第6章(4)

文字数 3,427文字

 自宅に戻った小春は食事も採らず、ネットで賃貸物件、売買物件の調査に励んでいた。主要な賃貸、売買のサイトを見ていくと、今日ゼノンが送付してきた賃貸4物件のうち、3物件が掲載されていた。そして確かにゼノンの言う通り、掲載開始日は数ヶ月前で、ずっと入居者が決まらないままになっているらしかった。

 他にも自宅から通える範囲で路面店の賃貸をくまなくみたが、ゼノンが送ってきた資料を見たときの印象とかなり合致しており、賃料10万円以下の路面店だと微妙感漂うものばかりであった。ちょっと良い感じのところは、狭くともたちまち賃料14、15万円くらいまで跳ね上がってしまう。さらに言えば、良い場所になれば保証金10ヶ月などを求められる場合もあり、仲介手数料や前家賃などを加味すれば、初期費用だけで100万円を優に越えてしまいそうだった。


 妥協して2階以上の賃貸を探せば、そこそこ良い物件でも賃料は一回り下がる。だが、無人店のコンセプトを死守しようとすれば、やはり路面店舗しかあり得ない。エレベーターを上がって2階となれば、無人経営は不安が出てくるし、集客力にもかなり劣ることになるだろう。


 一方、売買のほうは、弁天町の620万円の物件も掲載されていた。情報掲載日は昨日なようで、どこのサイトを見ても新着案件のチェックがされていたし、本当に売り出されたばかりのようだった。投資家の物件に対するブックマーク数が表示されているサイトもあったが、その数でいえばこの弁天町の物件は群を抜いて注目を集めていることが明らかだった。良い物件かどうかはともかくとして、現相場においては一際目を引く安さなのであろう。

 この弁天町を除外すれば、新宿区だとどこをどう探しても、築35年以内くらいのRC物件を1000万円以下で見つけることができなかった。若松町に1996年築の1階RC事務所21平米が1180万円で売り出されているのが1つ目についたが、これはエントランスを入った建物奥の部屋であり、道路に面している路面店ではないらしかった。


 620万円のRC造路面店というのは、都心物件としてはかなりのレアケースらしい。ただし、他は15平米以上の広さしか見つけられなかったから、11.7平米という異様に狭い物件と考えると、そこまで激安という程ではないのかもしれない。トイレなどの水回りは1階の各事務所が共用で使える場所があるというのでまだマシだが、用途が限られる狭さであることは確かだ。それでも、周辺の他の物件と比較検討すれば、幾許かのお得感があることは確かなようだった。即日買付が入るのも頷ける。

もう悩みすぎて死にそう……。
 小春は悩みに悩んでいた。
そもそも買うお金がないのに、買うかどうかを悩んでるってトンチンカンだよね。きっと頭がおかしくなったんだよ、私。

 自分にそう言い聞かせ、何度か諦めてしまおうとしたのだが、代わりとなる賃貸物件を検索するうち、どうしてもまたこの売買物件に意識が戻ってしまう。

 たとえば、そこそこ良い路面店を賃料13万円で借りれば、保証金6ヶ月、仲介手数料1ヶ月、前家賃1ヶ月、そのほか保険代など加味すると、初期費用で110万円前後は吹き飛ぶ計算だった。そしてその110万円は資産として残らず、消費されてしまうだけなので、BS上から消えてしまうのは明らかである。

 しかし弁天町のこのRCなら現金620万円を支出しても、自社の持ち物なのだから、いちおう理論上においてはBS上で価値が同価620万円で維持されるはずだった。それに腐っても東京23区の中心点に近いし、売りに出れば即日で複数の買付が入るほどなのだから、不要になったら売り出せばもっと値段がつく可能性もあると思う。

 これらのことから、賃貸の初期費用を考えると、小春としては、売買のほうも許容できる範囲だと思えて仕方なかったのだ。


 コンコン、と遠慮がちに扉が叩かれた。小雪だ。

 小雪にしては珍しく静かにノックしてきたのは、もう深夜1時を回っているからだろう。

いいよ、まだ起きてるから。
まだ寝ていなかったのか。お姉は清掃作業で疲れているはずだ。
小雪だって疲れてるでしょ。私より断然頑張ってたし。
……お姉は悩んでいるのだろう、弁天町を買うかどうかを? 想像していた以上に綺麗だったし、お店としても目立つ感じだったな。
まぁね。見に行ったあとゼノンの人にも電話して聞いたんだけど、私たちが見ている間に台湾の人から買付が入って、購入希望が3件になったって。だからもし私たちも申込するんだったら、明日までにしないと他で決まるはずだって。
だが仮に私たちが申し込んだとして4件目になる。他にもさらに希望者が出てくるかもしれない。買える確率はもともと低いだろう?
ゼノンの人が言うには、こういう場合には日本人が有利らしいよ。売主さんにも取引の安心感があるから、向こうもできれば日本人で決めたがるはずだって。外国の人は見ないで買付入れてきてるから、何かの事情で取引が流れる可能性も残ってるし、実際に見て意思を固められる私たちでいけるんじゃないかって。
他の日本人は買わないのだろうか?
日本人からも問い合わせ多い物件らしいけど、すぐには決めづらいんじゃないかって言ってた。最寄駅があと少し商業地だったら即座に決まったはずだって。それから3年前は500万円だったらしいから、それを知ってる日本人は動きづらいみたい。
たった3年で2割以上も上がるのか。3年分も古くなっているというのに……。じゃあ私たちはかなり高く買うことになるわけで、暴落が怖いな。信用創造が破裂したら、私は大暴落派だ。
私は暴騰派だよ。だから持っててもいいんじゃないかと思ってる。……小雪は反対なの?
賛成とか反対などと言う前に、そもそも購入を悩んでいるお姉が色々おかしい。第一、金がないのだからな。
だよねー! 私も、ホントそう思う!
 2人はひとしきり笑った。
大暴落派の私は反対だ。それに、あんな狭い店内なのだから商売も限定されてしまう。もし私たちが使わなくなった場合、誰が借りてくれるんだ?
それはゼノンの人も言ってたね。賃貸相場から言えば少なくとも5万円は取れるはずだけど、そもそも借り手を見つけるのは手こずるって。そっか……小雪は反対なんだね、それが当たり前だし、私がバカ丸出しなのも分かってたよ。だから色々悩んじゃったけど、やっぱり諦めよう。
バカ丸出し上等ではないか。人はワイルドに生きなくてはならない。しかも肝心のお金もないのに、無理やりにでも進もうとしているお姉はカッコいいとも思う。だから、これをお姉に渡しておくぞ。
なぁに、この封筒? ……あっ、お金。
私の全財産だ。たった19万円しかない。お姉のように蓄財に励んでこなかった私だから、少なすぎて情けなさも感じるが、いま私にできることの全てだ。物件購入の役に立ててほしい。
小雪っ……でも普段の生活で、色々出費あるでしょう?
世界征服のための出費以外で、気にするものなど一つもない。私には泥水を啜ってでも世界を支配する意思がある。それは私という存在に定められている痛ましい天命なのだ。
小雪は天命が好きだよね。
私は死ぬ間際、『我が人生に一片の悔いなし』と言い切る漢になる。でなければ、人生ごときに何の意味があろうか。それが私の天命だ、天命だとしか言いようがない。
小雪は本当は反対なんでしょう? でもいいの、私の乱暴な話を進めても?
私は乱暴なのが好きだ。私は敵陣で暴れられさえすればそれでいい。ひとまず弁天町について考えることは、お姉に任せよう。
なんか戦国武将みたいな言いようだね。私の背中は、小雪に預けてもいいのかな?
お姉が死ぬときは、私が先に死んでいるだろう。

 悩みに悩んでいた小春の決意は、小雪と話したことですっかり固まった。

 小雪はいささか中二病じみたところが目立つし、あらゆるところで得意げに大言壮語を風潮して回る困った性分の持ち主なため、皆はこの妹のことを大いに誤解しがちだ。父ですら、普段は小雪と接する機会があまりないため勘違いしているところがあると思う。だが妹は素直さの度がすぎるだけであって、自分の決めたことには誰にも増して勤勉で、常日頃から口にする言葉通りの大望を成し遂げたいという覚悟があることを、小春は誰よりも知っている。何しろ玄七郎に育てられた妹なのだ、半端な人間になるわけがない。二言があろうものか。

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登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

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