第9章(3)

文字数 6,012文字

 小春たちは信用金庫のミーティングスペースを借りて、弁天町物件の契約・決済を行なっていた。

 契約立合いは地球連合から小春、小雪、千景の全員が参加していた。一つの節目だと考えてのことである。

 それから地球連合側の仲介担当だったゼノン都市開発から1人、売主側の仲介不動産会社から1人、そして売主1人、東京みらい信用金庫から斡旋された司法書士1人と、総勢7名もが手狭なミーティングテーブルを囲んでの契約決済となっていた。

 通常、これほど小さい物件売買だと売主は仲介会社に任せてしまって参加しないことも少なくないらしいが、売主は隣の駅――牛込神楽坂駅の最寄りのマンションに在住しており、日中も暇な主婦の方ということで立ち会うことになった。

 初めて売主と一言二言交わす機会があったのだが、その主婦は相続で物件を譲り受け、相続税を払うために不要な物件を売り出しているとの話だった。そのため早く換金しなくてはならず、相場よりはやや安めに売り出したところ、買付が殺到して驚いたという。最終的に7件の買付申込が入り、小春たちに決めたのは唯一の日本人だったからというのが理由だった。

 小春は初めての不動産売買ということで身構えていたが、決まりきった手続きは手慣れた人々の間で滞りなく進み、30分にも満たない時間で一連の作業は済んでしまった。生まれて初めて数百万円単位の取引をした小春だったが、あまりに淡々と契約が進んだためか、終わってみれば一瞬の出来事だった。

 そして小春たちは鍵を渡されて売買契約は終了となった。集まった人々が解散すると、小春たちはその足で物件へと向かった。5分も歩けば着く距離である。


 物件の前までやってくると、鍵を取り出した小春は2人を見やる。

私たちの物件。なんか、正直もっと高揚するんじゃないかと思ってたけど、済んでしまえば感慨はないものだね。
そんなものかもしれないよ。過程にあるときのほうが色々考えちゃうもので、その後は日常になるからねー。
地球連合でこれから100万の物件を買っていくのだから、一つ買ったくらいでは大したことはない。私たちならば来月あたりには新宿ゼノンマークスタワーのようなビルを手に入れているはずだ。

 物件のなかに入ると、残置物が幾つかあった。小さめのミーティングテーブルに、丸イスが4つ。それから使い古された小型冷蔵庫や、スチールラックが放置されている。残置物はそれほど多くないが、どれも処分に困る安物ばかりだ。

 以前は税理士事務所に賃貸していたらしいが、半年前に退去してからほぼそのままだという。最低限の掃除はされているようだが、業者が入って綺麗にしたというほどではない。元々売買契約は、残置物は放置で、現状には文句を付けないという約束だったし、契約条項にもそれは明記されている。納得のうえで買ったのだし、特に汚いわけでもないから、小春たちは構わなかった。第一、地球連合は清掃業を生業としているのだから、手入れがされていない部屋であっても綺麗にするのはお手のものだったからだ。


 小春たちは残置されていた丸イスに腰掛け、途中でコンビニで買ってきたペットボトルを並べて、手狭なミーティングテーブルを囲んだ。

道路もよく見えるな。やはり店として悪くなさそうだ。
この路面店も私たちの商売道具になるんだ……。早くここを使って稼がなくちゃならないね。
賃貸に出すと月5万円でしょう? だったら、それ以上の稼ぎを確保するのが最低限の目標かな。
売上5万円は低すぎる。いくら無人ビジネスでも、さすがにもっと稼げるのではないか?
早速だけど、まずは私たちの現状を確認していこう。小雪、ペンとノート借りていい?
うむ。
清掃業をこなした分は今まで現金で受け取ってきたから、この物件を購入した直後だけど何とか遣り繰りできてるね。でも法人口座ができた今後は、ゼリストから請負った仕事の売上は末締め末払いになる。当面は手持ちの現金で凌いでいかなくちゃならない。
セオリー通りにBS規模は拡大しているな。純資産額は微減――大して変化していないから、会社の実態が良くなったわけではなく、単に規模が変わっただけだ。
小雪ちゃんもお金出した以上、大人の私も出さないわけにはいかないな。明日には証券口座からもお金引き抜くから、100万円を小春ちゃんに渡すよ。
今はなんとかやれているし、大丈夫だよ千景先生は。どうしても困ったら貸してほしいな。
ううん、事業活動を考えていくうえでも、正確な全体の数字を把握できるようにしておいたほうがいいからね。だから、より正確なBSはこうなる。
おっ、さらに規模拡大したな。実態は変わらないのに、スケールが大きくなるのはゲームみたいで少し楽しいかもしれないぞ。オヤジがBS拡大病にヤラれているのもわかる気がする。
ただBSが大きくなっただけじゃ、何も変わらないとも言えるからね。借金が増えるほど利息支払いは増えるし、やっぱり都度の適度なバランスっていうのはあるんだと思う。大事なのは構造を整えること。
そのためにも、もっとお金を稼ごう。まずは手に入れたこの店舗――BS上では620万円で表示されているこの資産を使って、どこまでお金を増やせるかに掛かってるね。
予定通り、マッサージチェアの無人店舗を早々に試してみよう。第一に、清掃と内装!
今や私たちは掃除のプロフェッショナルだ。清掃ならばすぐに済む。
内装は……本当ならオシャレに飾りつけたいところだけど……ここはグッと堪えて、最低限のものでスタートしない?
そうしよう! 残置物は安っぽいけど、汚いわけじゃないし、まだまだ使えるよ。このミーティングテーブル一式、スチールラック、小型冷蔵庫……これは綺麗に整頓すれば、このまま利用してもいいんじゃないかな。
ということは内装コストはほぼゼロでいいな。あとはコイン式のマッサージチェアをレンタルすることだ。
ネットで調べて幾つかマッサージチェアを扱ってるレンタル業者があったから、そのうち2社に問い合わせして価格表とかを送ってもらったところだよ。導入したいチェアが決まれば、すぐに運んでくれるって。1台の相場は、だいたい月2万円くらい。
このスペースなら2台設置できるよね。どうしようか?
やっぱり2台じゃない?
稼ぐ機会が多いほうがいいし、当然2台であろう。
であれば、コストは2台で月4万円ということになる。賃貸で貸したら5万円なことも合わせて、最低でも月9万円の売上は必要ということだよ。
わ、月5万円以上と思ってたけど、そう考えていくと必須の売上がどんどん増えていくなぁ。事業って怖いね〜。
本当なら、私たちの誰かが毎日チェックしに来たり掃除したりするから、その分の対応コストも見ておかなくちゃならないんだけどね。あんまりハードル上げても何だし、まずは月9万円がベースの固定費っていう理解でいいかな。
コイン式マッサージチェア設置はすぐできるとして、あとは肝心の、どうやってこの場所を知ってもらうかだが?
ホームページとか作る?
そもそも無人マッサージチェア店を探すために検索する人なんているとは思えないよ。少なくとも都心に同様のサービスがほぼないから、探すことを思いつきもしない。しかも、わざわざ電車に乗ってここまで来る人もいないと思うんだ。ちょっと手間暇とコストをかける人は有人マッサージを選ぶはずだしね。
となればターゲットは近所の住民だ。
近所なら、王道はやっぱりチラシかな。まぁ私はチラシマーケティングなんてやったことないけど、それくらいしか選択肢ないっしょ。
チラシ! デザインが大事だと思うし、私が頑張って作ってみるよ。他のチラシとかもネットで色々調べて、それなりに整えてみる。それが完成したら近所にバラ撒けばいいね。
小春ちゃんばかりに負担かけちゃうね。売買進めたのも、借入も、マッサージチェアのレンタルをアレンジしているのも小春ちゃんだし。おまけにチラシ作りまでさせるなんて。
気にしなくていいよー、小雪や千景先生は清掃業でも頑張ってくれてるし! それにデザイン業務だったら、やっぱり私がやるべきじゃないかな。
その分、私がチラシ撒きに本気を出すとしよう。フフフ、私のポスティングに対する熱き情熱と、この日のために温存してきた必殺のワイルドカードを見せてやる。
やっぱチラシは自分たちで撒く感じ?
当然だろう? なんだ、千景はポスティング業者にでも頼む選択肢もあったのか? そういう軟弱なところが、玄七郎にエリート呼ばわりされるんだぞ。
小雪ちゃんもうちょっと冷静に考えてみてよ。需要があるのかどうかすら不明な新ビジネス1つのチラシ撒きのために、相当な時間を費やすのは非効率だと思わない?
非効率だろうと何だろうと、漢には、やるべき時というのはあるのだ。
だからそういう精神論じゃなくて、冷静にって話で。チラシ撒きで私たちが仮に3時間費やしたとして、いったい何軒にポスティングできるんだろう? だったら、その3時間を使ってゼリストの清掃業務を請負って、そこで稼いだお金をポスティング業者に払ったほうがずっと効率的だと思わない?
……む?
なるほど賢い! 私も自分でチラシ撒きするつもり満々だったんだけど、確かに千景先生の言う通りかも。私たちは清掃業を請負ったほうがずっと稼げそうだと思う!
でしょ? 小春ちゃん小雪ちゃんと初めて一緒に仕事をしてみて気づいたんだけど、2人ともつくづく脳筋すぎてびっくりしちゃうよ。常時アグレッシブなのは良いんだけど、何でも力技でねじ伏せようとするところ、ヒヤヒヤするから本当どうにかして欲しいなー。
千景先生はやっぱり地頭が本当に良いんだと思う。私たちの参謀役は千景先生だね。あと、自分が脳筋だって気づきもしなかったんだけど……私って迷ったら突撃みたいな性格だから、恥ずかしいけど本当に脳筋なのかもしれないよ。玄七郎からも、迷ったら行動することって聞いて育ってきたし……。
フ、フフフ、なるほど私にはお見通しだったぞ……私もポスティング業者に任せるべきだと考えていたのだが、いやしかし最初だけは経験のため自らの足を使おうと思っただけなのだ。千景が参謀だと言うのなら、私は軍師で構わない。
私からチラシ絡みでもう一つ提案いいかなー?
気軽に言ってよ、何何?
どうせ無人マッサージ店のチラシを撒くのなら、それに合わせて一緒にハウスクリーニング請負のチラシも撒いてみたいんだよね。
ハウスクリーニング請負……?
ほら、私たちだよ。地球連合は、商業ビルのクリーニングを仕事にしてるでしょ? だったら個人宅だって全然できるじゃない、清掃機材もあるんだし。
あっ!? 普通の家の清掃をやってみようってことか!
それは名案だ。私たちは一時期、ゼリストやネットサービスを通すことを悩んだことがある。どっちに頼んでも間でマージンを抜かれるのは同じと考え、結局はゼリストに頼りっぱなしだった。しかし今回チラシを撒くとすれば、それは本当に直接お客さんと繋がるということ……。
せっかく無人マッサージでチラシ撒くんだから、もう一枚くらいプラスしたって、それほど業者に発注する金額変わるとは思えないんだよね。だったらこの機会に2枚撒いちゃおう。万一思ったほどポスティング金額が変わらなければ、チラシ1枚で2つのサービスを併記しちゃってもいいわけだし。
すごい、そうしよう! ハウスクリーニングも、私たちの新しいビジネスになるね! それにチラシを撒くのは近所だから、移動もとっても楽できるよ。
ハウスクリーニングが繁盛すれば、ゼリストの仕事をやめてしまってもいいな。売上は2倍になるだろう。
私のざっくりした計算だと2倍どころじゃないと思う。小ぶりの仕事で1日に何軒も請け負えるし、もしその日が清掃業だけと仮定すれば、3人で1日売上15万円は立つんじゃないかな。仮に20日間稼働すれば月300万円の売上になるよ。まぁ、そんなにコンスタントに依頼は入らないはずだからあくまで皮算用だし、ハウスクリーニングの空き時間にはゼリストの仕事を今まで通りこなしたり、帝王学の講義を受けたりすると思うから、そこまで売上が伸びることはないと思うけど。あくまで理論上の最大値ね。
最大値ということなら、20日稼働じゃなくて、30日計算しなきゃ。すると最大で月450万円の売上が狙えるはず。
超絶ブラック企業へようこそ!
フフフフフフ……いきなり売上が数倍……たった2ヶ月働くだけで、弁天町の借金を全部返せてしまうぞ。
私たちが誰も給料を受け取らないって前提だけどね。それからハウスクリーニングのメリットがもう一つあって、個人相手だからこれからもずっと現金払いが期待できるの。
現金払いって普通じゃないの?
ゼリストから請負った仕事の入金は今後、通常の法人取引通りに末締め末払いになるんでしょう? だったらお金の回収は長いと2ヶ月後ってことになるわけ。でも個人さんなら現金払いが多いから、その日にお金をもらえて資金繰りしやすくなるってこと。
あっ、なるほど、現金で回収できるんだ! 個人相手の仕事って、そういう強みもあるんだね。
今の地球連合は綱渡りだからこそ、1、2ヶ月も早く払ってもらえるのは私たちにとって大きいな。
次の物件を買ってもいい気がしてきた! 桜丈ホールディングスみたいに事業を買ってもいいのかなー?
だからそれが脳筋思考なんだよね。ちゃんと地盤を固めつつ落ち着いてやろうよ。
脳筋かぁ……もうキッパリ認めるしかないね。そんなに簡単に性格は変えられないし、私は突撃隊長でいいや。難しいことを考えるのは千景先生に任せるよ。参謀総長は千景先生に決定!
だんたん役割分担がはっきりしてきたようだ。突撃隊長がお姉、参謀総長が千景だとすると……私はどうなる? カッコいい肩書を付けるべきだ。
ん〜、小雪は現場で何かやると完璧にこなすよね。清掃業務を任せると信じられないレベルでピカピカにしちゃうし、玄七郎の講義を聞いても復習をきっちりしてくるし……現場の兵士として一流ってことかな?
兵士……だと? お姉それは違うぞ、私にも突撃隊長のようなイカした二つ名が必要なのだ。
いや突撃隊長ってちょっと恥ずかしいけどね……。役職名じゃなくて二つ名だっていうのなら、『第六天魔王』でも『剣豪将軍』でも『独眼竜』でも自由に名乗ってくれていいよ。でも名刺には書かないでね。
それだ、私は剣の達人なのだから、剣豪将軍が相応しい。決まりだな私の役割が。
穴があっても入らなくていいのなら、それでいいんじゃないの。
役割の内容が全然わからないけど、小雪がそれでいいのならOKじゃないかなー。要するに、脳筋の私、実働の小雪、知能の千景先生って役割分担だよね。私が一番バカっぽいけど、それが私らしさなのかなぁ。
そうだ思い出した、事業に話を戻すけど――。
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登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

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