プロローグ(2)

文字数 3,365文字

 玄七郎が運転するセンチュリーに乗せられて、着いた先は千代田区九段南にある市ヶ谷クロスセンター。桜丈グループが所有する高層ビルのなかでは控えめなほうである。桜丈家がある新宿区原町の邸宅からは車で5分、歩いて行き来できないわけではないが、玄七郎が「社長としての意識を早く醸成してもらうためにも、まず形から」と車での案内を望んだのだった。

 玄七郎に案内されるがまま、小春はエレベーターで最上階の執務室に入った。近所なわりに小春が本社に来る機会は年に一度あるかないかだし、まして社長執務室に入ったのは記憶にある限り数度といったところで、最上階24階から見下ろす都内の景色に小春は場違い感があった。

 桜丈ホールディングス株式会社は23、24階の2フロアを使用しているだけで、他の各階は別の大手企業や金融機関に賃貸している。地下〜2階は飲食店やコンビニ、3階から上はオフィス棟だ。桜丈ホールディングスは資産規模が少々大きいだけで、ホールディングス単体では個別具体的な事業活動をしているわけでもなく、管理部門が中心であり、家族経営的な気風のある比較的小ぶりな組織と言ってよかった。


 ふいにノックが鳴り、水無月千景が意気揚々と執務室に入ってきた。

小春ちゃん、1週間ぶり! 中学卒業おめでとー!
千景先生!
例のペンギンのゆるイラスト、コンテストで大賞取ったんだってね! 小春ちゃん、ホントすごい!
ありがとう、皆んなに喜んでもらえて嬉しいなー。
桜丈ホールディングスのマスコットキャラクターも小春ちゃんがデザインしてみたら?
お嬢様のほのぼのイラストは……うーむ、どうでありましょう……。それにマスコットキャラを持つのは、企業としての品格にも影響しようかと……。
小春ちゃんのイラストなら、若い女子向けの好感度アップの取り組みとして、いいと思うんですけどねー! ところで、今日は何しにこんなところへ?
玄七郎がどうしてもって。拉致されてきたみたいな感じかなぁ。

 28歳の水無月千景は、桜丈ホールディングスの管理部所属、技術系企業の状況を把握するための担当者の一人だ。東京大学理学部卒の才女で、大学卒業後は経済産業省資源エネルギー庁に入庁していたが、役人の気風に合わず2年に満たず退庁、4年前に桜丈ホールディングスで傘下企業群の技術チェック要員として採用されていたのだった。

 といっても現場で実務をやる職場でもなく、仕事に追われるような立場でもなかったため、採用後にすぐ会社の意向によって桜丈姉妹の家庭教師役も兼任していた。千景24歳、小春11歳、小雪9歳のころからの付き合いで、かれこれ4年になる。高校受験前には自宅で週3日顔を合わせていたものの、こちらの本社で顔を合わせることは滅多になかった。

水無月様をお呼びした覚えはないのですが?
玄さんも元気そうで何よりです! ちょうど暇してたところに、受付で小春ちゃんが通ったって聞いたので。
会社としては、暇人を抱えている余裕はないのですが。
実際、ここ最近かなり暇な感じですね〜。ちょっと前まで社長が色んな会社の買収を検討してたので、その技術評価で駆けずり回ってましたよ。けど2ヶ月くらい前から社長がピタッと動かなくなって……私が勝手にサボってるわけじゃないんですけど。
ちなみに、旦那様は社長をご勇退されました。今日から代表取締役社長は、小春お嬢様になります。
……はいい?
 青天の霹靂といった風の千景に、玄七郎が事情を伝えていった。
――マジっすか!? 普通の会社なら引退の挨拶くらいすると思うんですけど!
旦那様としては、テクニカル上の処理に過ぎないとお考えのようでございます。皆様との関係も特に変わらないかと。
まぁ社長は訳のわからないお人ですからね〜。
それを引き継ぐ小春お嬢様は経営者として絶望的に未熟過ぎます。しばらく帝王学を身につけることに専念してもらいますから、水無月様はさらに暇を持て余すことになるでしょうな。
私が経営者として未熟なんて当たり前だよ。だって何もやったことないし。
そりゃそうだよね〜。
玄七郎が帝王学を教えてくれるみたいだけど、千景先生が家庭教師してくれてた感じなの?
小春お嬢様、こちらの水無月様から学んだことは、ほとんど忘れていただいて構いません。凡人世界での話題作りや共通ルールを学んでいたに過ぎませんから。
普通に勉強して何が悪いんですか!
悪いなどと申したつもりはございませんが? 帝王学を真摯に受け止めるには、凡人との対比が大切なのです。先ほどの指摘と矛盾するようですが、それゆえ今までの学びは決して無駄ではございません。大衆世界の考え方、そこで行われていることを肌身を通して知る必要はありました。帝王学教育しか受けていないスーパークラスのご子息は、薄っぺらい、深みのない人格が形成されがちですからな。
なーんか言葉の端々で、庶民をバカにしてる感じがするのは気のせいですかね〜? あんまり庶民を虐げると、いつか共産主義革命起こされますよコノヤロー!
そうした誤解は極めて遺憾です。帝王学は極限すれば、庶民の皆様方のためにある学問とも言えます。民衆を統治するための基礎が詰め込まれているのであり、社会に秩序という光をもたらすものです。凡人たち――水無月様の言葉を借りれば庶民、そこにはもちろん貴方様ご自身も含まれるわけですが――すなわち大衆というものは、すべからく神様の集合体でございます。何気なく生い茂る草木が美しいように、自然のままの海や山に心打たれるように、大衆とは崇高な存在なのです。吹けば飛ぶように右往左往する大衆がいてくれるからこそ、小春お嬢様がある。全世界のあらゆる凡人は御仏のようなもの、彼ら彼女らに圧倒的な感謝と愛情を。
全然ピンとこないんだけど……。
あまりにアレな感覚すぎて、返す言葉もないとはこのことです。昔の王様たちってそんな気持ちだったんでしょうか。
ご納得されたようでしたら、水無月様はとっととお引き取りください。さあ小春お嬢様、いきなりですが桜丈ホールディングスの決算書を用意しております。最初は意味が分からなくて構いませんから、こちらの――。
待って玄七郎、これから本当に帝王学を学ぶんだよね?
小春お嬢様が背負った歴史的使命でございます。未熟者ではございますが、不祥この源玄七郎、誠心誠意、小春お嬢様に帝王学基礎を伝授させて頂きます。今までの学びと違い、ここから先は戦場でございますぞ。先生というより、軍事訓練の教官だと受け止めて頂きたく。
妙な興味がありますが、まぁいいでしょう。私には別世界の話なんでしょうし! それじゃ小春ちゃん、暇があったら声掛けて。
ちょっと待って千景先生。少しは興味ある感じ?
まぁそうだね。どんな軍事訓練が始まったのか、お茶したときに教えてね。
ねぇ玄七郎。千景先生も一緒に訓練受けてくれるなら、私も頑張って学んでもいいけど……。
私も一緒に……? ほほう、なるほど。
……うーむ……。
暇人ここに参上、チラッ。
……今後のお嬢様の学びにおいて、正直なところ一般大衆の存在は邪魔でしか……。
私を一般大衆呼ばわりですか月のない晩は気をつけろー! ほーんと、いつも失礼なことを無表情でサラッと言う玄さんには腹立つってなもんです。
…………。
……なっ、なんですかチクショー。
………………。
……あ、なんか、すみませんでした……。大人しく部署に戻りますんで……。

……いや、そうか……なるほど……むしろ一般大衆との対比においてこそ、お嬢様の学びが深まるかもしれん……。水無月様は絵に描いたような典型的貧民にして奴隷階級――まさしく愚民のなかの超級愚民――であればこそ、お嬢様の学びに重層的な深みを与えるに違いなく……。

思い切り口から本音がダダ漏れなんですけどバーロー! というか、ワザとやってます……?
いいでしょう、水無月様の出席を許可します。管理部には私のほうから話をつけておきますので、しばらく貴方様はこちらの執務室に出勤し、無惨な小市民のオブザーバーとして、せいぜい片隅で教練に居合わせてもらうとしましょう。
やったね千景先生、今度は同じ生徒みたいだよ! 私と一緒に、がんばろー!
よく分かりませんが、未習熟分野を勉強しながらお給料もらえるならラッキーなんでしょうか!
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登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

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