第7章(3)

文字数 9,555文字

 今日は玄七郎が帰ってくる日だった。東京着の飛行機が午前中になるらしく、玄七郎は市ヶ谷の本社執務室に直接向かうとの連絡で、13時から帝王学講義を再開ということになった。そのため小春たちはゼリストから振ってもらった清掃現場に朝から入り、現場を終えてから着替えて本社執務室にやってきた。
お三方とも、しばらく見ないうちにどこか逞しくなっているような印象ですが、気のせいでありましょうか?
どうやら玄七郎は『男子、三日会わざれば刮目して見よ』という慣用句を知らないらしいな。私は呉下の阿蒙にあらず。この1週間で、私は10倍の成長を遂げたのだ。
私たち男子じゃないし! とにかくニセコ出張おつかれさまでした。
玄七郎と1週間も離れ離れだったなんて信じられないよね。でも朝から晩まですっごく忙しくなっちゃったせいで、感慨に浸る暇もなかったよ〜。
お土産はニセコ産のチーズでございます。ベイグランディアホテルズニセコが地元の農場と契約し、特注で仕入れている最上級品でございますぞ。業務用を分けてもらったのでいかにもお土産品のような包装はございませんが、ぜひ一度ご賞味ください。こちらは我が家の分で、こちらは水無月様の分となります。
わ、こんな貰っていいんですか!? 一人で食べきれない量かもですよ!
業務用なので。保存はききますから、少しずつお召し上がりになればよろしいかと。
よし、今日の夕食はチーズに合う鶏肉ステーキで頼む。この1週間はファミレスだったから、久々に玄七郎の料理を堪能するとしよう。
かしこまりました。
でね玄七郎、この1週間で私たちも結構頑張ってたの。だから今日の帝王学講義が終わったあとに相談したいこと色々あるんだけど、いいかな?
地球連合の事業でしょうか。登記は完了されましたか?
もちろん! あとで謄本も渡すよ。
承知しました、では早々になりますが、講義のほう済ませてしまうとしましょう。本日は広告的手法を取り扱うことにいたします。
おっ、事業を開始したばかりの私たちにはタイムリーな話ではないか? 広告が上手くいくのなら、私たちの清掃業もゼリストやネットサービスなど通さずにお客を見つけることができるはずだ。売上は一気に倍になる。
清掃業? ほう、地球連合は清掃業を生業としているのですかな?
最初の一つ目はそうだよ。ゼリスト建物管理から仕事をもらってるの。
だいぶ安く請負ってますので、仕事貰えて当然なんですけどね。今日の広告の講義を聞いたら、小雪ちゃんが言ったように自社独自での広告が考えられるかもしれません。
ゼリスト建物管理でしたら、人員募集にだいぶ手こずっているようですから、確かに楽に仕事がもらえるやもしれませんな。まさかお嬢様がたが清掃業とは……。ただ、ひとまず会社の成り行きについては後でまとめて聞くこととし、今は講義に集中しましょう。
早く広告戦略を伝授するのだ玄七郎、私は今、いかにして地球連合が世界最強の清掃集団となるか大戦略を練っているところだからな。
どうやら最初にお断りを入れなくてはならないやもしれません。帝王学における広告的手法に関する講義は、皆さまがたがご期待されているような、広告テクニックのことではございません。
何!?
ウェブマーケティング、テレビCM、新聞広告、チラシ、ポスターなどなど、広告テクニックは媒体ごとに数十に分岐しております。そして個々のテクニックは極めて細部にまで及んでおります。たとえばチラシたった一つのテクニックに精通した暁には、それだけでプロとして十二分に活躍できるでございましょう。いやそれどころか、チラシの腕一つで多くの事業を成功に導けるやもしれません。
そうしたことが知りたいのだぞ!?
その手の個々のテクニックについては、皆さまがご自身で勝手に、必要とされる媒体を個別に掘り下げて研究して頂く必要がございます。帝王学において取り組むのは、もっとずっと原理的な側面になります。テクニックのように即効性がある話ではございません。しかしながら、もっと全体を俯瞰する視点から、新たなテクニックを生み出したりするための土壌になってくれるでございましょう。
直接的な事業の助けにはならないかもだけど、原理原則が確認できるってことなのかな?
そう受け止めてください。私たちの日々の生活は、ありとあらゆる広告に取り巻かれております。我々は息を吸うように広告と接している――そういう意識はございますか?
そういう意識はなかったなー。
そこまで広告を常に意識してるってことはありませんでしたけど……。そりゃ改めて言われれば広告ばかりだってことは分かりますけどね。
私はテレビなぞ見ないし、雑誌も見ない。Youtubeの広告を飛ばせるまでの5秒間は、私は一問一答アプリで解けなかった問題を復習する細切れ時間に充てている。だからこそ私にとって時々の広告タイムは悪いものではなく、すっかり日々のリズムのなかに定着し、そして広告をガン無視する強い決意で臨んでいるということだ。秒単位で無駄にしない私がすごい、すごすぎる……。
激しい自画自賛ぶりはともかく……小雪ちゃんの勤勉ぶりは実際メチャクチャすごいよね。私が中学のとき5秒あったら、ぼうっとしてるだけだったと思うよ。
小雪はホント信じられないくらいの努力家なんだよ。何時間もギターの練習してたかと思えば、そのあとは寝るまで勉強したり……とても真似できないなっていつも思う。
ち、違うッ、ほ、本当の私はその5秒間にネコ動画を見て全力でなごんでいるのだ! 一問一答は何かの間違いなのだッ!
小雪お嬢様が避けるYoutubeの広告程度でしたら、まだそれと分かるのでマシです。しかし広告活動は、企業のコマーシャルのみならず、政治宣伝や学校の勧誘、国際関係のプロパガンダ、レストランの告知、個人間の縄張り争いや意地の張り合いに至るまで、あらゆる場面で見られることです。広告に見えないものの、実際には意図が秘められているものが私たちの周りには溢れております。
玄七郎はホワイトボードに、次のような10項目を書き記した。

(1)レッテル貼り

(2)善悪二元論

(3)返報性の原理(ドア・イン・ザ・フェイス)

(4)一貫性の原理(フット・イン・ザ・ドア)

(5)バンドワゴン効果

(6)グランファルーン効果

(7)恐怖感・罪悪感で説得

(8)カードスタッキング

(9)希少性の効果

(10)権威の利用

さて、この10項目についてだけで構いませんので、皆さまには無理やりにでも丸暗記してもらいます。この番号を聞いたら、対応した項目をスラスラ口にでき、同時にその内容をサッと浮かべられるくらいにまで仕上げてください。
なんか今までの帝王学とちょっと違って、ちゃんとした授業みたい。もちろんこんな内容、学校の授業で聞いたこともないけれど。
レッテル貼りとか二元論とか、よく見聞きする範囲ですかねー? 内容のイメージも何となくつきますよ。
個々の内容自体は大したことではありません。当たり前のことばかりです。それでも人間とは不思議なもので、意図をもって仕掛けられた場合に、それが広告なのだと中々見破ることができないのです。その理由は簡単で、こうして概念として自分のなかに確固とした整理がなされていないため、漠然と受け入れてしまうことになるのです。皆さまも算数の授業で、訳もわからず九九を覚えさせられたはず。それと同じように、まずは深いことを考えず、何度もこの10項目を繰り返し、頭から丸暗記して欲しいのです。
フフフ、丸暗記であれば容易いというもの。つまり私の得意分野ということだ。
逆に言えば、広告ってその10項目だけってことなの?
学術的見地からすれば、10項目だけという訳にはいかないでしょう。厳密に分類していけば、100項目にも200項目にも細分化できるはず。ですが我々は学者でも暇人でもございませんし、細分化の正確性を極めればいいというものでもございません。広告を正確に見抜くための最小項目ですが、これだけをきっちり把握しておけば、実生活においても事業上においても広告に流されてしまうことはなくなるでしょう。
項目を絞ってしっかり自分のなかで消化しておけば、防衛力が高まるというわけですか。
これら概念を知らないと、防壁がないのと同じでございます。また、概念を忘れてしまっても防壁がなくなるので、確実に消化しきるまで折を見て10項目を見返して欲しいのです。
逆に10個しかないと不安だぞ。私なら繰り返せば7、8分で完全丸暗記できるからだ。空でも言えるようになる。学問的には100も200もあるというのなら、私は知りたい。私はつい満点を取るのが日常化してしまっているのだから、奇問難問も当然知り尽くしているのだ。
どうぞご心配なく、ここから大きく外れる手法というのはマイナーで、攻撃力に大きく劣るか、あるいは遭遇回数が少ないものです。そうしたものは無意識下でも防衛可能でございましょう。一方、書き出したものは攻撃力が高く、そしてあらゆる広告に何某かの形で、この10項目が内在されています。ここだけに絞ってマスターするだけで、今後の事業活動には必要十分であると言えましょうな。
こんな少ない防具で広告から自分を守れるなら、世の中の人たちは誰だって広告に影響されなくなるんじゃないかな?
摩訶不思議な話ですが、世の中の大多数の方々は、この程度の防具さえ装備していないということです。では一つずつ確認していくことにしましょう。まずは(1)レッテル貼りでございます。言わずもがなではございましょうが、どのようなものかお答え頂けますか、小春お嬢様?
(1)レッテル貼り
これは文字通りに考えれば、相手に悪いレッテルを貼り付けることだよね?
具体例をどうぞ。
そう言われるとパッと思い浮かばないなぁ……。
お姉、玄七郎に対するレッテルを思い浮かべれば簡単だぞ。
あっ! 『鬼』、『悪魔』とか! 『鬼畜』もあるよね!
私も幾らでもあるぞ。『三下』『若造』『ヒヨッコ』『生意気坊主』『半人前』『ハナタレ小僧』『駆け出しの青二才』――すべて玄七郎に対するレッテルだが、これは歴史的事実でもあるのだ。
つい最近まで『オネショをしていた小娘』が何か言っておりますな、小雪お嬢様?
う、嘘を付けッ! 人聞きの悪いことを言うな! 撤回しろ、貴様の立場だと、他人には冗談に聞こえないのだぞ!?
 小春には、小雪がオネショをしていた記憶はなかったが、売り言葉に買い言葉なので黙っておくことにした。
小雪お嬢様がこの10項目をスラスラ暗唱した暁には、撤回して差し上げましょう。『オネショをしていた小娘』――これは元々ただのタチの悪いレッテルの例ですから、事実ではございませんしな。では大人のご意見を拝聴させて頂くことしましょうか、『インテリ』水無月様?
それもレッテルですよね! いっつも私を『エリート』呼ばわりして、そういうのもレッテルじゃあないですかぁチクショー覚えてやがれー!
ただし、一面の事実ではございましょう? 疑いなく水無月様は『エリート』ですし、『インテリ』でもございます。こういう真偽入り混じるレッテルこそが最も効果的なのでございます。一方で、小雪お嬢様が言い放つレッテルはセンスの欠片すらなく、『ワンパク坊や』がただ泣き叫んでいるようなもの。また小春お嬢様のレッテルは、単なる事実でございますので攻撃力ゼロ、まさに無風といったところでしょうな。
『鬼』『悪魔』『鬼畜』っていうのは全面的に認めてるわけですね……。
私を『オネショ小娘』、おまけに『ワンパク』呼ばわりとは……悪鬼なり玄七郎……。
話を戻しましょう。水無月様、具体例をお願いします。
たとえば、『レイシスト』とか……『軍国主義者』とか……『忍び寄る独裁』……みたいな。
典型的なレッテルで、さすがでございます。レッテルは極めてシンプルな方法ながら、非常に強力な攻撃力があります。印象に残りやすいうえ、誰もが使いこなせる広告的手法でございましょう。
『致命的敗北』と『戦略的撤退』では印象が異なりますからね。それから、歴史教科書で習う『ボストン茶会事件』とか何やら壮大な内戦に聞こえますが、実際にはイギリス警察隊が5人を殺傷したことに対して、アメリカ人が付けた典型的レッテルであることが知られてますね。それがアメリカ独立戦争にまで発展してしまいましたし。
レッテル貼りが戦争にまで発展するんだ……。
日本においてもたとえば幕末、『尊王攘夷』というのは効果的なキャッチフレーズでしたが、これも一種のレッテルでございます。日本の政治構造を変えるほどのパワーをもたらしました。
『尊王攘夷』は教科書で習ったが、レッテルなのか? 敵が付けたわけではない。まさにキャッチフレーズとして、自分たちで宣言したのでは……?
レッテルの効果はシンプルに強力なので、何も敵ばかりに付けるものではございません。中立勢力を都合よくラベリングすることもできますし、自分たち自身に含みのあるレッテルを付けてしまうこともできます。その場合キャッチフレーズやキャッチコピーという前向きな呼び方もできますが、手法と効果は同じものでございますので、レッテル貼りとして統一してしまったほうが整理が楽でございましょう。
キャッチフレーズ――自分たちを正義のヒーローみたいに見せるレッテルで最高に有名なヤツは、やっぱりアメリカ様の『自由と民主主義』じゃないですかねー。あとはリベラル様の『博愛主義』とか『人命優先』みたいな。
『アメリカ様』や『リベラル様』のようなものも、少しの皮肉を込めたレッテルになるでございましょうな。
玄七郎がたまに買ってくるジャムに『砂糖不使用』って書いてあるけど、これも自分で貼るレッテルの一つなのかな?
『砂糖不使用』とは厳密に言えば食品の製造加工段階で砂糖を使っていないというだけに過ぎません。ただ、広告的に中々効果的なので、自社製品が該当すれば貼ってしまったほうが有利でございましょう。このようにレッテルは、ありとあらゆる場所で効果的に活用することができますので、利用しない手はないです。ではなぜレッテルがこのような効果をもたらすのか、その理由を簡単に整理しておきたいのですが、理由がわかるでしょうか、小雪お嬢様?
り、理由だと……? レッテルはレッテルだ、そこに理由など必要なものか……。
小春お嬢様?
言葉にしないと分からないから……とか?
では水無月様、こちらの『無知蒙昧な小娘』2人に、大人のご意見というものを遺憾なく見せつけてやってくださいませ。
その『大人のご意見』とかいうのも一種のレッテルですよね……? そう言われると何か言わないとって思うのが玄さんの術中って感じですが……そうですね、新約聖書は『始めに言葉ありき』というフレーズから物語が展開していきます。私たちが物事を認識できているのは言葉あってこそであって、もし言葉がなかったとしたら概念として理解できないんです。光、という言葉が存在しなければ、光がないのと同じです。だからつまり言葉こそが、物事を自分のなかで消化する最も大事な基盤っていうことじゃないでしょうか。
大筋としては正しい理解の範囲内だと考えます。もっとシンプルにまとめますと、『言語の本質は、日々膨大に入ってくる情報をカテゴライズすること』にあります。レッテル貼りは、この『言語の性質を柔術のようにそのまま利用して、人々が物事をカテゴライズする際の解釈を提供』します。すると以降は、目的の人物や物事について、その解釈で認識されるようになるのです。一見単純ですが、恐ろしいほど強力で、多様されており、広告的手法の根幹中の根幹だとお考えください。

(1)レッテル貼り

情報をカテゴライズする言語の本質を利用して、レッテルを貼ることで解釈を提供してしまう。

そっか、私たちって毎日毎日、とんでもなく膨大な情報に囲まれて暮らしてると考えることもできるよね。だからその情報をラベリングすることで、自分のなかでカテゴライズしてしまうんだ。
その都度、出会う情報ごとに本質を探究していたら、忙しくて生活なんてできないからね。ちゃっちゃと一つの言葉で理解を済ませちゃって、どんどん流していかないと思考が間に合わない。
ふむ、私以外の人間に、すべての物事の本質を追求し続けるなどという能力が搭載されているとも思えない。むしろレッテル貼りは庶民の日常生活にとって不可欠なことなのだろう。
さて、レッテル貼りは最も重要なのでいささか長くなってしまいました。次は非常に簡単なので、すぐ済むはず――(2)善悪二元論について確認していきましょう。水無月様、どんな例がありますかな?
(2)善悪二元論
パッと思いつくのは、アメリカが『善』、ソ連が『悪』という論法ですかね。あとイラク戦争におけるアメリカは『善』、イラクは『悪』。最近ではロシアウクライナ戦争におけるウクライナが『善』、ロシアが『悪』。いやもちろん本質的に善なのか悪なのかという意味じゃなくて、大手メディアの論調が徹底的なまでにそういう善悪二元論になってますね。
申し分ない具体例でございます。善悪二元論はこれで済ませてしまってもいいくらいですな。
たしかにニュースって善悪二元論だけだよね。普段はそこまで意識してなかったけど……。
そういう話を聞くと、マスメディアの連中というのはクズの大集団なのか? 人間が善悪二元論だけで断じられるはずがない。無能なのか詐欺師なのか、それよりもっと悪辣な何かということか……。
今の小雪お嬢様の物言いは、主にネット世論などがマスメディアを叩くときの考え方ですな。ですが、それがまさしく善悪二元論に取り込まれた断じ方をしておられますぞ。マスメディアは『悪』である、と。
なん……だと……!?
小雪お嬢様がご自身で仰ったではございませんか、『人間が善悪二元論だけで断じられるはずがない』と。マスメディアに勤務する人々は、単なるPL脳のサラリーマンに過ぎません。そんな方々が公正な審判をすることを、心のどこかで期待している小雪お嬢様が完全に間違っているのです。
しかしマスメディアには強力な道具が特権で与えられているはずだ。メディアには本質を探究する高貴なる義務があるはずだぞ。
これはまた笑わせてくれますな。たかだかマスメディア勤務ごときサラリーマンの方々がまさか高貴とは……実にトンデモ発想があったものです。片腹が痛くなり過ぎて、病気にでもなってしまいそうなほどでございます。私が入院すれば小雪お嬢様のせいでございますので、莫大な損害賠償を覚悟して頂きましょう。
お、おのれ玄七郎……。マスメディアの報道に異を唱えて何が悪いというのだ……。
異を唱えるのが悪いなどと申し上げたつもりはございません。第一、マスメディアの方々は、大衆の一員でしかございません。しかもテレビや新聞というスーパー斜陽産業に就職してしまう程度の人々ですぞ。そんな彼ら彼女らが関わる報道というのは、大衆を映し出す鏡なのでございます。もっとハッキリ断定すれば、大衆の方々に物事を伝えようとするときは、善悪二元論にしないと理解してもらえないのです。
つまり、マスメディアは別に意図して善悪二元論にしているってわけじゃないのかな? 善の側からお金をもらったり、圧力を受けたりしてるわけじゃなくて。
もちろん善の側から裏で何某かの便宜を図ってもらっているケースはあるでしょう。しかしそうでない場合においても善悪二元論の形で報道するわけで、それはマスメディアの悪意というよりも、大衆の方々の理解力に合わせているに過ぎないのです。どちらかと言えば、やむを得ない事情、という側面が大きかろうと思います。
玄さんはマスメディアに対してアベコベに同情的な感じがしますね。まぁ私は元同級生で大手テレビ局や新聞社に就職している人も結構いますし、メディアの中の人って実際私と大して変わらないですよ。
私どもが持つべき最善のスタンスは、マスメディアの情報とは一切関わりを持たぬことです。大衆の方々にとってはとても大切な日々のエンターテイメントでございますから、そこに横から水を差すのは無礼でございましょうし、私どもにとってそこは異世界でございまして、別の宇宙で何が行われていようが預かり知らぬところでございます。ただし事業上において、大衆の動きを知りたい特定の分野がございましたら、異世界として情報収集し、自らの事業に活かせばよろしいかと思います。
そんな風に機械みたいに割り切れないよ〜。ちょっと冷たすぎるような気がするー。
逆でございましょう。私は温かい心を持っていると思っておりますが。マスメディア批判など毛頭するつもりはございませんし、大衆の皆さまがたの楽しみに対して茶々を入れるような野暮もいたしません。そんなところに関わっている暇があるのなら、我々BS脳の事業家にとっては、もっと大事なことは山とあるのだという話に過ぎないのです。
玄七郎の温かい心など笑止千万。貴様は恐るべき残虐性を持っている男だ。
玄さんくらい割り切れるようになれば、日々のニュースで一喜一憂することもなくなって、精神安定上だいぶ良いのかもしれませんね。ニュースが目に入るといちいち心乱されるものですし。羨ましいというか何というか。
水無月様のご指摘通り、大衆と自分を完全に切り離すことは、抜群の精神安定効果をもたらします。ただし大きな欠点が存在していることもまた事実……。
欠点って何なの?
とてつもなく暇を持て余すようになることです。私ども事業家や、何か強い目的を持って生きている方にとっては、そうした無駄な時間の圧縮効果はとても有用ではございますけれども……ごくごく大衆的な生活を送っておられる方々にとっては恐ろしいほどの余暇時間が発生してしまうことになるでしょう。それは一種の苦痛になりますし、大衆と繋がっていないことによる戸惑いや不安を感じる方も多いに違いありません。何事にも一長一短はあるということです。
善悪二元論はすぐ済むはずって言ってた割に、マスメディアの捉え方とか、大衆の人たちと自分を切り離すこととか、結構盛り沢山だったんじゃないのかな?
大衆との距離感については、別に一項目設けるつもりでしたが……参りました……どうしても物事は重曹的になるもので、この広告的手法だけを切り離して済ますことなどできませんでしたな。

(2)善悪二元論

ある物事について『善』か『悪』かだけで判断してしまおうとする論法。大衆に物事を理解させるために必要不可欠な論法であるが故に、マスメディアが常用する。

フッ、しゃらくさい坊やがテキパキ進められないのはいい気味だ。
なにぶん私も帝王学講義などする機会がそうそうあるものではございませんので。しかも、あまりにも出来の悪すぎる生徒たちが3人もこうして雁首揃えているわけですから、私にも弁解の余地がございましょう。
いちおう私や小雪ちゃんも生徒扱いになったみたいですね!
玄七郎、今日はちょっと時間を取って欲しいこと忘れないでね。地球連合の経緯を聞いておいて欲しいの。
……ふむ。ならば本日の講義はここまでとし、小春お嬢様らが始めた事業の推移を聞くとしましょうか。帝王学講義を無理に駆け足で行うよりも、着実に内容を消化してもらったほうが有用ですからな。それに事業で無惨に失敗しまくる経験は、帝王学講義にも好影響を及ぼしましょう。休憩後に、皆さまのお話をお聞きするとします。
無惨に失敗などしていないことを見せつけてやる。玄七郎の悔し涙が今から楽しみだ。
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登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

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