プロローグ（１）
文字数 2,309文字
嘘だと言ってよ玄七郎！ 今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの！？
左様でございます、小春お嬢様。
無理無理無理無理ー！ 私、さっき中学校の卒業式を終えてきたばかりなんだよ？
旦那様は本日引退されましたので。
ほわー。
桜丈小春は、自室にやってきた源玄七郎を見やりながら呆然とした声を上げた。
小春は15歳になったばかりで、中学校を卒業した直後である。
67歳の長身の玄七郎は、さも執事然とした格好で、礼儀正しく続けてゆく。
昔の人は15歳頃までには元服していました。お嬢様には『帝王学』を修めて頂かねばならないお年頃でございます。これから実在する戦場に出て、塹壕のなかで嫌でも身につけてもらいましょう。
玄七郎はさっき、お父さんの会社の代表取締役に私を登記したって言ったよね？ 勝手に登記して平気なの？
登記とは、重要な権利や義務を社会に向けて公示する法制度だ。
当然ですが勝手に登記してはいけません。お嬢様のご意向を受けたと推定のうえで就任承諾書はこちらで作りました。株主総会に出席して頂いたことにもなっていますが、桜丈ホールディングスは旦那様が100％の株式を保有している法人なので、しょせん家族会議みたいなもの。旦那様もちゃんとお嬢様の法定代理人としての形式上の手続きを踏んでおります。
そんな法律的なこと、聞いたって意味がわからないよ。
お嬢様は同意していた、いいですかな？
そ、そうなのかー。そうなのかなぁ？
お嬢様は同意していた、いいですかな？
…………。
お嬢様は同意していた、いいですかな？
そうだったような気がしてきた……。
世界20都市に展開するエマニュエルホテルも、50の外航船を保有する桜花汽船も、新宿ゼノンマークスタワーや東京八重洲グローバルセンタービルや天王寺ミレニアムタワーなどの高層ビル群も、全世界で急成長中の高級和食チェーン『和さくら亭』など200に及ぶ関連企業群も、今日からお嬢様が統括してもらうことになります。いいですかな？
玄七郎は自分に厳しく、他人にも恐ろしく厳しく、鉄のように頑なだ。文句を言っても決して言質を変えるタイプではない。小春が幼いころは、玄七郎の強い指摘で幾たびも泣かされてきたものだ。
ただし玄七郎が命じてきたことで、不運を招いたことは一度もないことだけは確かだった。厳しすぎる言葉の裏に、家族愛のようなものが含まれていることは小春とて理解している。玄七郎はその実直さが行き過ぎているが故、少々不器用なだけなのだ。
あり得なすぎて笑えない。お父さんはいつも唐突で勝手気まま。
早いか遅いかだけの違いです。ある日突然に旦那様が不測の事態となった場合、引き継ぎが完了していなければ大混乱となるに違いありません。余裕があるうちに、お嬢様にグループ全体をお譲りしておこうとの腹づもりでございます。……いや、本当はもう少し深い考えがおありのようですが、それはまたおいおい……。
社長なんてやらない、って言ったら？
私の切腹をご所望ですね。それでは、今ここで腹を切らせて頂きます。
そんな！ ワガママ言ってごめんなさい、お願いやめて玄七郎！
いずれにせよ、既に刻は動き出してしまいました。代表取締役の変更登記は、法務局に本日提出済みでございます。
私、もっとイラストを描いていたいの。私の描いたキャラクターでみんなに喜んでもらえるのがすっごく嬉しくて、いつかイラストレーターになれればいいなって思ってるよ。
どうぞご自由に。お嬢様は日本最大のイラストコンテスト中学生部門で、2年連続最優秀賞を取るほどの実力者。素晴らしい才能でございます。いずれお嬢様はその才能で、世界に羽ばたくに違いありません。
小春は幼いころより部屋にこもって絵を描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターを好んでデザインしている。大手新聞社＆大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いていた。3年ほど前からマンガにもチャレンジしており、学校では小春が描いた可愛い系のマンガが回覧され、同級生たちから高評価を受けるのを嬉しく思っていたところだった。
だったら社長なんてやってる暇、あるのかな……？
ございます。そもそもお嬢様が将来イラストレーターとして活躍することと、桜丈ホールディングスの社長業をすることはまるで矛盾しません。世の中には特定の業界でプロとして活動しながら社長業をこなしている方も現実におります。いやむしろ、それぞれの活動に相乗効果をもたらすことでしょう。
いきなり社長って言われても……何もできないよ、私。
それがお嬢様の社長としてのご選択なら、それほど何もせずとも構いません。ただしグループの資金繰りは日々絶え間なく続いていますから、現状把握は怠りなく。傘下のどこかで危機となれば、余裕のあるところからキャッシュを引き抜く決断だけは、どうしてもお嬢様にして頂かなくてはならないことですからな。さあ、では参りましょう。
ど、どこに……？
もちろん本社の執務室でございます。
夕方には小雪と神楽坂で抹茶かき氷を食べる約束してたんだけどな。私のお小遣いでも時々通えるくらいすっごく安くて、可愛いお店を見つけたの。でもどうせ玄七郎には、拒否したって無駄なんだよね……？
小雪は、小春の妹だ。2つ下で、小雪は4月から中学2年生になる。
暖かいご理解に感謝いたします。小雪お嬢様には私から強く言って聞かせます、小春お嬢様には厳しい修行に向かうべき刻が遂に到来したのだと。さあ参りましょう生死を賭けた実戦の舞台へ、これからお嬢様にはみっちりと、相応しい帝王学を身につけて頂く所存でございます。
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