第21章(5)

文字数 3,730文字

売買される会社がどのように値付けされるか想像付きますでしょうか、小春お嬢様?
会社の売買価格……? 正直まったく想像つかないんだけど……。
はいそうですか、で許してもらえるとお思いですか?
……うーん……本当の会社の価値ってことなら、BS上の純資産の額……決算書上のものじゃなくて……含み益とか含み損を差し引きした、実質的なBSの純資産の額――それが会社の本質的価値なんじゃないかな?
桜丈ホールディングスに当てはめてみると、どう計算されますか?
決算書上はマイナス2500億円の価値だけど、お父さんも玄七郎も実質的なBSの純資産は少なくともマイナスにはならないと言っていたよね。だから差し引きプラスと考えたら、桜丈ホールディングスには100億円くらい価格が付いてもいいんじゃないかな。完全に当てずっぽうだけど。
実質的な純資産の額が会社の売買価格と同等だとすれば、会社を買いまくったほうが得だと思いますが。まぁ小春お嬢様にまともな回答を期待してもしょうがないので……『よく頑張ったで賞』を授与しておきましょう。
嬉しくなーい。
では小雪お嬢様?
本質的な会社の価値など誰にも決められるはずもない。人気投票のようなものだからだ。しかしあえて計算するとすれば……会社の稼ぎ出す利益がどのくらいかが重要ではないか?
どのくらいかを聞いているのですが。小春お嬢様の答えはもっと具体的でしたぞ。
くう……その会社が稼ぎ出す10年間分の利益でどうだ? たとえば年間1億の利益を稼ぎ出す会社の価値は、10億ということだ。
小春お嬢様がご指摘したような、会社が所有する純資産の額は加味しないのですか?
……む? それは加味しなくてはおかしなことになる……いやしかしトライアスの場合はどうなのだ? そもそも何の純資産も持っていない状態だぞ。
せっかくですから小雪お嬢様にも『よく頑張ったで賞』を授与しておきましょう。
くぬう……ムカつくのはどうしてだ……。
いずれにせよ、小雪お嬢様の検討の方向性はそれほど間違っておりません。M&Aにおいては、買収対象の会社や事業が、『将来どのくらい利益を生み出せるか』が重要です。なぜなら当然ですが、買収側は将来の儲けを確保するために売買するのですから。
将来儲けるために買収する――当たり前すぎるが、その将来というワードがキーポイントか。
よく考えたら純資産だけで買収判断するわけないね。将来どのくらい儲けらるかが大事なんだ。
では水無月様、蛮人2人に会社の売買価格のベースを説明して差し上げてください。
決まった算定方式があるわけじゃないと思いますけどね。値決めも理屈じゃないので。ただ初心者にも参考になるような、一応の目安になるメジャーな計算式を2つ挙げてみましょうか。ホワイトボードに書きますと――。

■純資産+営業利益3年分

(※純資産額は決算書上のものでなく、実質的なものに修正して判断する)


■EBITDA5〜8年分

(※EBITDAは、営業利益+減価償却費。あるいは経常利益+支払利息+減価償却費など)

あー、なるほど! うん、分かった! 言われてみれば、そんな感じになるってこと理解できるね。純資産だけだとその会社の稼ぎ出す将来価値の判定が含まれていないから、『純資産+営業利益3年分』っていうのは確かになって思う。
EBITDA5〜8年分とは、私が10年分の利益と言ったことに近いのではないか? ならば私は『よく頑張ったで賞』どころではなく、オリンピック優勝クラスの答えを導いたことになる。未知のことにもかかわらず、ここまで答えに近づいたとすれば、私は偉大な預言者やも……。
ほかにもDCF法とか、比較企業法とか、配当割引モデルとか本当に沢山の計算式があるんだけど、『だから何?』って感じなんだよね。
買収側、売却側それぞれが交渉のなかで、自身に有利な計算式を持ち出して闘うイメージでしょうな。
カードゲームでの決闘みたいに、互いに計算式を持ち出して争うんだ!
本当は計算式なんて大して参考にならないよ。これらの計算から外れるケースなんて山ほどあって、さっき小雪ちゃんが言ったように誰にも価値なんて決められないからね。
それでも提示されたら一応は納得できる感じがしたし、指標として理解しておいたほうがいいと思った。とっかかりが何もないんじゃ考えるのが難しいからね。
計算式で算定した金額であれば、今の金余り市況なら比較的早く売れてしまうでしょうな。現相場を考えると安い金額が出てしまうということです。
現実の売買金額は『純資産+営業利益10年分』ということもあるし、『純資産+営業利益1年分』ということもあって、極端に振れるってことなのかな。
すべての案件の平均値を計算してみれば、先の算定方式に近いところに収斂されるかもだけどね。
個々の売買について、平均を考えたところで何の意味もない。トライアスが『純資産+営業利益3年分』とか言われたら、売却するはずもないからな。
そっかぁ〜、なんだかこうして学んでみると……あんまり夢のない業界だね。
1兆円で買収した企業が3兆円になった、というケースは時折り見聞きしますな。巨大な資本が行き来するようなマネーゲームになれば、そういうこともありましょう。ただし3兆円が1兆円になるような場合も起こりがちであり、一部の極端な成功事例をあげてM&Aに夢見てはならないということです。
独力で成功するに越したことはないようだ。その姿勢をベースとしつつ、あくまでBS構築の一環としてM&Aを捉えていくのがいいだろう。
だけど本業以外のところでBS拡大するなら不動産もあるじゃない? ねぇ玄七郎、BS拡大のために不動産に投資するのと、M&Aで会社や事業を買うのなら、どっちが良いんだろう?
それは個々の案件や、経営者の個性によって全く異なる結論になるでしょうが……この私に強いて選べというのなら、人の管理が最小限で済み、面倒をなるべく回避できる不動産にしておきますな。たまたまM&A案件が、自社事業とのシナジーを期待できるようなものであれば話は別かもしれませんが。
そりゃ玄さんは資産のほぼ100%をゴールドに集中させるような思考の持ち主なんで、変動幅が小さくて済む不動産って考えになるでしょうね。でも成長意欲が高い経営者ならM&Aに賭けてみたくなるんじゃないですか、うちの元社長みたいに。
今回の講義に触れる前は、M&Aを活用して一気に成長しようって夢も見ていたんだけどなぁ! 業界全体に山師みたいな人たちが多いし、失敗の割合もすごく高いし……早々美味い話は転がっていないってことなんだろうね〜。
難しいよ起業にしてもM&Aにしても、事業を切り盛りするっていうのは本当に……。あー、こうして考えていくほどに、私なんかがどこまで出来るのかなぁホント……。
今や日本有数の超有名AI起業家なのに、頭抱えて何言ってるの! 千景先生が大成功起業家である事実は動かしようがないんだから、ちゃんと自覚を持ったほうがいいよ!
持株ゼロの、なんちゃってAI起業家だけどね。周りが勝手にどんちゃん騒ぎになってるだけで。
桜丈ホールディングスがM&Aで失敗しまくってきたのは当然と言えば当然なのだな。だが選ばれし私という存在は、オヤジのような凡百の愚民とは違う。
それにしてもM&A講義を通して分かったことは、やっぱり事業はとんでもなく大変だーって結論なんだよね〜。当たり前かもだけど。
事業の成功って一つの奇跡だと思う。振り返ってみれば私たち、オフィス清掃やハウスクリーニング、不動産売買と自動販売機、無人マッサージ店にイベントスペース、それからトライアス事業と乱暴に色々やってきたけれど、よく綱を渡ってこられたよねぇ……。
その場その場の熱気に突き動かされてメチャクチャやってきて、デタラメにあっち行ったりこっち来たり、お金が全然ないから玄七郎にほとんどの資金を無理やり融通してもらったり……思い返せばカオスだよ。もう一回同じことをやれる気がしない……。
そのカオスぶりが至高なのだ。この極端な戦国空間においては、無秩序と混沌の果てにこそ栄光が待っていると私は信じる。
数学的には、起業もせず、M&Aもせず、何もしないのが一番堅実ということです。今さらですが改めて、カオスな綱渡りの最中である皆さまがたは、今後どのような選択をし続けるでしょうか?
BS拡大するなら勝負するしかないんだよ。ううん、この幻みたいな確率的宇宙で活動してるってことは、最期の瞬間まで賭けに賭け続けなきゃ人生丸ごとドブに捨てたようなものじゃないかな。動かないのは、堅実と見せかけたプログラムの罠だと思う!
何も知らなかった頃のほうが幸せだったかもですよ。ですがカオスだろうが艱難辛苦だろうが、帝王学に触れた今の私には、もう他の選択肢はないっすね玄さんのせいですドチクショー! もう破れかぶれってヤツです、ドンと来いコノヤロー!
クソつまらないモブ生活と引き換えに堅実を取るか、この極まったクソゲーである確率的オープンワールドにゲーマーとして参戦するか――迷うまでもない。地球を統べる哀しき宿命を背負った私の伝説が始まるぞ。刮目して待て!
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登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

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