第10章(1)

文字数 5,067文字

おはようございます。皆さまがたの経営はいかがですかな?
フフフ、あまりに私が無双状態で順調すぎる。どこぞの自称執事が大失敗を願っているようだが、その儚い夢は叶わないだろう。
妄想中なのでしたら、私から言うことは何もございません。せいぜい石ころに蹴躓かないよう努めてほしいものですな。
あのね玄七郎、会社運営でちょっと知りたいことが出てきたんだけど、講義のあと質問タイムいいかな?
承知しました、身に迫る切実な質疑応答を重ねることは、帝王学学習にとって大いに効果的でございます。旦那様を泣かせるだけの価値もあろうかというもの。それでは早速講義を済ませてしまいましょうか。今回からまた、途中となっていた広告的手法について検討を再開します。九九を暗唱するのと同じ要領で、次の10項目を無理やりにでもマスターして頂くという話は覚えていらっしゃいますでしょうか。

(1)レッテル貼り

(2)善悪二元論

(3)返報性の原理(ドア・イン・ザ・フェイス)

(4)一貫性の原理(フット・イン・ザ・ドア)

(5)バンドワゴン効果

(6)グランファルーン効果

(7)恐怖感・罪悪感で説得

(8)カードスタッキング

(9)希少性の効果

(10)権威の利用

(3)返報性の原理(応用は、ドア・イン・ザ・フェイス)について急ぎ足で外観しましょう。これも極めて当たり前の話です。まず、返報とはどういう意味ですかな。読み方は『へんぽう』です。小春お嬢様?
(3)返報性の原理(ドア・イン・ザ・フェイス)
……字面通りなら……報告を、返す、って意味かなぁ?
水無月様?
他人が自分にしてくれた行いに報いたり、他人から受けた恨みに仕返しすること……でしたっけ。
こういう基礎知識だけに限っていえば水無月様はいつも安定感がありますな。あくまで上部の知識だけですが。
だけ、は余計だと思いますコノヤロー。
水無月様がお答えくださったように、誰かから何かを受け取ったとき、お返ししなくてはならないという気持ちになる心理効果のことでございます。これは誰もが簡単に理解できる話ですからこれ以上の解説はなく、軽く事例を考えてみるだけで済ませてしまいましょう。どんなケースが思いつきますか、小雪お嬢様?
玄七郎からイチャモンを付けられた場合に、つい玄七郎をぶっ飛ばしたくなる、どうだ?
正しいケースでございます。次に、小春お嬢様?
スーパーで試食したりすると、買ってあげなくちゃって気持ちになるよね。お店の人に優しくされても、買うことでお返ししたくなってしまうかな。
よろしいでしょう、水無月様?
今風の話だと、SNSでいいねを付けてもらうと、いいね返ししなくちゃならない切迫感はありますね。ビジネスにおいては、交渉で相手が譲歩してくると、こちらも譲歩しなくてはならない気分になるものです。
皆さん正しく理解されているようでございます。他にはたとえば、相手が最初に自己開示してくると、こちらも心を開いてしまいがちというパターンもあるでしょう。
言うまでもない簡単な話だ。いちいちこの程度のことを確認しておく必要があるのか?
シンプルな原理だからこそ、それが意図して仕掛けられた場合には見落としがちになります。概念としてきっちり自分に刻み込んでおいて頂く必要がございます。この返報性の原理には、ドア・イン・ザ・フェイスという応用もございますので、合わせて確認しておきましょう。
ネーミングだけは聞いたことはありますね、心理学では有名でしたっけ。内容まではあんまり覚えてないですけど。
文字通りに考えると、ドアに顔を挟み込むってことなのかな?
最初に過大な要求をして断られたあとに、譲歩したように見せかけて返報性を引き出し、本命の小さな要求をすることで承諾を得やすくする手法のことを指しています。
わざと風呂敷を広げて要求すれば、相手が断ってくることが分かっている。その後に小さなお願いをすると、OKしてもらいやすいってことなのかな。
は? それがなんでドア・イン・ザ・フェイスって言葉になるんだ?
あー、思い出した。訪問販売の営業マンが、唐突に過大な要求を突きつけること――ドアにいきなり顔を突っ込むイメージから、ドア・イン・ザ・フェイスって名付けられたんですよね。
おっしゃる通りです。事例を何か思い浮かべることができますかな、小春お嬢様?
……え? なんだろう……。
この程度の発想がパッと出てこないのにはホトホト困ったものです。水無月様、お願いします。
車のディーラーの営業研修とかでしばしば解説される基本手法……たとえば『この車は300万円』と相場通りの見積もりを出す場合、断られるのは前提なんですよね。その後にディーラーが必死で上司に掛け合った風を装ったり、さも努力した感じで『いま決めてもらえれえば、お客様だけには今回特別に275万円にする許可をもらえました』と値下げ提案してみせたりすると、譲歩してくれたと感じさせて返報性を引き出せて、車の販売に繋げるって寸法ですよね。
なるほど、わかったかも! 玄七郎、私に1000万円貸してくれない?
お断りします。
じゃあ100万円でいいの、どうしても会社経営で必要なんだ。お願い!
キッパリお断りしたはずですが?
なら100円でいいから貸して。喉がカラカラで死にそうだよ。
100円すら持っていない小春お嬢様にはまったく困ったものです。私のBSの資産の部に、貸付金として掲載しておきます。不良債権化は避けて頂きたく。
 文句を言いつつも玄七郎は財布を取り出し、実際に100円を渡してきた。
これだよね、ドア・イン・ザ・フェイス。
玄七郎、私に世界の全てを寄越せ。
お断りします。
世界の半分で妥協してやる。
お断りします。
なるほどいいだろう、今は諦めてやるから代わりに今すぐガム買ってこい。
お断りします。
なっ!? 効かないではないか! こんなものは嘘っぱちだ!
 玄七郎は相手にせず、ホワイトボードに次のように書き記した。

(3)返報性の原理(ドア・イン・ザ・フェイス)

何かを受け取ったとき、何かをお返ししなくてはという気持ちになる心理効果。いいね返し。

ドア・イン・ザ・フェイスは、本命の要求を通すために、まず過大な要求をして断られたあと、小さな(本命の)要求をして譲歩したように見せかけ、返報性を引き出すテクニック。

営業研修などでは、ドア・イン・ザ・フェイスは単なるテクニックとしての側面だけじゃなくて、相手に満足感を味わってもらえるというメリットも強調されますね。
満足感なんてあるかなぁ? 騙し騙されたって感じがするよ。
お客さんはね、『交渉した結果、自分に有利な結果を引き出せた』って心理になるらしいの。だから営業側には最初から想定した結果だったとしても、お客さんも満足して、会社も儲かる。売り手よし、買い手よし、世間よし、の三方よしの結果に繋がるわけ。
そっか、自分が交渉したと思い込むんだ!
支配者のテクニックとしても使えるな。民衆にはギロチンや火炙りで殺しまくって恐怖政治をすると思わせておいて……実は何もせず重税だけで済ます。すると住民どもは重税にもかかわらず、大喜びでその支配者を歓迎するだろう。
ほう、まさか小雪お嬢様がそのような政治的ケースを挙げるとは思いませんでしたな。適正事例でございます。
ふん、私はこのようなテクニックに煙に巻かれるような目には合わないようにしよう。むしろ自分が仕掛ける側になるよう常に心がけねばなるまい。まずは庶民どもに、私が悪虐非道の支配者だと思わせておくところからスタートだ。
返報性……最初に聞いたときは当たり前すぎると思ったんだけど……その当たり前をしっかり使いこなすことが重要なんだね。
では手早く次に移りましょう。(4)一貫性の原理(フット・イン・ザ・ドア)でございます。これも(3)返報性と並んで営業研修などでよく持ち出されるテクニックの一つなので、水無月様はお聞きになったことがあるでしょうか?
(4)一貫性の原理(フット・イン・ザ・ドア)
フット・イン・ザ・ドアなら、これも心理学用語として有名な一つだったような……。こっちも曖昧にしか内容わからないんですけど、聞けば思い出すんじゃないでしょうか。
一貫性の原理と、フット・イン・ザ・ドアは、ほぼイコールの概念とお考えください。人々は誰しも、自身のコミットメントの一貫性を守りたいと感じております。一度ある立場を表明すれば、その立場を変えたくない、あるいは立場を変える人だと思われたくないという心理です。
簡単に言えば、自分がした約束を守り続けたいという心理なのかな。
逆から見れば、一度でも要求を受け入れてしまえば、次の要求を拒否しずらくなるという意味でもあります。これもあまりに当たり前の話ですので……今度こそ適切な具体例を挙げてくださると信じておりますぞ、小春お嬢様?
…………。
困ったお嬢様でございます。本番に弱いタイプだとは思いませんでしたぞ。
いきなりだと思い浮かばないだけなの……。あっ、無料お試しとかはどうかな? 中学一年のときに学習塾の無料体験に参加したことあったけど、そのあと何となく続けなくちゃいけないような気がしたんだよね。いま冷静に振り返れば、その塾がそんなに特別だったとは思わないんだけど……。
まさに。無料でも一度試してしまうと、それが自分のコミットメントとなって、その商品やサービスに引き続きコミットしなくてはならないような心理状態になりがちです。無料提供品や試供品などは、その効果を狙って配られています。
無料でもバラ撒くことには意味があるのだな。もちろんこの一貫性の原理を強く意識していればそんな心理状態には陥らないだろうが、多くの人々は無意識で影響を受けてしまうのかもしれないぞ。
せっかくですので、水無月様からは営業研修の続きをいかがですか?
営業研修……では先ほどと同じく車のディーラーのケースにしましょうか。そうですね……新しい車を探しているお客さんが車の試乗をすると、ディーラーは感想を聞きますよね。その場合、大抵のお客さんは失礼にならないようにポジティブな感想を伝えると思うんです。もうこの時点で、お客さんは一定のコミットメントをしてしまっていると言えます。さらにディーラーは、希望の車の色を聞いてくると、もちろんお客さんは答えますよね。また一つここでもコミットです。そんな小さな応答を繰り返していけば……お客さんのなかに知らず識らず『自分は言葉通りの人物で一貫性を守りたい』って気持ちが出てきて、車を購入する土壌が醸成されていくということでしょうか。
それが一貫性の原理でございます。
フット・イン・ザ・ドアってどういう意味なの? これも訪問販売のイメージかな?
はい、訪問販売の営業マンが、ドアの間に足を挟むイメージでございます。簡単な要求から始めていき、段階的にレベルを上げ、最終的には本命の大きな要求を承諾させるのです。
 玄七郎はホワイトボードに次のように書き記す。

(4)一貫性の原理(フット・イン・ザ・ドア)

コミットメントの一貫性を守りたい心理を利用し、簡単な要求から始め、最終的に本命の要求を承諾させる。

 ノートに必死でメモを取っていた小雪が声を上げる。
待て、さっきの『(3)返報性の原理(ドア・イン・ザ・フェイス)』と、『(4)一貫性の原理(フット・イン・ザ・ドア)』は対にならないか? 本命の要求を承諾させるゴールは同じだが、反対側からそれを目指しているように思えるぞ。
良いご指摘でございますな。『ドア・イン・ザ・フェイス』は最初に過大な要求のパンチをぶつけ、次の本命の小さな要求で決着させます。一方の『フット・イン・ザ・ドア』は最初に小さな要求を飲ませたうえで、要求を徐々にレベルアップしていき最終目標を目指します。対として受け止めておけば、概念を消化しやすいかもしれません。
無意識だったら抵抗できないかもしれませんね。こうして聞けば当たり前って思うんですけど……。
最初は難しいことを考えず、この広告的手法の項目を何度も繰り返し、丸呑みで覚えてしまってください。折を見てしつこいほど確認していれば、そのうち無意識下においても防壁が発動するようになりますので。
フフフ、丸暗記など私に掛かれば容易いもの……。
一問一答を解く要領で10項目を繰り返すことにするよ。どんどん先を続けて。
スーパー脳筋思考の2人には、何も考えずやれって軍隊形式のほうが、かえって楽なのかもしれないね。
それではとっとと進めます――。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色