第17章(1)

文字数 1,597文字

 弁天町のイベントスペースを自ら丸1日予約して、小春たちは出版社からデータで送られてきたマンガ画像の翻訳作業に集中していた。

 タブレットに付属したタッチペンで、文字を囲むとそこが各国語に翻訳される。翻訳だけがAIで、あとは人海戦術だ。清掃業の合間には、小春たちはこのイベントスペースに戻ってタッチ作業に従事するし、清掃業の現場にまでタブレットを持ち込んで、待ち時間にはひたすらタッチを繰り返すのだった。

 作業が終われば、今回用意したポータルサイトにマンガを登録したうえで、そのマンガの版元に報告していく。ポータルサイトにアクセスしてマンガを読むには有料課金だが、日本でのビジネスモデルと同じく、1巻や2巻、時には5巻くらいまで無料で読ませ、それ以降も読みたければ都度有料課金が発生するビジネスモデルだった。つまり、出版社とレベニューシェアでやっている限り、少なくとも無料課金の1〜5巻くらいまでは小春たちの完全タダ働きが約束されていた。いや、タダ働きならまだいいが、毎月のAI翻訳ロイヤリティ、サーバー代、保守費用などがトライアスの負担なのだから、膨大なお金を負担しながら労働力も提供するという、奴隷よりも悲惨な状況だと言えた。

せっかくマンガをめくっているのに、これマンガを読んでる暇なんてないね。
マンガを読みながら作業できるなら少しは気持ちが楽かもしれないが、5倍くらい時間がかかってしまうことになる。もう読むことは考えず、無心でやるしかないだろう。
私たち3人だけだと途方もないね。この作業、バイト雇おうか?
たが、ただでさえ膨大なコストを支払い続けているのに、バイトにまで給料が発生したら絶望だぞ。
それでも登録マンガ数を増やすスピードが上げられるなら、バイトさんの助けにすがるしかないよ。とにかく今は無料で読める範囲のマンガを増やしまくらなければならないと思う。
OK、求人出そうか。でも求人広告も安くはないし、今どこも人手不足でまともな人材を獲得するのは難しいんだよね〜。
マンガを読みながらバイト代もらえるって言えれば幾らでも応募ありそうだけど、作業効率5分の1になったら元も子もないしね……。それと、命運が掛かってる私たちだからずっと継続できるけど、普通のバイトさんだとこの作業かなーり辛くない?
ぶっちゃけ辛い。マンガが読めるわけでもないし、楽なわけでもないし、何のスキルも身につかないし……うまいことバイト雇えても、すぐ辞められちゃうかもね。
それでも募集広告出していくしかないよ、なんとか仕事してくれる人を見つけて登録マンガ数を増やしていこう。
いや待てお姉、私の歴史上、最大最強の名案が浮かんだぞ!
どんな案?
玄七郎を雇えばいいのだ!
玄七郎を!? やってくれるかな?
いま交通誘導員として毎日働きに出ているのだろう? ならば交通誘導員を辞めさせて、トライアスで雇うのだ。うるさい小童だが、仕事については放置でも安心して任せられる。
深夜や早朝帯の交通誘導員って、きっとかなり時給良い仕事だと思うよ。平日昼間の内勤のこっちで、見合う給料になるのかなぁ?
玄七郎になら深夜の交通誘導員と同じ時給で問題ない。あの男のことだ、文句ばかりだとしても、仕事の能率については普通のバイトの数倍は期待できる。
たしかにそうだよね……。玄七郎ほど仕事熱心な人材は他にいないよ。任せる仕事がルーティンワークだからこそ、あの実直さがより輝くんだと思う。急に辞めたりする心配もないし、私たちがいないところでサボったりもしない。
ただのバイト募集なのに、言われてみれば玄さんが最高の人材に思えてきた……。こっちで働いてもらおうか?
うむ、あの悪鬼ならば、他のバイトの2倍の時給を払っても割に合うはずだ。
さっそく電話してみるね。
 小春は携帯を取り出してタップした。3コールほどすると、玄七郎が応答する。
あっ、玄七郎、私だけど――。
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登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

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