第1章(1)

文字数 3,910文字

ではBS脳を認識してもらうための続きを――。

 ふいに……ガタッと執務室の扉が振動し、大きく押し開かれた。

玄七郎、メールを見たぞ! あまりの怒りで走ってきた!
これは小雪お嬢様。何をお怒りになっているのです?
 息を切らせて乱入してきたのは桜丈小雪――小春の2つ下の妹だ。
お姉に厳しい帝王学の訓練を始めるから、夕方のお姉とのお茶会は強制中止……だと? 玄七郎が厳しいなんて言葉を使えば、それはきっと煉獄のようなスパルタに違いない。お姉は可憐で優しいのだ、私が守ってあげねばならぬだろう?
ご心配は結構。しかし小春お嬢様には、どうあっても帝王学に習熟してもらわなくてはならぬのです。なぜなら小春お嬢様は、今日から桜丈ホールディングスの社長に就任されたのですから。
何ッ!? 桜丈ホールディングス社長……お姉、本当なのか!?
玄七郎が真面目に言うんだから、きっと本当のことだよ。
オヤジはどうした、玄七郎?
何十年と綱渡りを続けてきた旦那様ですから、社長を引退した今、熱海の別宅で温泉に浸かりながらしばらくゆっくり羽を伸ばしたいと。要するに無職ニートに転職されました。帝王学教育のどこかの区切りで、皆で顔を出して文句を言ってみることにいたしましょう。
おのれオヤジいつもそうだ。私のような思慮深く冷静沈着な完璧人種と違って、頭がおかしいに違いない。
 小雪は憤懣やる方ないといった風に、ギリギリと歯軋りした。
それほどお2人を信頼なさっているのではないでしょうか。しばらく3人暮らしです。ご夕食は小雪お嬢様のお好みで作りますが?
玄七郎特製カレー、今晩はそれで決まりだ。
かしこまりました。

 ドラマやアニメやマンガなどで頻繁に登場する魔物じみた金持ちキャラクターたちの影響のせいで、何か特殊な生活を送っていたり、メイドに囲まれていたり、やたら権力があったりすると誤解する友人たちも少なくない。だが実際のところ自分たちが異形だとは思い難いし、メイドを雇わなくてはならないほどの業務量があるわけではない。

 RC3階建の本宅は都心にしては広いものの建坪250平米プラス庭といった程度で、掃除については月に2度、桜丈グループ内のビル清掃会社から2人派遣されてきて、2時間もかからず対応してくれる。買出しや食事は玄七郎の担当だが、元々望んでそうなったわけではなく、あまりに玄七郎が食事関連マナーに煩いため、恐ろしくて他に誰も手出ししなくなっただけである。ほんのいっとき父親が、生活効率化のためケータリング会社に夕食をアウトソースしようと検討したこともあったが、玄七郎の厳しい指摘の数々に根を上げて業者が逃げ出してしまった。昔、玄七郎は超高級ホテルの経営者をしていたらしく、下手なプロより料理や食材の造詣が深く、しきたりにも異様に忠実なのだ。

 さらに言えば、玄七郎が勝手に執事を自称しているものの、実のところは単なる居候に過ぎないはずだった。それが12年も続いているのだが。

お姉、助けにきた。私が来た限り安心だぞ。
小雪、原町からわざわざ走ってきたの? あんまり急ぐと危ないよ。
 徒歩だと15分かかる距離感である。小雪が10分近くも全力疾走してきた姿が、小春には想像できた。
フフフ、私は運動神経抜群、おまけに足も速い。ちなみに決闘やカチコミに備えて剣道の嗜みもあるし、歌も上手く、ちょっとしたギターまで弾けて、生まれてこの方テストではほとんど満点。私がすごい。
 小雪は聞いていないことまで誇り始めた。
あはは、全部知ってるよ。
ともかく、夕食は任せられましたので、小雪お嬢様は加速度的速やかに執務室からお引取りください。小春お嬢様の大事な訓練の目障りになるばかりでございます。
待て。メールでも非常に非ッ常ッーに不可解に思ったんだが……その帝王学の学びというのは、お姉だけなのか? どうして私も一緒に学ばせようとしない?
桜丈ホールディングスの社長は小春お嬢様なのです。ただ、それだけのこと……。
 心なしか、玄七郎の声音が小さくなったように小春には感じられた。珍しいこともあるものだ。
ふむ、玄七郎にしては、妙に言葉を濁らせるではないか。これは何かワケがある。
…………。
 玄七郎はやや押され気味なのか、視線をわずかに横にそらせた。
誤解するな、私は桜丈財閥の五代目ごとき後継を狙っているわけではない。いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ。
まだ歌舞伎町に暮らす夢を諦めてなかったの? 私はそっちまで家庭教師に行きたくないよー、キャッチや酔っ払いや観光客やたら多すぎだし、おまけに会社から遠くなるし。
 小雪は任侠オタクであり、一番好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』である。古い任侠映画などのコレクションも充実していて、いつか自分の組を持ちたいとまで言い出すほどだった。
千景に教わることなど私にはない。放っておいても、まるで勉強せずとも、私という存在はどんなテストだろうとつい満点を取ってしまうのだ。先週の全国模試も無双したぞ。
まぁ、私が教えなくても良さげなことは否定しないよ。小雪ちゃんホントは隠れて相当努力してること知ってるからね。誰かが強要しなくたって、小雪ちゃんなら勝手に猛勉強に励むでしょう。
なっ!? 私の辞書には努力などという言葉はないのだぞ!? 参考書ごとき1文字も見なくとも、自動的に満点になってしまう――それが私という存在だ。
 小春も実際のところ、勉強やスポーツや剣道や音楽活動などで、小雪がひっそり努力を重ねていることを知っていた。また、小雪がどういうわけかそれを懸命に隠したがっていることもわかっている。そんな陰での小雪の努力の積み重ねを感じているだけに、小春は小雪のことを素直に尊敬していた。
ただね小雪ちゃん、家庭教師の仕事の核心っていうのは、別に勉強そのものを教えるわけじゃなく、勉強計画全体のコントロールとか、精神面のサポートなんだよね。そういうところじゃ、私は結構役立ってる自信あるよ。小雪ちゃんは気づいてないかもだけど。
安心しろ、千景を解任したいという意図ではない。茶飲み友達としてこれからも私の下に通い続けてもらう。コスメや美容については、まだまだ教わることも多そうだ。
はーい。
さて、問題は玄七郎だ。この際だから言わせてもらう。玄七郎は前々から、どうも私のことを憎んでいるようだ。私は歌舞伎町に一人暮らしするつもりだったし、オヤジは別にいいと言っていたが、玄七郎が断固として許可しない。そのせいで私の野望が数年単位で遅れていることがわからないのか? ……そして、今回の帝王学教育。隠れてお姉だけに学ばせて、私のことは蚊帳の外。
小雪お嬢様は次で中学2年生。まだまだ一般人のなかで学ぶべきお年頃でございます。
……本当に年齢が理由なのか?
…………。
まさか私がオヤジの実の娘ではなかった、とか……? だから後継者問題の蚊帳の外に置きたい……?
それはないって。小春ちゃんと小雪ちゃんって髪型とか違うだけで、誰が見たってそっくりだし。まぁ小雪ちゃんのほうがメイクとか今風に小洒落てきてるけどね。
そうだよ小雪、私たちは姉妹だよ!
…………。
そうか! や、やっぱり玄七郎は私のことが嫌いなのだなッ……! 認めてもらおうって頑張ってきたのだぞ! 私はこんなに玄七郎のことを家族だと思っているのに!
……参りました、驚くほど目端のきく小雪お嬢様に対し、曖昧なまま流そうと思ったことが私の落ち度でございました。包み隠さず申しましょう、小春お嬢様は経営者の資質を備えております。
えっ?
一方で、小雪お嬢様はご自身1人で大半を完結させられるような科学者、研究者、作家、芸能人、音楽家などでこそ、その才能を真に開花させることができるでありましょう。それが私と旦那様の共通した見解でございます。であれば、帝王学の習熟には長く険しい経験値の蓄積が必要ですから、小雪お嬢様にはもっと別のことをしてもらったほうがいいのではと思っております。
私には、小雪のほうがずっと社長に相応しいと思えるよ! だってもうホント、さっきのBSの話だけでも、私すごく怖くて震えてきちゃったし……。でも小雪だったら、へっちゃらだと思う。
私と旦那様はこう考えております。小春お嬢様は奥ゆかしいばかりに見えて、着実な実行力と使命感を併せ持ち、結果が伴う傾向が大きい。小雪お嬢様は勤勉で有能かつ万能なものの、創造力と現実的実行力に劣り、実質的な結果がついてこない。
な……に……? げ、玄七郎は、私をバカだと思っているのか!?
そう思われるならご自由に。そもそも、私も旦那様も神ではございません。何事も過ぎ去ってみなくては分からぬもので、私と旦那様の間違いを正せるとしたら、それは小雪お嬢様ご自身にしかできないのです。
……そうか、そういうことか……。……なるほどクソ喰らえだ。ならば証明してみせよう、玄七郎もオヤジも間違っているということを……。フフフ、100年ぶりの死闘に乗り出す時は今……。そのような訳で、帝王学学習には私も参加させてもらうとしよう。文句はあるまい?
……文句はあるのですが、いや、そこまで聞いて尚も引き下がらない小雪お嬢様には、何を言っても無駄なのでしょう。帝王学の訓練場に、勝手にやって来るのは自由です。ただし水無月様と同じく部屋の隅で大人しくどうぞ。
やったね、一緒に学べるなんて心強いよ! がんばろう小雪っ!
お姉が表の帝王になるのなら、私は手を汚す闇王となってお姉のことを支えよう。フフフ、私たち姉妹で日本裏社会の全国制覇と洒落込むことにしようか。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色