第8章(1)

文字数 8,500文字

 熱海駅を降りるとすぐ、小春と小雪は足早に、行き慣れたホテルに急いだ。

 千景は東京に残り、清掃業の請負作業を一人で対応している頃合いだ。清掃業のスケジュールは遅くとも3日前には決めていて、このところ連日スケジュールで埋めてしまっている。そのためゼリストに日時変更をお願いしたのだが、どうしても入居日の関係で動かせない案件が一つだけあり、比較的小さな案件だったため千景一人に行ってもらうことになったのだった。そして父親からお金を借りる業務に関しては、小春と小雪が責任をもってやり遂げることを約束し、決意を持って東京を出てきたのである。


 2人は、海を一望できるホテル最上階のバーでエレベーターを降りた。四方に開けた広い店内からは、穏やかな太平洋を広く見渡せた。昼時の今はカフェとして観光客に利用されている。土日や連休などは観光客で混雑しているが、平日の今日は閑散として開放感があった。

 小春と小雪は熱海に来るたびに立ち寄っていたため、勝手知ったる場所である。一家が所有している熱海のリゾマンと目と鼻の先にあるホテルであり、玄七郎に伴われて3人でよく来たものだ。

 一方の父親とは、熱海で顔を合わせるのは珍しい。なにせ父親は仕事三昧だったから、ゆっくり休暇などという姿を小春は見たことがない。だから父親が熱海のリゾマンに引きこもってニートをしているということ自体が、小春には半信半疑なところがあった。


 店内最奥に設置されている、海を見渡せるカウンター席――ジャケットの後ろ姿を見て、小春はすぐ、それが父親だと気づいた。

 小春と小雪は頷きあってカウンター席まで歩を進め、無言で父親の隣に並ぶようにして腰掛けた。雲ひとつない太陽の下、今日の海は凪が少なく一段と綺麗に見えたが、逆に言えば眼前には海だけであり、すっかり見慣れた風景に特に感慨はなかった。まして父親とゆったり過ごすという気分になろうはずもない。


 おそるおそるといった様子で、父親が隣の小春と小雪に視線を向けてくる。

や、やあ、お嬢さんたち……。見てみるといい今日の海を……なかなか穏やかな日和だとは思わないか?
あー、うん、そうかな……。
ふんっ、実にすっとぼけたオヤジだ……玄七郎並みに忌々しい……。
…………。

 父親の、照れたような、困ったような仕草。

――桜丈陸。

 桜丈ホールディングスの前・代表取締役社長にして、熱海のリゾマンに一人で引きこもる現・無職ニート。

 明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる4代目だが、実質的にはほぼゼロに近いところから今の桜丈ホールディングスを一人で築き上げた日本経済界の雄だった。

 店員がやってきて促してくる。
ご注文をどうぞ。
アイスティー、お願いできますか。ダージリンで。お砂糖は不要です。
コーヒーフロートを頼む。
かしこまりました。
 小雪がメニューのコーヒーフロートを指差し、嬉々として小春に語りかけてくる。
いつも玄七郎と来ていたときには、このバニラが乗ったものを玄七郎が激しく敵視して、私に注文させようとしなかったのだ。何でも玄七郎に言わせれば、このバーのバニラアイスは質の悪いラクトアイスを使用していて、その正体は油の塊らしい。私は別にアイスが好きというわけではないのだが、あえて注文してやったぞ。フフフ、ここでも玄七郎をやっつける私がすごい。
鬼の居ぬ間に、ってやつだね。考えてみたらいつも玄七郎と来てたお店だし、私たち2人で入ったのは初めてなのかな。
玄さんは元気にしているかい? こっちでブラブラしていると、顔を合わせるたびに玄さんに叱られていたことが懐かしく感じられる日々さ。
この状況だと、質問は私たちからじゃないかなぁ?
おっ、そうだね……今日のぼくは俎板の鯉になりきろうと思っているよ。上手く鯉として振る舞えるだろうか。
なんか、桜丈ホールディングス社長、引退したみたいだよねー。
……君たちは、ぼくが何から話せばいいと思うだろう?
いやおかしいと思わないのか、その質問は?
実際ぼくは当惑を隠し切ることができそうにない。こうして君たちと向き合うのは何年振りだろう?
いつも要領を得ないお父さんとの会話は、こっちが主導権を取らないと進まないよね。じゃあ質問していくよ。桜丈ホールディングスの代表取締役社長を投げ出したのは……なんでかな?
……恥ずかしい話だが……いや、どうせぼくの人生は恥ばかりだ……君たちには正直に打ち明けよう……どうやらぼくは不治の病に冒されているみたいなんだ。
えっ!?
…………。
その病気はおそろしく頑固で、しぶとく、どのような説得にも耳を貸さない。そう、まるで玄さんみたいなウィルスなんだ。365日24時間、玄さんに小部屋で問い詰められる恐怖を考えて欲しい。だからぼくはその病気から逃げるために、思念のすべてを振り払って逃げ切ろうと決めたのさ……。
い、いきなりお父さんが病気で苦しんでるなんて……。だって玄七郎は、そんなこと一言も言ってなかったよ!?
何もかも投げ出して逃げなくてはならなかった。今でも懸命に逃げてるところなんだ。君たちには申し訳なのだが、元々ぼくなど申し訳なさ丸出しの恥ずかしい人間さ。今さら恥じる必要などあろうか。
身体は大丈夫なの、ここでこんな風にコーヒー飲んでる場合じゃないでしょう? 病院は行ってるの!?
いやお姉、待ってほしい……オヤジは嘘を付いている。おそらく、私たちの同情を引こうとしているペテンの一種に違いない。正体を表せ、クソオヤジ!
……なるほど小雪ちゃんの指摘は鋭く、正しくもあり、間違いでもある。どう伝えれば少しは受け入れてもらえるだろう?
イラッとする質問ばかりだな。いい加減、自分の娘たちに『ちゃん』付けはやめてもらえないのか。
君たちに対するぼくの敬意の表れだと思ってもらえないだろうか。『さん』ではいかにも他人行儀だし、『様』だと玄さんの皮肉めいている。『殿下』や『氏』などと呼んだ日には君たちに忌み嫌われることくらい、ぼくだってわかる。だからぼくなりに考え抜いたのが『ちゃん』という敬称だったのさ。
今でも十分に忌み嫌っている範囲だが。まったく計りかねるという意味で。
お父さんは本当に病気なの、それとも仮病なの、どっち……!?
囁くのさ、ぼくの理性が。『もうここらで打ち止めにしときな』って。その声にぼくは少し安堵する。……だが……ぼくの魂がぼくに命じてくる。『もっと、もっと前へ進め、お前の栄光はこの先だ、死ぬときは前を向け』と。
………………え?
やはり仮病の類か。何が言いたい?
仮病だと思われても構わないよ。だがぼくは本当に危機にあった。銀行に止められるまでもない、頭ではおそらく誰よりも分かっているんだ、今この現状において、これ以上の規模を追求してはいけないのだと。しかしなぜか、ぼくの身体が止まろうとしない。どこかぼくの深いところで、ぼく自身が、まだまだぼくに事業を拡大させようと企む。ぼくは正気を失っている可能性があるのかもしれない。
……玄七郎から帝王学講義を受けてる今の私なら、なんとなーく分かってきたかも……お父さんの自称病気が……。そして案外ウソじゃないのかも……。強いて名付ければ、BS拡大病ってすればいいかなぁ。
もし今のオヤジが正気を失っていると仮定すれば……それは少なくとも10年前からだ。なぜなら私が知っているオヤジは、今目の前にいるこのオヤジと完全に同じものだからだ。
ぼくは栄光を掴んじゃいない、いや栄光がどうした、栄光なんて捨てちまえ、しかしお前は栄光を求めていたハズじゃないのか……これだよ……娘たちの前で恥ずかしい限りだが……いつまで経っても堂々巡り……。
あんまり意味わかんないけど、お父さんが正直に話しているってことだけは信じてあげてもいい気がしてきた。
そして心のどこかでは、ぼくがこのまま桜丈ホールディングスにしがみつけば、グループは瓦解するかもしれないと気づき始めていた。もちろん、ぼく個人としては、自身がそれで納得するのならば良いのだろう。だが今は君たちがいる。こんなどうしようもないぼくだけど、君たちの幸せくらいはささややかに願っているつもりさ。だからぼくは一旦すべてを無理やりにでも断ち切って、強引に幕引きしてしまったほうがいいと考えた。ありったけの勇気を振り絞ったんだ。熱海に逃げ込んで以来、できるだけ毎日事業のことを考えまいと今も気力を振り絞る。そして栄光に到達できなかった自分を悔やみ……身体が震えてやまない哀れな毎日を送っているのさ……。
何だかんだいっても、忘れられないんだ、桜丈ホールディングスでの日々が。
あ、ああ……。笑ってくれていい、惨めなこの父のことを……。
ねぇ小雪、お父さんの病気って……これ本当じゃない……? 身体のほうは健康そうだけど……。
……う、うむ……オヤジに対する不信感いっぱいの私でも、これはそうなのかもしれないと思い始めてきた。ややもすれば、ギャンブル狂の一種なのかもしれないぞ。何十億、何百億の単位で、とにかく何かを売り買いしていないと震えてくるのだろうな。
君たちに理解を得ようなんて思っちゃいないさ。だがぼくの包み隠さない心の底なんだ。……しばらく、すべてを忘れて熱海に篭らせてほしい。おそらく半年か1年もすれば、ぼくの病も少しは落ち着いてくるのだろうか……。ぼくの……ぼくの栄光……まだ、何も掴んじゃいなかったというのに……。
なるべく簡単に整理させて。お父さんは、頭では桜丈ホールディングスのBSをこれ以上拡大させたら危険だと分かっていた。それでも拡大を止められない自分がいて、自分個人の栄光のためなら破綻覚悟で突っ走ってもよかったんだけど……私たちのことが少し頭を掠めて……悩みに悩んだ末に、無理やり事業から自分を切り離して熱海に一人逃げ込んできたと。
それにしても……BSなんていう言葉をサラッと口にするようになったんだな小春ちゃんは……。どうやら玄さんがしっかり帝王学を叩き込んでいるようだ。
鬼のようだけどね。
玄七郎は外道のなかの腐れ外道だ。
そうだ、本当にそうだ、玄さんは突然我が家に舞い降りた恐怖の大王さ。
そこだけはオヤジとの意見が完全に一致するようだな。
あの性格だから、2人に教えすぎないかを逆に心配している。ぼくらのような商売の家なら、帝王学を身につけるのは絶対に欠かせないものの……しかし、あまりに知りすぎないほうがいい。栄光を求めることは苦しみも伴う、この、ぼくのようにだ。君たちには、せめて健やかに暮らして欲しいんだ。
栄光かぁ……栄光なんて言葉、使ったことなかったな。私の栄光……うーん、そんな風に言うと恥ずかしいかも……だけど、そんな面映いところが良いのかもね。
栄光……私は元々追い求めていた。それが生きるひとつの証だと思っていた。いや、そもそもなぜ私は物心ついたころから栄光を求めていたのか……もしや玄七郎のせいではないか……?
小雪は昔からだって言うけど、私も何だか最近ね、その栄光ってものに少し興味は湧いてきているのかもしれない。帝王学に触れるまでは、この社会の成り立ちとか、人が生きる意味とか、そういうこと正面切って考えたことなかったんだよ。でも帝王学のせいですっごく考えるようになって……。
私も帝王学講義に触れてから、さらに栄光への渇望が加速したことは間違いないな。歌舞伎町を支配できれば良いと思っていた私なのに、今では世界征服しない人生なぞウソだと思っているのだから。
そう、ウソだよね。このままだったら、この人生はウソなんじゃないかって……私は小雪ほど賢くないから、まだ自分のなかでちゃんと整理できてないんだけど……別に栄光が欲しいわけじゃなくて、お金が欲しいわけでも名誉が欲しいわけでもなくて……それでも栄光を求めている自分に気づき始めた感じなのかな……。お父さんだって、きっとそういうことだったんでしょう? だから、お父さんの自称病気っていうのが、私と小雪にも今では少し分かるんだよ。
待ってほしい。そんなやる気を奮い立たせないでくれないか。現状の桜丈ホールディングスなら、しばらく資金繰りさえ滞りなく続けていけば、まず間違いなく安定するだろう。だから細かいことは財務部に任せて何もしなくていい。君たちが何もしないでいてさえくれれば……ぼくが逃げ出したことには価値がある。
お父さんが到達できなかった栄光を、私たちが掴むことにはもっと価値があると思わない?
そんなバカな!? やめてくれ、修羅の道なんだ。男だったらともかく、君たちは女の子じゃないか!
なんだそのいかにもポリコレに反しそうな男尊女卑は。
いやむしろ女性を尊重しているのさ、そしてポリコレなんて大衆世界の建前だ、ぼくらの現実は違う。
お父さんっていつも自分勝手だと思うんだよね。即断即決なのは別に構わないけど、私や小雪なんてお構いなしに行動しちゃう。だから次は、私たちの番じゃないかな? お父さんが私たちにジッとしててくれって希望は通じないよ。
まさかこんなことが……や、やはり玄さんは教えすぎているのか……? しかし12年前、依頼してしまったのは他ならぬぼくだ……まさか源玄七郎という男が、ここまで獰猛に約束を守ろうとする強者などとあの時はつゆ知らず……今更どうしろと……?
文句なら玄七郎に言え。どうせ玄七郎にいくら文句を言っても通じまい。オヤジとて追い返されるのがオチだ。
さーて、現実的な話を確認したいんだけどね。ちょっと付き合ってもらっていいかな?
なんだい小春ちゃん……。ぼくは君たちの心に触れたことで、絶望のどん底に落ちた可能性がある……。ぼくの心を踏み躙った上で、これ以上哀れなぼくに対して何を聞きたいというんだい……? 死体蹴りは関心しないな……。
 完全に小春側が主導権を握っていた。元々、この父親を相手取れば、主導権を取らないと話が進まないのである。
桜丈ホールディングス――お父さんは資金繰りさえ続ければ、会社は安定だって言うよね。でも本当にそうなの? 債務超過額2500億円もあること、決算書を見て知ったよ。
ぼくの見解では、おそらく問題ない範囲だろうと思っているよ。
おそらく大丈夫、みたいな話じゃなくて、具体的に!
桜丈ホールディングスが債務超過2500億円という巨額の純損失を抱えているのは、もちろん額面通りに間違いない。そこは確かだ。だけど数字を鵜呑みにしてもいけないのさ。
正しいけれど、正しくない? 私たちにも分かるように説明しろ、その債務超過を抱えているのは、今ではお姉なんだぞ!
……くうう……君たちは玄さん並みにキツくなってきたような気がする……。今、思わず涙が溢れたことに君たちは気づいてくれたかい? ますますぼくの肩身が狭くなりそうだよ。
仕事中毒のせいで、オヤジは私たちとロクに関わろうとしなかった。そのうえで、もし債務超過2500億がどうしようもない破綻状態だとしたなら、私たちにその責任を押し付けるつもりか?
……信じてほしい、2500億円の借金を小春ちゃんに押し付けようなどという意図はないんだ、あるわけがないだろう。
実際には押し付けてるだろう!?
ううむ、弁解の機会をもらえるだろうか……。説明させてほしい、君たちにも理解できるように端的に言えば……原町のうちの家。
うちの家がどうした?
仮に売却したとしたら、いくらの価格になると思うだろうか?
全く想像つかないんだけど……うーん弁天町の11.7平米が620万円だから……たしかうちの家の建坪は250平米って聞いたことあるし、土地の広さはわかんないけど……。
 いつもなら千景が暗算して答えを出すところだが、小雪はスマホを取り出して電卓を叩く。
620万円を25倍にしたら……単純計算で1億5500万円だ。しかし原町のほうがもっと駅にも近いし、便利なような気がする……。
じゃあ色々加味して2億円!
まさか! そんな安値だったらプレゼントしてあげてるようなものさ。世界中から購入希望者が殺到してしまう。建物を含めない土地価格だけだって優に2億5000万円は下らないよ、牛込は土地が高いからね。実勢相場は、どんなに過小評価しても建物込みで4億5000万円だよ。ゆっくり売れば確実に5億円は越えるだろう。
過小評価で4億5000万円……そんなにするんだ、ちょっと変な家なのに……。
名の知れる建築家が作ったRCだよ。それにエレベーターも入っているし、建物としては最上級だ。いや軽く言ったが、たまたまタイミングが良ければ6億で買うという人だって見つけられるかもしれない。
言うほどの家かなぁ? なんだか間取りすっごく不自然だし、変な出っ張りとか段差とか無駄に色々あって、住み心地良いって一度も感じたことないけどね。友達たちの家のほうが住みやすそうだなって思う。
住めばそんなもので、実際ぼくだって小春ちゃんと全く同じ印象を持っている。建築家が本気を出すとそんなヘンテコになってしまうモデルケースの一つだろう。あくまで価値としてだけの話さ。
それで最低でも4億5000万円するうちがどうしたって言うんだ?
ここからが重要なんだ。簿価は幾らだと思う?
簿価って?
BS上の数字のことだよ。BSでは、原町の家は幾らで表示されているか。
それはまぁ……簿価だって4億5000万円じゃないの?
どうやらぼくにもまだ君たちに教えられることがあるようで、少しだけ自信を取り戻せる。簿価は、建物と土地に分かれているんだけど……建物の減価償却とかを加味すれば、今はおそらく全体で3億円程度になっているのではないだろうか。
……ん? つまり? どういうことだ?
BS上では、資産の部に3億円と表示されているんだけど……実際に売れば最低4億5000万円以上になるっていう理解でいいのかな?
合っている、その理解で正しい。そして原町の家には銀行の抵当が付いている。いっとき返済は進んだが、また借り直したから、今は残債が3億3000万円くらいだろうか。
つまり原町の家を担保にして銀行借入3億3000万円ってことでいいのかな。ちょっと待って、混乱してきた……。小雪、整理できる?
……む? わ、私ならば整理できて当然だが……ここはオヤジに説明を譲ろう。つまりどういうことなんだ? 私が常備しているノートとメモ帳だ。私たちにも分かるように書くがいい。
では、まずは決算書上のBSの形はこうだ。
そして次に、実質的なBSを想定すると……。
あ!? うん!? 決算書上のBSと、実質的なBS……!?
決算書上のBSはある意味で正しいものだが……現実世界においては、売却すれば4億5000万円になるわけで、実質的なBSのほうが有効……なのか?
どちらが有効かは、見る人の立場にもよるだろう。銀行家たちは決算書上のBSを最初にチェックする傾向があるが、ぼくたち本職の事業家は実質的なBSばかりを重視する。なぜって、現実にはそうなるほうを重視しないと、そもそも経営なんてできるわけがない。
じ、じゃあつまり、桜丈ホールディングスは債務超過2500億円といっても……資産を売っていけば、簿価――要するにBS上の数字より全然高く売れるから……実はむしろすごく利益の方が多かったりするってこと?
それはちょっと安易にまとめすぎじゃないかな。簿価より高く売れるもののほうが多いが、簿価より安くなってしまうものもある。たとえばぼくが3年前に40億円で買収した株式会社イーファテック――ビル空調自動制御装置を開発するテクノロジー企業なんだが、これがその後に競争に負け続けて……今では誰も買収しようと思わないだろう。要するに価値ゼロさ。たまには、こういう失敗もある。
40億円が、たった3年で価値ゼロ!? ちょっとそれ大失敗しすぎじゃないの?
だから、そういうこともあるだろう、事業なんだから。ただし全体として見れば、さっき確認した原町の家みたいに、実質的価値は簿価よりずっと高いものは多いよ。仮に今、桜丈ホールディングスの資産をすべて売り払ったと仮定すれば、たぶんそうだな……どんなに控え目にみても、純資産マイナスで終わることはないだろう。すごいお金が残るほどでもないが……かといって負債だけ残るということはありえない。
『たぶん』とか『だろう』とか、その言葉をどこまでアテにしていいか、むしろ不安になるんだが。
良い指摘だね、小雪ちゃん。究極的には、ぼくにもわからない。
なんだそれは?
資産を整理するその時々のタイミングや時勢によって大きく左右されるだろうからね。たぶん大丈夫としか、言いようがないのさ。
お父さんが大丈夫っていう感覚は、あんまり信用おけないなぁ。だけど玄七郎が大丈夫だって言ってたよ、そっちは確実なんだと思う。
うむ、たしかに玄七郎は問題ないと言い切っていた。ならば問題は微塵もないはずだ。
玄さんがそう言い切っていたのか……なるほど、ならばぼくも絶対の自信が持てる。本当に問題ないんだろうさ。
大丈夫なのかこのオヤジは……。
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登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

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