第１９章（１）
文字数 6,444文字
弁天町のオフィスで、小春、小雪、千景の3人は作業の手を止め、面と向かって話し合っていた。隣では、玄七郎がイヤホンをしてタッチ作業に集中している。耳栓も兼ねて、色々なタイプの般若心境を聴きながら業務に集中しているらしい。
ちなみに玄七郎は当初バイトとして雇用する予定だったが、本人が収入確保のために毎日出勤を強く希望したこともあり、そのまま要望を受け入れると日本の労働基準法を遵守できなくなる。そのため双方が相談のうえで、玄七郎は自営業者としてトライアスと業務委託契約を交わし、本人が望むだけ業務に従事してもらうことになった。
トライアス側から指定するノルマは全くない。イヤホンで何を聴こうが自由だ。なぜなら玄七郎の場合は自分でノルマを設定し、勝手に誰よりも働くから何の問題もなかった。仕事は単調だが幾らでも業務量があるため、どれほど長時間の勤務をされても構わなかった。
結果として玄七郎は1日11時間勤務、早朝5時から16時まで休息時間もなく、そして1日の休日もなく働いていた。ほとんど修行僧であるが、実際に本人に業務中の気持ちがどんなものか聞いたところ「未熟者の私には程よい修行です。滝に打たれるのと変わりません」と答えるのだった。
時給は約束通り2800円としていたから、玄七郎の日給は3万800円にもなり、30日出勤だと92万4000円の請負収入だ。これを仮に1年続けたとすると、その収入は1108万8000円にもなる。
そして16時からは桜丈家に戻って以前と同レベルの家事に従事していたから、父親との約束通りにベイグランディアホテルズからの給与収入もあった。これらを勘案すると、所得税や住民税を払っても、何とかゴールド売却の税金を納めることも可能な範囲かと思われた。ほぼ無一文になった玄七郎に1000万円の課税など払えるわけもないと思い込んでいた小春だが、改めて玄七郎の実直な行動に瞠目させられる思いだった。
そんな玄七郎を尻目に、3人は議論を深める。
マンガAI翻訳事業、事業開始から1ヶ月で1763万円も使っちゃったよ。ただし、ローミックへの開発費・保守費の支払いは翌月にしてもらってるから、未払金も含めるとなんと3000万円超のマイナス！
マイナス万歳！ 3000万円さよなら！ 清掃業の稼ぎなんて全部一瞬で吹っ飛んだ感じ。もうここまで出費が大きいと痛みも麻痺してくるね。破れかぶれだよー、あはは。
ただし、マンガ課金収入もあるはずだ。決してマイナスばかりではない。
今朝時点での課金収入トータルは、478万6250円になってる。まだまだコストを補うには足りなすぎるけど、確かに幾何級数曲線で伸びる気配はあるね。ひたすら有料マンガの登録を増やし続ければ、この綱を渡りきることはできるかも。
タッチ作業を外注したことで、マンガ登録ペースが一気に増えたよね。その代わりすごいコストだけど。
作業請負業者が集めて動かしてるスタッフは今10人。まだまだ足りないから、今月中には20人になるよ。そのくらいスタッフがいれば、出版社が毎月出す新刊分もスムーズに対応できるでしょうね。
各出版社から預かる新刊を合わせると月600冊にもなるからね。その分だけ私たちのビジネスのチャンスが増えるのはありがたいんだけど、登録作業費やサーバー代も嵩んでいく……。
請負作業者の時給3000円ということは、1人が8時間稼働したとして日給2万4000円だ。そして月20日働いたとしたら月給48万円ということになる。このスタッフが20人となれば毎月のコストは――。
月960万円。
ひえっ……。ローミックに毎月開発を継続してお願いするより、ずっと大きいコストになるよ……。今月は3000万円の出費で済んだけど……もしかして来月は4000万円……。
ゾッとするな……しかし、もう立ち止まる選択肢はなくなった。引き返すことも不可能。ならば前に進むしか道はない。
助成金は今月末に払い込まれるよ。これで3〜4ヶ月分の費用が賄えるかなって安易に考えてたのに、実際は8000万円なんて2ヶ月分に満たずに溶けるんじゃないかな。
私たちが清掃業をどんなに頑張ったところで、どうにもならないレベルだね。本当なら、私たちの手に負えない事業だったのかもしれない。
それでも清掃業ばかりいつまでも続けるわけにはいかなかった。飛躍するためには、どこかで無茶をする必要が絶対にあるのだ。
無茶ついでにね、ちょっと考えてることがあるの。マンガ登録作業で物凄く忙しい最中なんだけど、このシステムを活かす形で別のビジネスも立ち上げてみようかなって思ってるんだよね。
別のビジネス？ どんな？
正直、需要があるかどうかは微妙なんだけど、一般書籍もやってみない？
一般書籍とは、具体的にどういうものだ？
ビジネス本とか実用書とか。小説はちょい難しいかもしれないけど、試してみてもいいかな。
玄七郎は、ビジネス本は PL脳の娯楽であって、時間の無駄だと力説していたではないか。
それは関係ないでしょう、今扱っているマンガだって娯楽だし。それに私たちとしては売れればいいんだよ。むしろ商売するならPL脳の人たちをターゲットにしないと全く儲からないと思う。
マンガなら外国人も読みたがるイメージは沸くけど、普通の本はどうなんだろうねー？ 微妙な気はする。まぁ、だからこそやってみて市場調査してみるってのは良いと思う。
マンガだけでもこれだけ苦労しているのだぞ？ そこに、他のものまで扱い始めたらとんでもない負担になっていかないか？ 労力的にも、金銭的にもだ。
負担については、むしろ大丈夫だと思うよ。最初に出版社と相談しながらシステムを微調整する手間はあるけど、いったん流れができてしまえば労力ゼロだし、ほぼノーコストじゃないかな？
労力ゼロで、ノーコスト……だと？ そんな美味しい話は信じないぞ。
だって基幹となるシステムは、今のマンガAI翻訳ビジネスの流用でいけるからね。出版社が送ってくるデータを、ほぼ手放しでシステムに流し込む部分だけ整えればいいの。あとは単なる文字情報だから、画像をタッチして範囲指定なんて必要なくて、そのまま翻訳かけて自動的にポータルに登録しちゃえばいいでしょ。
日本のサブカルチャーは元々すごく評価されてたから、マンガは売れるっていう見込みはあるよ。だけど小説とかビジネス本とか外国人が手に取ってくれるイメージ湧かないし、ほとんど売れなければサーバー代の割に合わなくない？
私も同意見だな。それに、マンガAI翻訳事業と違って、誰でも出来る簡単な事業にならないか？
まず小春ちゃんの指摘について。マンガはかなり高品質の画像を用いるわけだから、扱うデータが重くてサーバー代が嵩むよね？ だけどテキストデータだったら、画像と比べて格段に軽いわけで、サーバー代は大した心配をしなくてよいかな。
あっ、なるほど！ テキストが中心だもんね。サーバー代にはあまり影響しない。
そして小雪ちゃんの指摘については、その通りだよ。テキストは参入障壁がすごく低い。だけど、小春ちゃんへの答えの流用だけど、どうせ追加コストはほとんど掛からないんだから、手間も掛からないとすれば、ついでにやる分にはいいじゃない？ マンガと違って、一切の広告費を投入しなくていいでしょ。
ま、まぁそうだな……。何の損もないのであれば、やらないのはかえって損だろう。
でしょ？ 私もテキスト方面はそんなに売れる絵図を描けるわけじゃないんだけど、やってみたら案外ヒットする分野も見つかるかもしれないじゃない？ そういう市場調査を兼ねることができるからね。
国内旅行記とか、日本の歴史とか、何か外国人も興味ある方面が見つかるかもね！
日本刀や、浮世絵の研究のような、わざわざ翻訳本を作るほどではない超ニッチな学術書あたりも、その手の人に感謝されるかもしれないな。そうだ、私は最初からテキスト翻訳にもチャレンジするべきだと思っていたのだ。労力やコストもほぼかからないことも薄々勘付いていたぞ。さすがの私だけに、ビジネスを拡大することに余念がないのだ。
市場調査プラス、小銭が稼げればラッキーって感じでね。やるだけやってみよう。
勉強になるなー。既存のシステムを流用する形で、コストをかけずに新しい方面で事業展開できるんだね。私も何かできないか考えてみるよ。
そんなやりとりをしていたところ、千景の電話が鳴った。
千景が電話をとって応じてすぐ、警戒する表情になる。
ええ、トライアスの水無月ですけど……。……『ビジネスインデックス』さんですか。ちょっとスピーカーに切り替えますね。
スピーカーから男性の声が響く。
うちの雑誌で、AI領域に斬り込んでいる企業の特集を予定しているんですね。それでトライアスさんのマンガAI翻訳の取り組みを見つけまして……ぜひ一度取材をさせて頂きたいと思っての連絡です。
どこで知りました？ サービスの宣伝は海外で実施してますが、日本国内で知られるような活動をしてないんですけど。
経産省の助成金で認可がおりた企業様をチェックしていたとき、『グローバル新規事業助成金』枠で御社が入っているのが目につきまして。海外向けのポータルサイトなども拝見して、これはぜひ取材せねばと思ったんです。ただ、トライアスさんのHPとか探したんですけど、どこにもないみたいですね。公開されている情報だけだとあまり詳しいことがわからなくて、水無月社長に直接お話をお伺いできないかと。
トライアスも地球連合も、今のところHPは用意していない。今どきの会社にしてはHPがないなど珍しいが、単に必要がなかっただけだ。ただしトライアスでは記者が言うようにマンガを公開するための海外向けポータルサイトは用意していたし、地球連合ではハウスクリーニング受付用のサイトは持っている。
うーん……。
いかがでしょうか？ 記事になる確約ができる段階ではないんですけど、もし記事になれば損になる話ではないと思うのですが……。
AI領域の特集ってことだと、他の企業さんはどんなところがあります？
主に東証に上場している会社さんが中心になっちゃうんですね。なかなか日本ではAIで挑戦しようってベンチャーが少なくて。だからこそトライアスさんを取材してみたいっていうのがあります。
……何とかすぎる起業家……みたいな記事になったりしませんか？
えっと、なんですかそれ……何とかすぎる起業家、とは？
千景は以前テレビクルーから声をかけられた際、「美人すぎる起業家」としてニュース報道されかけたことがあった。それを強く警戒していることは明らかだ。
あっ、いえ、何でもないです。ちょっと考えさせてもらってもいいですか？ ご連絡先だけもらっておいて、こちらから連絡しますので……。
うちの雑誌の取材を受けようとしない方なんて滅多にいませんよ。きっとプラスになるはずですから、ぜひ一度……。
連絡先を書き留めた千景は電話を切った。
だってよ。
美人すぎる起業家が本当に嫌なんだね、千景先生は。
そりゃ絶対ヤバいって。マスコミにネタとして都合よく利用されるだけだし。大衆から叩かれる燃料を無防備に置いとくようなもので、取り上げられる本人にとって後々プラスに転ぶことなんてないよ。
美人すぎるネタで喜んで受けている女子が多い印象だが。
本当に美人でそんな人いる？ 本物はそんなキャッチフレーズ付けなくたって誰でもわかる。いつもマスコミが無理やり使ってるのは、十人並の子ばかりだよ。私だってそう。マスコミの犠牲者にはなりたくないなぁ。
いやいやいや、どう見ても千景先生は本物のほうなんですけど！
千景はそういうところに自信のなさが感じられるな。もっとツンと澄まして堂々としていればいいのだ。むしろ頭の腐ったマスコミの連中を捕まえて利用するくらいの気持ちで、美人すぎる社長として売り出せば結婚相手なんて幾らでも見つかりそうだがな。
私かなり厳しい家庭環境で育ってきて、褒められたことないんだ。叱られるほうが多くって……そのせいで自己肯定感が低いのかもしれない。だから自分が褒めてもらえるなんて違和感しかなくってね〜。
玄七郎に急に褒められたとき泣いたことあるもんね。
ふと玄七郎がイヤホンを外し、応じてくる。
私の名前が出た以上、聞きづてなりませんな。私は水無月様を褒めた記憶も、叱った記憶も一度もございませんが？
だろうな。
私は水無月様を評価できるほど偉い人間ではございません。
千景先生は普段、口説かれたりしないの？
恥ずかしながら一度もないよ、たはは……。
それはもう男どもが千景にビビっている証拠だろう。高嶺すぎる印象か、あるいは近寄りがたいとしか思えないのだ。千景はもっとバカっぽく振る舞ったほうが丁度いいぞ。
言われてみれば千景先生には隙がないんだよねー。
その点は小雪お嬢様に賛成です。女子はエリート化すればするほどお相手様を見つけるのが難しい。ポリコレに反した話であるのは確かですが、人間の本能に根差した部分であって一つの現実ですからな。
そういえば女医さんって結婚が難しいって記事を読んだことがあるな。平均的な女子と比べても生涯未婚率が突出して高いんだって。
プライドが邪魔するのと、医師は視野が著しく狭くなりがちのため異分野の男性に目を向けられなくなるのでしょう。お眼鏡に叶う極少数の男性は幾らでも他の女性がおりますので、中々マッチングしません。水無月様は、今のうちにプライドを捨てる訓練を重ねておいたほうがいいですぞ。
小春ちゃんや小雪ちゃんと一緒に毎日過ごすようになって、これでもだいぶ出来てきてきたと思うんですけど……。清掃業スタッフなんて、ちょっと前の私じゃ出来ませんでしたから。ええ、以前の私は視野が狭くなっていたと思いますよチクショー。
こんな話をするだけでも以前は怒り心頭でしたから、案外だいぶ成長されたようですな。どこかの色々とお気の毒でトンチキな某お嬢様2人と比べると、水無月様のほうが遥かに成長度合いが大きかったと言えましょう。私としては水無月様に何かを教授する意図はなかったのですが。
一番成長が足りていないのは某自称執事のほうだがな。
ホントそれ。まぁいいよ、負ける相手が千景先生なら。
2人は元々基盤がしっかり出来てたんで当然ですよ。先進国より発展途上国のほうが経済成長率が高いのと同じかと。
ともかくだ、マスコミの取材は、千景が嫌なら無理強いするつもりはないが、大衆の前でバカを晒すのも一種の訓練だという考えもあるぞ。
少なくともマンガAI翻訳事業は海外の取材じゃないと売上には少しも貢献しないと思うんだ。国内の取材は資金調達面で有利になるのかもしれないけど、ローミックもあと1億出していいって言ってるし、サイバーゼックにもまだ訪問してないし、国内メディアは必要ないかな。千景先生次第だよね。
私も頭のネジをもっと緩めるためにも、大衆にバカを晒してみることにするよ。それに国内メディアは今回あまり関係しないけど、一見無駄なこういう取り組みが、何かの事業に繋がっていく可能性もあるだろうからね。このあと、さっきの記者に電話してみる。
マスコミの前に意識して出るということは、道化師になる心構えを明確に持っておく必要があります。経済誌くらいなら購読層が限定されるのでまだ素のままでも許される範囲ですが、これが大衆紙やYouTubeやテレビなど万人向けになってくれば、何かの危険な薬をキメて正気を失くすくらいの気持ちで臨むといいでしょう。
どんなアドバイスなんですか、それ……。
ビジネスインデックスの記者の人は、経産省の情報だけで問い合わせてきたんだったら、千景先生の写真とか見てないはずだよね？ だったら少なくとも美人すぎるって扱いはされないと思うな。
そうだね、あんまり心配せず、私も社長としてやるだけのことやってみるよ。
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