第1章(2)

文字数 5,456文字

よ、4兆……だと……!?
小春お嬢様の予想と違い、へっちゃらではございませんでしたな。
フ、フフ、このくらいへっちゃらだ……。私には単に、数字の桁の感覚がちょっと掴めなかっただけなのだ。ど、どうということはない。
そうだよね、こんなの分かるほうがおかしいよ。桜丈ホールディングスのスケールなんてちゃんと考えたことなかった。私が認知していたすべては、原町の自宅と、今お父さんがいるっていう熱海のマンションだけ。他には、何かお父さんが大きな事業に関わっているという漠然としたイメージ……。
心配しないで2人とも、大人の私にだって分からないから。せいぜい自分が担当してる個別事業の損益だけ把握してる程度だし。
桜丈とは、こんなにも巨大だったのだな。しかも、とてもつもない借金で酷すぎる。こんなにどうしようもなく無惨な会社をお姉に任せようっていうのか?
失礼ながら、こき下ろされるほど酷い状態ではございません。そして、言うほど巨大でもございません。グローバル視点では、数十兆単位、数百兆単位の企業グループはごくごく普通に跳梁跋扈しております。そうしたお相手様と比べれば、私どもはアリンコのようなもの。そのような超弩級の企業グループに打ち勝ち、地球上の真の支配者を目指すことが小春お嬢様の目先の目標と、私は先ほどお聞きしたばかりです。そんな小春お嬢様の秘めたる大望を前にして、私は胸が熱くなり、魂が揺さぶられております。
数十兆や数百兆……? いやいやいやいや、一体全体どうすればそんな風になるんです……? 国家スケール越えてて色々おかしいです。元官僚の私でも正直ぜんぜん分からないチクショー……。
その途方もなさが、このゲームの面白さではございませんか? ライバルが強ければ強いほど道中の愉しさも増すというもの。
そういうことかフフフフフ……私という存在は、自分より強い者と闘うことでより強くなるのだ。むしろ敵が大きいほど底知れぬパワーが湧いてくるというもの……。
そうは言っても、まずは4兆7500億円の借金を返すところから始めなくちゃならないんだよね……?
小春お嬢様はいいかげん借金の心配ばかりで困ったものです。借りた金は返さない――そんな発想を少しはお持ちになったら如何ですか?
えっ、そんなの無茶苦茶……!
小雪お嬢様の傍若無人な乱入で中断していましたが、小春お嬢様をどうにかBS脳に転換させることを急ぎたく、学びを再開いたしましょう。さて、まずは小春お嬢様のBSを振り返ってみます。
あああっ!? そういえば3ヶ月前、お姉に1000円借りたの忘れていたぞ!
小雪お嬢様への貸付金は筋悪極悪の不良債権であると判明いたしました。これは全額回収不可能そうですので、全額が含み損、実質的価値はゼロ円と受け止めなくてはなりませんな。
バカを言うな、私は契りを守ることで有名な漢なのだぞ!
その割に3ヶ月も放ったらかしだったのは誰なのかなー?
くう!? 違ッ、これは抗争相手が仕掛けた陰謀だッ!
さて、ここから小春お嬢様には、1年で3000万円を稼いでいただくことにしましょう。どう動きますか?
さっ、3000万円!? そんな大金、見たことないよ! どうやって稼ぐの……?
それを私が質問しているのですが。
それって五百円玉――。
五百円玉への脳内変換は、永遠に禁止とさせていただきましょう。次に五百円玉を持ち出すたびに、毎月のお小遣いを500円づつ削減させて頂きます。
そんな、暮らせないよ!
つべこべ言うのはヤメにして、小春お嬢様には嫌でも1年で3000万円を稼いで頂きます。簡単ですよ。もし方法が見つからないようでしたら、そちらの小うるさいオブザーバーお二方――愚民代表選手の方と、任侠系旧財閥系の某お嬢様に助け舟を仰いで頂いて構いませんが?
…………。
 しばらく呆然としていた小春だったが、やがて視線を小雪と千景に向けた。
うーむ。ちなみに千景は1年でどのくらい稼いでいるのだ?
ボーナスや残業代込みで年収850万円くらい。官僚時代の倍近くあるし、世間様よりかなり良いほうだと思う。といっても信じられないくらい高い社会保険料とか色々引くと、手取りは600万円まで減っちゃうよ。
600……であれば、普通の稼ぎではどうしようもないということか?
まぁ私が死に物狂いで転職活動すれば、外資系金融の科学技術系ファンドとかに年俸2000万や3000万のポストが見つかる可能性はあるのかも……。だけど年俸3000万でも手取りって1800万とかになるんじゃないかなー? しかも、とてつもないハードワークを要求されるから、5年も同じような生活は続けられないと思う。私の同級生で、多忙すぎて鬱になって復帰困難になった子も普通にいるからね。私は今のままがベターな感じ。
抗争中のボスを守る用心棒や、大物狙いのヒットマンを引き受けるという手もあろうが……それでもムショにぶち込まれるリスクを抱えながら、堅実に3000万を稼ぐのは並大抵ではあるまい。
あとはそうだね……サラリーマンとバイトの掛け持ち、たとえば夜職もやるとか。昼間は会社勤めしつつ、夜はキャバ嬢。友達でもいるね、そうやってお金を稼いでる子が。
そんなに頑張ってお金を貯めて何してるの? ブランド品が欲しいから、とかなの?
まぁブランド品に血眼って女子も一部にはいるけど……その友達の場合には、そうでもしないと暮らせないらしいよ。桜丈ホールディングスみたいな会社に勤められる私のケースは、そもそも参考にならないと思う。普通の会社だと手取り月20万円代とかザラだから、生活自体が厳しいんじゃないかな。
世間様の現実を議論しているわけではございませんぞ。キャバクラ嬢も兼務なさって身を粉にして働いて、それで本当に年3000万円いくのですか?
キャバクラだと全然無理かも……もっとディープなほうに行って365日休みなしで働いて、と……。そんなの普通の生活に復帰できなくなるし、取り返しつかないほど精神病んで廃人化しそう……ホントお金を稼ぐって驚異的に大変だねぇコンチクショー……。
やれやれでございます。3人寄れば文殊の知恵と申しますが、弩級のボンクラどもでございました。実に愚かしい議論で、私は死にたくなりましたぞ。
だって3000万円も稼げる気がしないよ……。お父さんとか玄七郎とか、一体どうやって暮らしてるの……?
なぜ思いが至らないのでしょうな。お3方の発想の出発点、それらは全部、PL脳の発想であることお気づきになりませんか?
えっ、今のが玄七郎が言ってたPL脳?
問いかけた際、そもそも私が提示したのは、小春お嬢様のBSです。これこそが最大のヒントでした。にもかかわらず、抜け作ばかりで困ったものです。
 玄七郎はホワイトボードを振り返って、ペンを取り上げた。
では、ここで銀行から10億円を借り入れてみましょう。すると、小春お嬢様のBSの構造はこのように変化します。
ふあっ!? な、なんでーーーーー!?
ご覧になれば一目瞭然、銀行預金と銀行借入が、つがいのように10億円づつ増加しているのがわかるでしょうか?
そ、それはわかるが……。差し引きゼロで純資産に変化があるわけでもないし、だから何なんだ?
この10億円を丸ごと使って、表面利回り6%の東京都豊島区、JR大塚駅徒歩5分の新耐震RC商業ビルを何とか探し出し、丸ごと1棟買うとします。すると構造はまた変化しまして――。
資産の部のなかで、『現金』から『土地・建物』に10億が移動したな? それがどうした?
待って、表面利回り6%って玄さんが言っていたから、10億円のビルだとつまり……年間6000万円の家賃収入!?
……!? 定期的に家賃が入ってくるってことなの?
そういうことです。
でも、10億円を銀行から借入って話だと、銀行金利が発生しますよね? その支払いをしなくちゃならないのでは?
さすが唯一の大人だけあって、まともな指摘ですな。日本はいま異様な低金利ですから、やや高めに見て金利は2%とします。すると、銀行への利息は年間2000万円発生すると考えられます。
つまり家賃収入6000万円から、銀行への利息支払い2000万円を引くと……手元に4000万円が残る、ということか?
実際には、細々とした修繕費、固定資産税、保険料、10年に1度の大規模修繕、30年に一度のエレベータ入替、管理会社に任せた場合の管理委託手数料……などなど多岐にわたるコストが発生しますから、ここは年間1000万円のコスト負担を見ておくことにしましょうか。これを加味しても、手元には年間3000万円が残るということ。
……ふぇっ? つまり? 借りて買っただけで、年3000万円の稼ぎがクリアできるってことなの?
たぶんこれ、労働していないと思うんだが……違うか?
物件売買の交渉・契約・決済をしたり、銀行折衝をしたりの作業は発生するけど……労働というほど拘束があるとは思えないし……ほとんど働かなくても良さげ……。うちの会社が入ってる市ヶ谷クロスセンターだって、うちの会社の所有物だけど、入居募集とか建物管理とかは全部別の宅建業者に委託してるから。
いちおう実務的なことを指摘していけば、減価償却費と法人税・所得税の計算、銀行への返済、空室状況、そしてキャッシュフローなどを逐一チェックしていく必要がございます。そして物件自体の含み益・含み損も注視しなくてはなりません。ただし、そうした実務内容を採り入れるほどに、いきなり情報を詰め込みすぎることになりますから、今のところは誤解を恐れず、極力シンプルなBS脳の把握に注力していくことにしましょう。
なんだか魔法みたいで、まだ少しモヤっとしてるよ……。がんばれ私っ。
改めて小春お嬢様のBSの変化を追ってみてください。純資産の額に何の影響もないなかで、各種数字が動いて、稼ぎが生まれる構造が発生したこと。一方、10億円の銀行借入の処理においては、PLはピクリとも変化しないことも、合わせて留意頂きたく。
めちゃんこ大雑把に言えば、金利2%でお金を引っ張って、それを利回り6%で回せば、差引で4%の儲けという……。
極端に単純化させれば、今の水無月様のご指摘通りです。引っ張るお金の金利より、運用で得られる利益のほうが確実に大きくなるのなら、お金を借りない選択などあり得ない。ただし当たり前ですが、引っ張るお金の金利より、運用しても利益のほうが小さければ、お金を借りないのは当たり前。いちいち言うまでもない簡単な話ですが……わかりますかな?
お、おう……理屈は理解してきたぞ……。何度も見てる任侠映画で『お金を転がす』って表現が連発されてたけど、こういうことなのか?
それは映画の場面を見ないと適合するのか分かりませんが……ライトに言えば資産運用、という言葉でよろしいのではないでしょうか。もう少し正確性を期せば、BSのコントロール――BSの構造を整える視点が、帝王学の第一歩目です。
それって、やっぱりお金を借りることが前提なの……? 私、今までそんな発想をしたことなかったよ……。お金を借りるって、やっぱり怖いし。
お金を借りることが前提ではございません。有利な構造さえ作れるのならば、自己資金でも何ら構わないでしょう。小春お嬢様に商業ビルを買えるほどの銀行預金がございませんでしたし、借りた方が得なので借りたのです。ただし一番最初に指摘差し上げたことですが、クレジットカード利用などを通して、現代人BSの98%は何らかの借入がございます。水無月様などは既に4500万円もの借入があることは確認したはず。借入をするかどうかは自由に決めればいいですし、正解があるわけではないですが、帝王学は合理性を良しとします。迷ったときには、損益勘定と確率計算をしたうえで、合理に従うのがよろしいでしょう。
合理に従う……。
ちなみに借入に関しまして、BSの構造を見れば一目瞭然なのですが、たとえば『1億円を借りた』という状態は、『1億円の現金がある』状態と同一なのです。つまり差し引きゼロ。借金状態が嫌なら返せば済む話です。
私の場合はその状態が少し進んで……4500万円を借りている状態は、4500万円の不動産資産がある状態……。これは差し引きゼロで、嫌ならマンション売って返せば済む話……。
差し引きゼロ……そして嫌なら返せば元に戻るだけ……。まぁ、確かにそうなんだけど、なんかなぁ……。
どうも日本人は、借りるという行為にばかり注目して怯える傾向がありますな。もう片側では1億円の現金がある状態という当たり前のことを、少しは意識してみればよろしいかと思います。
掴めてきたぞ。たとえば桜丈ホールディングスは、たしかに4兆7500億円もの借金があって、それだけ見ればとんでもない悪い企業に見える。だけどもう片側には、現金とか高層ビルとか、それに見合うものを持っているから、差し引きして考えろ――ということなんだな?
当然のことです。
それでも桜丈ホールディングスは、差し引きで2500億円もマイナスなのだろう? これは非常に悪い状態ではないのか?
良いご指摘ですが、初日で込み入った解説まで始めると、情報過多で混乱するだけに違いありません。解説したい気持ちをグッと抑え、今回はPL脳とBS脳の違いにフォーカスしたく思います。
要するに帝王学は、こんなの序の口だぞーってことでしょうか?
左様でございます。さて次は、少し応用してみましょう。
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登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

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