の世界なのです。お嬢様は運がなかった、それだけのこと。
あんまりだよ! いくら私でも酷いって思うよ!
そういう酷い世界で勝ち続けることを求められているのです。運命を呪っている暇があるのなら、次の一手のため思考を切り替えるのが我々事業家の歩む道でございます。
許すまじ玄七郎……ここが戦国なら、刀の錆にしてくれるところだ……。
私も銀行預金65万円ありますし、証券口座で運用してる株式が今40万円くらいあるので、それを売り払えば……105万円は捻出できますね。だから100万円だけでいいですよ、玄さん、100万円お願いします!
お断り、いたします。
…………。
…………。
…………。
ど、どうやっても答えは変わらないのかな……?
まさか小春お嬢様は、この私に二言があるとでもお思いですか?
……そんな……どうすれば……。
お姉、オヤジだ。
お父さん……?
熱海にいるという謎の男……何のアテにもできまいが、200万くらいなら奪い取ることもできよう。最悪、熱海のマンションのクローゼットとかを粗探しすれば100万くらいは掘り出せるかもしれないぞ。実際私は子供のころ、熱海のクローゼットに突っ込んであった封筒に入った金を見たことがある。たぶん50万くらいの束だったと思う。
お父さんか……あんまりちゃんと話す機会なかったし、何をどう話せばいいんだろう。
こんな危機じゃないと選択肢にも出てこない父親って……なんだかなぁ。
実際顔を合わせる機会があまりなかったからな。オヤジは仕事中毒だったし、どこかに遊びに出かけたりするのはいつも玄七郎とだった。私たちにとってオヤジは形式上の何かだ。
でも、こんな時だからこそ、か……。そもそも日本政策金融公庫が難色を示したのは、私が桜丈ホールディングスの代表に登記されたせいであって、それはお父さんにもかなりの責任がある。だから私にはお金を借りる言い分があるはず……。よし、行ってみよう、熱海へ。
カチコミじゃあ! オヤジから10億奪ってくれよう。お姉、カネの強奪は私に任せるがいい。最悪、オヤジをこの手でヒットする。
なるほど……お嬢様たちが事業で苦労に苦労を重ねるのも良い傾向ですございますし、ここで旦那さまと会っておくのも良い傾向かもしれません。
良い傾向とかいう無機質な言葉で片付けるな! 100万すら貸そうとしない玄七郎のせいでもあるんだぞ!?
いつ熱海に発ちますか? その間は、帝王学講義を一時中断するのも悪いことではございません。むしろこの度の成り行きは、学びのためのプラスアルファとして役立ってくれるでございましょう。
今日にでも行きたいところだけど……もう夜になるしね。だから明日、朝一番で熱海に向かうよ。お父さんにも今晩中にメールで一報入れておこうと思う。
元社長……いったい何してるんだろう……。元社長がいきなり雲隠れしても、うちの社内に何の動揺もないから、よっぽど影響力なかったんだなぁって思う。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色