第12章(3)

文字数 5,318文字

さて皆様、楽しくも苦渋に満ちた経営ライフをお過ごしでございますでしょうか。BSの講義に戻るのは、世界構造を一通り外観し終えたあとだと考えておりましたが……本日はBS脳を深掘りする日といたしましょう。
なぜだ? 別に不満があるわけではないのだが、あっちこっちと忙しいものだな。
一昨日、両お嬢様が熱海に行った際、旦那様から少々のBS講義を受けたそうでございますな? それが問題なのです。
何が問題だったのー? お父さんのお話が間違っていたということなのかな?
いえ、旦那様の話が間違いというわけではなく、確かに正しい説明だったのでしょう。それでも、単に2500億円の債務超過の正体を外観しただけの話で終わってしまったようで、それだけだと皆さまの誤解を呼ぶ可能性があるかもしれないと危惧がございます。そこで世の中の全体感の話も交えながら、私のほうでなるべく早めに補講をすることが必要だと判断した次第です。
先日のオヤジの話の延長線上ということだな。いいだろう、聞いてやる。
皆さまは含み益、含み損という言葉は聞いたことがございますな?
お父さんと話をしたときに聞いたよ。会社は決算書上に現れない隠れた利益――含み益のほうを貯めていくのが賢いんだって。
含み益を重視する経営――税金対策を主軸とする、一つの理想的なスタイルであること確かでございましょう。ですが、まず第一に意識してほしいことは、旦那様は実業家として日本有数の一人だと言うことです。そのような方が語る経営というものは、もちろん正しい側面が多いのですが、一方でレアケースなのだと受け止める視点も持って頂きたく。旦那様は謙虚な傾向があるため、ご自身が特別だと考えていないようでございますし。
お仕事を通して色んな経営者と会う機会がありましたが、なかでも元社長って群を抜いてアブノーマルな仕事ぶりだったなぁと思いますよ。だけど、それを言っちゃえば玄さんもかなりアブノーマルですけど!
私は極めて正統的な人間であろうと思っております。ついでに言えば、正直でお茶目かつ利他的精神溢れる善人であることは明白でございます。
何それー。どこから突っ込めばいいかわからないよ。
妄想はお子様の特権だと玄七郎が以前言っていたな。その言葉をそっくりそのまま返してやろう。
私は信用金庫の融資担当者として様々な零細企業の実情を目にする経験を積んできましたし、ホテル経営者としても多くの中小企業様とお取引させて頂く機会に恵まれました。私は旦那様よりも、より世の中の実像に近い感覚を有していると考えております。
元社長の語っていたことは、あまり真に受けるなということでしょうか?
帝王学を習得中の皆さまがたに教授する内容としては、ややバランス感覚を欠いているご意見だったと受け止めてください。さて、含み益、含み損については、すでにご理解のうえという前提で話を進めます。
桜丈ホールディングスは、含み益、含み損もどちらも抱えているが、含み益のほうが多くて、債務超過2500億円はおそらく問題にならないという話だったぞ。
その通りです。特に大きく影響しているのは、桜丈ホールディングスが取得・開発してきた土地建物にありまして、東京の不動産価格は桜丈ホールディングスの決算書上の簿価よりもだいぶ高騰していると言えます。旦那様は事業買収での失敗は多かったのですが、それを覆い隠してくれるほど不動産価格が高騰していますから、全体の差引で考えると実態的には債務超過ではございません。
不動産に助けられているということなんですね。子会社を統括する部署にいた立場として私もよく理解してるのは、桜丈ホールディングスって別に事業の売買や、子会社からの配当では儲かってないはずなんですよ。そこでのマイナスを補ってあまりあるほど不動産が伸びたんでしょうか。
今の水無月様のご指摘は重要でございます。まさしく、桜丈ホールディングスは事業では大して振るわなかったのです。片や、通常の会社を想像してみてください。肝心の事業で上手くいかなかった場合に、会社が生き残れる可能性などあるでしょうか?
普通なら、主力事業が失敗すれば、会社は破綻するに決まってるよね。そういう風に聞けば、桜丈ホールディングスはかなりのレアケースなんだって分かるかな。企業の形として勉強にはなるけど、参考にするのは程々にしたほうがいいのかなー。
誤解を恐れず一般化して申し上げますと、普通の会社においては多額の含み損を抱えている場合が多く見受けられます。
世の中的には、桜丈ホールディングスと逆なのか? むしろ利益が出ているように見えて、本当は債務超過だったりする会社が多いのだろうか。
債務超過までいくかどうかは兎も角として、決算書上の数字よりも実像が悪い会社のほうが世間では多いものです。旦那様の話ばかりだと、ここをお嬢様がたが誤解する可能性がありましたので、今回のBS講義補講とさせて頂くわけでございます。
でも、お父さんが言っていた決算書上のBSと、実質的なBSという考え方自体は、正しいものなのかな?
正しいです。決算書上のBSを財務会計、実質的なBSを管理会計などとすることもあります。そして一般的には、決算書上のBSよりも、実質的なBSの数字が悪いケースが多いのだと知っておいてください。
含み益というのは、簿価よりも、本当は価値がある場合なのだろう? そして含み損というのは、簿価よりも本当は価値が低いものだ。どういう状態になれば含み損が発生するのだ?
桜丈ホールディングスと逆だとすれば、土地や建物の簿価よりも、実際の売買価格は低くなってしまう状態なのかなー?
それほど多くの企業が不動産を所有しているわけではございません。通常の事業の流れから考えていくことに致しましょう。さてこちら――。
地球連合の BS!
で、ございます。ふむ……見れば見るほど、これは何も言うべきことがないBSですな。
どういう意味だ? 文句を付けたいのか?
金融機関的な目線で、むしろ文句を付けられる場所を粗探ししようと試みているのですが、何も言及する場所がない――つまりどこを切り出しても正しい数字だろうと想定されます。強いていえば、買ったばかりの弁天町620万円は、仮に売り出せば650万円くらいにはなる可能性がありますから、30万円くらいは含み益が隠れているのやもしれませんな。
含み益があるなら、少しは喜んでもいいのかなぁ。頑張って弁天町を手に入れただけのことはあったよ、肝心の無人店はまだ成功してないけどね。
ここでBSの学びのために、地球連合が蕎麦屋を開業してみたとしましょう。この蕎麦屋は、お嬢様がたが料理するのですから、とにかくクソ不味いという設定にいたしましょうか。
いやそんな設定はいらないだろう?
いつも玄七郎が勝手に料理しちゃうけど、そこまで酷くないと思うよ! たぶんお蕎麦くらい作れるし!
無駄な設定ではございません。お嬢様がたは商品であるカケソバを作るために、蕎麦を仕入れしますな? ここでは蕎麦を100万円分仕入れたとしましょう。するとBSはこうです。
蕎麦在庫を確保したことをご確認ください。
お蕎麦を銀行預金100万円を使って仕入れたから、在庫が100万円分増えたんだね。
当たり前だな、それがどうした?
水無月様は私の言わんとしていることがわかりますな?
蕎麦っていうのは生モノですよね、どうしたって賞味期限があります。だから、もし蕎麦が想定通りに売れなければ、この在庫はどこかで処分されなくてはなりません。つまり玄さんの言いたいことは、資産の部に載っかっている蕎麦ですが、資産とは名ばかりで、実態としてはちゃんと価値があるかどうか分からないということですよね?
お嬢様たちのカケソバはクソ不味いため、当然あっという間にお客様が逃げ出します。伝説的な不味さであり、まさに恐怖です。この噂は噂を呼び、誰一人お嬢様がたのカケソバを口にすることはなくなるでしょう。すると蕎麦の在庫は動かなくなってしまい、実質価値ゼロとなることはおわかりでしょうか?
私たちのお蕎麦が不味いっていうのは聞きづてならないけど……実質価値ゼロなら仕方ないよね。諦めてBS上から消すしかないでしょ。そこは事業なんだから、お店を始める前に覚悟を決めてあったはずだよ。
ところが……世の中には小春お嬢様のような人ばかりではないのです。この不良在庫をBS上から消す人もいれば、消さない人もいる。
えっ? 不良在庫なのに、BSから消さないなんてあり得るの?
社会正義に則れば、BS上から消すべきでしょう。しかし消してしまえば決算書の数字が非常に悪いものになってしまいます。試しに消してみましょう。
あっ、債務超過になっちゃった!
確かに数字が悪くなるが、正統な数字であろう? ならば別にいいではないか。
ただ、こういう状態になっちゃうと、普通はもう銀行借入なんて難しくなりますよね? とすれば企業としては命運が絶たれたも同然ですし、経営者ならばこんな債務超過状態になることは避けようとするはず……。
在庫の数字を正式なものに変えるのは経営者自身だから、数字をよく見せかけるために、わざと在庫として残しておくってことなのかな。そうすれば実態は債務超過なんだけど、BS上では経営が上手くいっているように見えるかもしれない。
そもそもセーフなのか、賞味期限を過ぎた蕎麦をそのまま在庫に積んでいることは?
蕎麦が腐ろうが何だろうが、そこに置いてあれば、確かに在庫なのでしょう。100万円で購入したことも事実でありましょうし。
あくまで決算書上だけの話として割り切れば、在庫をそのままに表示するか、ゼロにしてしまうかで全く違う企業に見えますね。ゼロにしてしまうと八方塞がりで、何も打つ手がなくなりそうです。
今はお嬢様たちのクソ不味い蕎麦という事例を用いましたが……この在庫が家具であったとしても、薬物であったとしても同じことです。たしかに家具なら腐らないかもしれませんから、一見抱え続けていれば資産としてカウントできると考えるかもしれません。ただし売れないものを持っているだけだと倉庫代が掛かるだけですから、売れ残りが確定した時点で廃棄されなくてはならないはずです。
だから世の中全体としては、在庫とかを調整することで、本当は酷い経営状態なのに、決算書上でよく見せかけている会社が結構あるということだな?
桜丈ホールディングスとは逆に、含み損のほうが大きい会社は比較的多いということを改めてご留意ください。今後、取引先を吟味するに当たって、こうした理解は非常に重要になってきます。取引先の決算書をご覧になった際、特に注意しなくてはならないのは、次のような項目の数字の比率が一際大きい場合でございます。

■在庫

本当は価値がなくなっている在庫を、決算書では計上したままにしている。


■売掛金

取引先の経営悪化や倒産によって、回収困難になった売掛金を抱えている。


■土地・建物

取得価格より大きく価値が下落している不動産を所有している。バブルの時期に取得していたり、工場や倉庫の用地として取得した地方不動産には、大幅に価値が下落しているケースが多い。


■貸付金

経営者の一存で知り合いに貸し付けたりする場合、大抵は焦げ付く。


■雑勘定

仮払金、仮受金、 前受金、 前払金、未払金など、通常の商取引ではあまり発生しない項目があると、何かが隠されている可能性が高い。

何っ? 売掛金も注意なのか。地球連合の売掛金はどうなんだ?
地球連合の売掛金の中身は全部ゼリスト建物管理のものだから、回収できない可能性はないと思う。ゼリストは優良企業なんでしょう?
ゼリストなら相当な優良企業の部類だね。だから幸いにも、地球連合の売掛金は100%問題ないと思うよ。でも世の中、ゼリストみたいな企業ばかりじゃないから、回収できないパターンは結構あるね。
お嬢様がたの売掛金に関しては何ら問題なく、堂々と資産計上していればいいでしょう。しかし売掛金には回収困難なものが混入しているケースは多々ございます。そうして決算書を少しでもよく見せることで、銀行融資に繋げなくてはならない企業は多いものです。
そっか……銀行融資を引き出すために、懸命に頑張って数字を作って、少しでも決算書を綺麗に見せようとするんだね。
意図してやってるんだったら、粉飾決算じゃないんですかね?
神の目線から見れば、厳密には粉飾決算になるやもしれません。しかし誰がそれを審判するというのですか? 税務署が粉飾決算を指摘するとでもお考えですか?
言われてみれば……税務当局側から見れば、粉飾決算で利益を嵩増しさせる会社からは、より法人税が徴収できる……だったら当局は濡れ手に泡で儲かるわけで、仮に粉飾を見つけても指摘する立場じゃないかもです。『あなた方は法人税を多く払ったので許しません、今すぐ返します』なんて言うわけないですし。
地球連合の蕎麦の在庫がある前と後では、銀行借入に多大な違いを及ぼすことは分かった。だからこそ粉飾決算がなされるのだな。だが、桜丈ホールディングスはどうなのだ?
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登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

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