第8話(3)

文字数 2,853文字

 熱海駅に戻る道すがら、遊歩道で立ち止まった小春と小雪は手すりに手をつき、無言で海を見つめていた。


 懐かしい景色だ。

 玄七郎と連れ立って何度も見ていたこの風景を前にすると、無邪気だったころを思い出す。

 大して深い悩みなど何もなかった、少し前の自分。もちろん日常の些細な不平不満はあったものの、今振り返れば心底どうでもいい程度の物事ばかりだった。

 自分にこんな変化があったことが不思議だし、気にかけていたはずの日常の雑事など吹き飛んでいることにも驚きだ。そして今は不満など一つもなく、何もかもを有りのままに受け入れて、ただコツコツ前へ進むことだけが自分に必要なすべてだと思う。


 しばらく静かに思いに浸っていると、ふと小雪が声を掛けてくる。

さすがお姉だ、高校に行かないなんて初めて聞いたぞ。いつから考えていた?
地球連合を設立したあたりから、そういう選択もあるのかな〜ってくらいに軽く考えてはいたんだよね。玄七郎が、事業は臨機応変ってことを強調してたし、人生も臨機応変に行くべきなんじゃないかって。もし高校や大学に行きたいと思ったら、その時行けばいいんじゃないのかな。といっても、たぶんそんな風に思うことないかもだけど。
軽く考えていたわりに、断定していたではないか。
お父さんと話したことで心がしっかり定まったの。
金を貸そうとしなかったオヤジへの当てつけか? 半泣きだったぞ、オヤジは。
違うよ〜。むしろ逆、なのかな。私、ちょっとお父さんのこと見直したのかもしれない。私たちってお父さんのこと、どこか浮世離れした感があって、世間が思っているような大人物じゃないと思ってきたでしょう? だけどむしろ、もしかしたら、世間が思っているよりも結構すごい人だったんじゃないかなって思ったの。
アベコベだぞ。オヤジのことを尊敬したとでも言わんばかりだ。
小雪はやっぱり印象同じまま?
……い、いや……私も実は少し、お姉と似たようなことを感じたかもしれない。オヤジは栄光はまだだって言っていたが、私はおそらくオヤジは十分な成功者だと思う。大体あのオヤジが成功者に分類されなかったら、他にどこのどいつが成功できるというんだ。それでも自分は成功していないって本気で信じているようだったし、ここまで企業を急成長させたのは99%運だと言い切っていたのには正直びっくりした。認めたくないが……少なくともあのオヤジは凡人の類ではない……。
そんなお父さんなのに、桜丈ホールディングスから自分を断ち切るなんて、思い切ったことしたものだよね。勇気がいったのは本当なんだろうなって思った。これからもずっと桜丈ホールディングスでのギャンブルを続けていきたかったはずなのに。
お姉はオヤジに同情的だな? ここに来るまでそんなことはなかったのに。
小雪はそう思わなかったの?
私は、桜丈ホールディングスを強引に引退したオヤジを赦したことは確かだ。だが……同情は一切感じていない、少し違う意見を持っている。
どんな、意見?
この地点が、オヤジのあらゆる才能の総決算――最高到達点だったんだ。オヤジは、ここから先の世界へはいけない、その力がなかったんだ。そのことは、オヤジ自身が誰よりも痛切に理解していたと受け止めた。……だからこそ栄光を掴むのもキッパリ諦めたのだし、自らの才能の頂点で幕引きしようと決めたんだ。そうした見切りをつけられたのも、オヤジの才能の一つなんだと思う。
玄七郎が、お父さんは大きな波を掴む才能があるって言ってたからね。自分の人生の大きな流れを的確に掴んで、ある意味でいえばその波に乗ったんだ。後悔と未練ばかりって顔してたけど、結果だけ見れば意外と前向きな決断だったのかな?
オヤジが大物であることは認めていいし、その実績も確かにあるが、それでもオヤジはここまでの男だった。そして、ちゃんと自覚もしてるんだから、私は『こいつ中々やる野郎だな』と思ったぞ。
だけど……強引な引退を私たちのせいにしてなかった? 頭のどこかで、私たちのことが頭を掠めたって。だから桜丈ホールディングスを、まだ安定しているうちに私たちに遺そうとしたって。
それは言葉遊びの一つに過ぎない。私流に言えばだ、オヤジは私たちをダシに――つまり言い訳にしたんだと思うぞ。確かに結果だけ見れば同じ……オヤジは自らの才能に見切りをつけざるを得なかったことを、いかにも私たちのせいにした。
な、なるほど……! そうだよ、そうだよね! お父さんの話に何か少し違和感はあったんだ、だってあれほどの人が、私たちのこと頭に掠めたくらいで栄光を断ち切るなんて……。お父さんの気持ちに嘘はないんだろうけど、そう思い込むことで自分を慰めていたんだ。
だからオヤジに同情する必要はない。そしてオヤジが得られなかった栄光は、私たちが掴めばいいのだ。
越えられるのかな、私たちがあのお父さんを。
玄七郎は、お姉が帝王に相応しいようなことを言っていたではないか。ならばそれは本当なのだ。あの玄七郎が、お為ごかしでそんなことを言うはずもない。
毎日、オロオロしてばかりの情けない帝王だけどね。
泥水を啜って暮らし、悩み苦しみ続けるのが帝王というものだと私は思う。それを臣下に見せなければいいだけの話だ。
肝心のお金、お父さん貸してくれなかったね。
熱海のマンションに立ち寄ってクローゼットの金を荒探ししたいところだが、あのオヤジの様子だと必死で阻止しようとしてくるに違いない。火に油を注いで、無用な喧嘩に発展しかねないだろう。
追い返された銀行……明日もう一回挨拶に行ってみようかな……。ダメ元なんだけど、今は足掻いてみるしかないよね。せめて100万円あれば千景先生から一時的に借りて何とか……。
100万円にも困り抜く地球の帝王か。なかなか洒落が効いているではないか。
そんな情けないところが私らしいよね。がんばれ私!
私も一緒だぞ。奮い起て私!
うん、一緒に頑張ってみようね。これからも小雪にはお世話になりっぱなしになりそうだよ。
任せてくれ、お姉は私を頼っていい。私は有能極まる漢だ。
あっ、電話……。
千景か?
ううん、見たことない番号だよ。……もしもし。
お電話失礼します。日本政策金融公庫ですが……こちら桜丈小春さんのお電話でよろしかったですか?
あっ、はい、桜丈です! 先日は色々教えてくれて感謝です、それから、勉強不足のことを色々言ってしまってすみませんでした!
そこで先日の融資相談を審査させて頂きまして、結果のご連絡です。
わざわざありがとうございます。やっぱりダメでしたよね。
いや、地球連合さんに対する融資の承諾が取れました。
…………え? ……あのぅ……嘘、ですよね……?
まさか嘘など付くはずも……普通に審査して通ったのですが。
…………。
……ど、そうした、お姉?
 しばらく小春は呆然とし、無言で海を見つめていた。
電波悪いのかな……通じてます? 融資、通りましたよ。200万円だけですけどね。
 その瞬間、小春はワッと声を上げて泣き出したのだった。
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登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

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