第15章(3)

文字数 4,809文字

 桜丈ホールディングス執務室。
さて私に苛烈で残忍な仕打ちをしてくださったお嬢様がた、私の購買力7600万円を奪い去っていくのはいつになるのでしょうか?
だからヤメろと言ったのだ……。
あと少しだけ待って欲しいな……。トライアスが登記申請中だから、もうすぐ……。
トライアスが登記完了して登記簿謄本が取得できたら、その日に法人口座を作ってきますね。玄さんは最初に地球連合に振り込んでもらって、その直後すぐ地球連合の口座からトライアスに振込してもらいます。これらを一度の手続きで済ませるようにするので、1時間も立ち会ってもらえれば大丈夫かと。
このところ睡眠不足が続いておりまして、出来るだけ短時間で済ませてほしいものでございます。くれぐれもお嬢様がたは私の真似をせず、できるだけ適正な睡眠時間を守るよう心がけていただきたく。睡眠は、食事と並び、健康維持にとって最も大事な要素ですので。
玄七郎は最近、夜いないよね? 今日も朝方帰ってきたみたいだけど、どこに行ってるの?
幸いにも、交通誘導員の職を得ることができましてな。主に深夜……時間帯はまちまちですが、早朝5時くらいまでは勤務させて頂くことができます。朝帰りになるのはやむを得ず、起床も最近はどうしても11時ころになってしまい、家事がやや停滞しています。お嬢様がたにはご不便をおかけしており、大変申し訳なく思っております。
家事が停滞してるって全然思わないけど……な、なんで交通誘導員として働き始めたのかな……? やっぱりその……。
は? もちろん納税資金を確保しなくてはならないためでございますが?
…………。
…………。
何か?
ご、ごめんね玄七郎……。私が無知だったのが諸悪の根源だったと思ったよ……。もっと勉強しなきゃだし、私ってやっぱり脳筋なんだって切実に思った……。
こんな講義をしているんだから、玄七郎には億単位の金がうなっているんだろうと勝手に思い込んでいたぞ……。
帝王学の作法を身につけることが、成功と直結するわけではないことはお伝えした通りですが。そもそも私は目下のところ敗者の側に身を置く者でございます。いいですか小春お嬢様、小雪お嬢様、私に対して何ら負い目を感じたりすることは一切無用でございます。そのような態度を示されると私が傷つく――わかりますか?
う、うん……。でも……。
でももヘチマもないのです。私は誇りを持って小春お嬢様の一生のお願いにお応えした、当然、こうした状況も覚悟のうえで、すべて呑み込んでお応えしたわけです。それを今更なかったものにするなど失礼な話ではございませんか。
私たちの勘違いや知識不足だったのだから、もう少し待ってくれても良かったではないか。玄七郎はいつだってそうだ。
他者に1億円を要求するような行為が、ちょっとした思い違いから行われていいはずがございません。小春お嬢様は涙まで見せられましたな、覚悟の上の話だったはず。どうかご自身の選択に自信を持ってください。そうして胸を張って私と向き合って頂けましたら、私も自身の行動に誇りを持てるというものです。
……わかった、玄七郎はいつも厳しいね。
…………。
玄さんの極端な常識で教育を受けたら、そりゃもうどこに行っても戦えますね。
私は標準的な人間に過ぎませんぞ。約束は守り、仁義を大切にし、慈悲を持ち、いざとなれば腹を切る――それがごくごく一般的な日本人のスタイルでございます。
腹は切らないと思いますが……。
実はね、トライアスに投資してくれる相手も決まったの。こんなにあっさり投資が決まるなんてびっくりしたよ。
ほう、どこぞのベンチャーキャピタルですかな?
違うんだよね。ローミックっていう事業会社。
マンガAI翻訳のバックエンドのシステム、ウェブビューワーなんかを提供してくれる開発会社なんですよ。社長に話したら、ぜひ出資させてほしいと。
なるほど……。ありうる成り行きかもしれませんな。
千景先生が社長をやる会社だったら、出資しない企業なんてないんじゃないかって言ってた。いくらビジネスモデルが完成されてる事業だって、私が代表だったら出資検討してもらえなかったと思う。
たしかに、ヘッドハンティング会社などを頼って水無月様を雇用しようとするよりも、出資したほうが安くつくのは明白かもしれません。損得勘定を考え、ビジネスモデルも堅いとの判断であれば、出資しない理由はないという判断もできるでしょうな。
ベンチャーキャピタルの人たちも、最初に私がマンガAI翻訳事業を立ち上げるって話をすると、面白い事業だけど結構審査するって言ってたんだよね。でも千景先生が代表になるって決まった瞬間に、急に前向きに変わって出資したがるようになったの。
ベンチャーキャピタルの方々の思考は単純です。もともと事業の先行きなぞ、いかにプロを気取る方々といえど判断できるものではございませんし、当たるも八卦当たらぬも八卦の世界でございます。そんななか、博打で張る相手は、水無月様のように万一事業が失敗したら色々と無くすものが多い方のほうが安心できる……いわば水無月様の経歴が担保になるのですよ。その点、小春お嬢様は失敗したところで無くすものもなく、出資者だけが一方的に痛手を受けるだけの話になります。
今回のケースでは、私は別に無くすものなんてないですけどね。まぁ他人からみればキャリアを投げ出しての挑戦って映るんでしょうし、わからないではないですが。
事業自体が同じなのに、千景先生のほうが経歴が良いってだけで判断が変わるのなら、ベンチャーキャピタルの人たちの実際の審査能力ってほとんどゼロだなって思う。身も蓋もないけど。
こういう資金を集めるという点で高学歴のほうが有利ってことならば、仮に何年を無駄に溶かすことになろうとも、有名大学に行くことは悪くはないのか?
資金を集めるという行為を通して、他人資本の会社に帰結する点をお忘れなく。自身が持株比率で過半数を取るような状況ではない限り、しょせんサラリーマンと大した違いはない話でございましょう。サラリーマン社会の延長線上と考えれば、当然に超高学歴であればあるほど有利になっていきますぞ。
当たり前すぎる話なんでしょうけど、持株比率って切実に大事ですねぇ……。今更ですけど……。
そうそう持株比率! 出資についてはローミックの川上社長が出す気満々なんだけどね、2億円を出すって言い張ってるの。対して私たちは捻り出しても8200万円。株価は私たちと同じだから、川上社長の話をそのまま受け入れると、いきなりローミックの子会社になっちゃうよ。だからローミックの出資金は6000万円までにしてくれって交渉中なの。
新設のトライアス株式会社を、地球連合が支配するか、ローミックが支配するか……これは天下分け目の決戦なのだ。
ローミックが6000万円以下であることを受け入れなければ、お嬢様たちは他に話を持っていくとすれば、妥協して来ざるを得ないのでは?
普通ならそうなんですけどねー。ただローミックは今回の開発業者に決めてまして、疑いなく開発を任せる最適な相手なんですよ……。だから私たちが出資を断ると、ローミックが開発を辞退しかねないというジレンマがあるんです。そしたら正直かなり困ります。その関係性を読み切っているからこそ、川上社長も強引に踏み込んで来てるんでしょうけどね。
そのような関係性であれば……もし私であれば、いっそ逆転の発想で、思い切ってローミックの子会社にしてしまいますな。
ええっ!?
なっ、何!? 設立した直後にいきなり会社を投げ出すというのか!?
開発の責任を一切合切ローミックに負わせてしまうことができます。もし立ち上がりにおいて売上が思うように上がらない場合に、ローミックに開発費を負担させ、泣いてもらうことまで可能なのですぞ。お嬢様がたは支配権にこだわる考えを捨て去り、マンガAI翻訳事業を育てるなかで、いかに自分たちの利益を最大化させるかだけに注力すればいい気楽な立場となるのです。
こだわりを捨てるなら、本当に気楽になりますね。それから、ローミックだけに限らず、それこそ色んな会社から資本を集めまくってしまってもいいですし。
ある意味、私たちがベンチャーキャピタルの側になってしまうということなのかな……? 社長はこちらが出すわけだけど……。
しかし事業立上げの苦労は私たちが多く担うはずだ。せめて報われなくてはならない。
その小雪お嬢様の考えは間違いでございます。そもそも事業でする苦労は、大前提として報われないことのほうが遥かに多いと知るべきです。むしろクリック一つで簡単に報われたら驚愕でございますが。
くっ、知ったような口をきいてくれる若造が……。
ところでローミックは、サイバーゼックの下請けの一つとのことでしたな。であればサイバーゼックの資本は入っていますか?
あっ、少しは資本が入ってたはず……。サイバーゼックに支配されるような割合ではないと思いますけど……。
川上社長は独断で出資を決めちゃえる状況だと思うから、前回の持株比率の講義であったように、少なくとも66.7%以上は確保しているんじゃないかな。
サイバーゼックの資本が入っているのなら、尚のことローミックに新会社をくれてやってもいいではないですか。その程度の気楽さでよろしいかと。
玄七郎の逆の発想を聞いて、もっと肩の力を抜いて交渉してみようと思った。頑張れば頑張るほどこわだりって強くなっちゃうものだけど、時々こだわりを棚卸しするのも必要なのかなー。
やはりお嬢様がたが苦しみながら事業をするのは、中々悪くない傾向でございますな。ふむ、本日は今までの総ざらいをする意味で、あえて基礎中の基礎に立ち返った講義――最初にBSの考え方の根本に立ち返り、次に信用創造のおさらいをしながら国家のBSにも着目してみることとしましょう
今までの復習か? ならば私には不要だ。私という存在は、一度聞いたことはすべて記憶してしまう特殊能力があるらしいからな。
小雪お嬢様に何らかの特殊能力があったとは存じ上げませんでしたな。ならば小雪お嬢様はスラスラ答えられるのでしょう。経営とはなんでございますか?
経営……? 何ッ!? それはもちろん経営することだ。
驚くべき無意味なトートロジーの極地でございますな。厳密な定義を求めているわけではないので、もう少し小雪お嬢様の言葉を使って述べてみてもらえますか。正解を求めているわけではなく、お考えを聞いているのです。
経営……金儲けだ。そうに決まっている。
小春お嬢様はどのようにお考えでしょうか?
……なりたい自分を実現させていく行為……なのかなぁ?
ほう、妙に女性じみて情緒的な、面白い考え方もあるものですな。では水無月様。
事業を営むこととか、管理することじゃないでしょうか。……うーん、当たり前すぎますね。もっと違う答えを求めてますか?
皆さまのお考えを否定するつもりはございません。個々人の思いを大切にすればよろしいのではないですか。ただし、帝王学における経営とは『資本と借入を使って資産を増やし、純資産を増やしていくゲーム』でございます。

帝王学における経営

資本と借入を使って資産を増やし、純資産を増やしていくゲーム

お、おう……。当たり前だが、なるほどとも思う……。
資本のなかには、自分で出資した資本、他人が出資した資本、そして蓄積された純資産などが含まれていますな。そして自分と他人の出した資本の割合によって、持株比率――そのBSの支配者がわかります。
今ならわかるなー。たぶん最初にこれを聞いていたら、何が何だかわからなかったと思うけど。
知っていたはずなのに、初めて聞いた気がするのは何ででしょうねー。
これは帝王学の主体たりえる、法人と個人の場合における考え方です。では次に、国家について見ていくことにしましょう――。
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登場人物紹介

桜丈 小春(15)おうじょう こはる

「今日から私が桜丈ホールディングス代表取締役社長ってホントなの!?」


イラストやマンガを描くのが好きで、ほのぼの系キャラクターデザインを得意としている。大手新聞社&大手出版社が共催の日本最大のイラストコンテストでは、中学生部門で2年連続の最優秀賞に輝いた。

中学生にしてお小遣い帳をつけるほどの貧乏性。質素倹約、モノは擦り切れるまで使い、中古品を愛用する。趣味は、癒し系イラストを描くこと、古着屋巡り、貯金箱に500円玉を貯めること。

総資産4兆5000億円の桜丈ホールディングス株式会社、代表取締役社長。企業グループとしては日本国内だと50位、グローバル視点なら1000位に入る規模感だが、ホールディングス本体も傘下企業の大半も未公開企業で構成されているのが特色のため、表面上(バランスシート上)の総資産は市場価値を正しく反映していない。

桜丈 小雪(13)おうじょう こゆき

「いずれ歌舞伎町の闇王として君臨するのが、私という存在に課せられた哀しき宿命なのだ」


生まれてこの方ペーパーテストは満点以外をほとんど取ったことがなく、剣道やギターなど幅広い素養もあり周囲からは天才と思われているが、実は隠れて大変な努力をしている。まだ幼さの残る面影ながら誰もが振り向く美貌の少女。まさに才色兼備を地でいく女子に見えるものの、重度の厨二病を患っている。好きなコンテンツは『首領(ドン)への道』。いつの日か新宿区歌舞伎町に影を潜めて暮らし、自分の組を持ちたいと夢想する。

源 玄七郎(67)みなもと げんしちろう

「強いていえば、通りすがりの執事でございます」


桜丈家にやって来て12年目の、長身の自称執事。自分に常に厳しく、他人にも恐ろしく厳しい。

日本有数の格調の高さで知られる五つ星ホテルブランド――ベイグランディアホテルズの創業者にして元代表取締役社長。かつてベイグランディアホテルズは経営に行き詰まり、巨額の負債を抱えて民事再生法を申請したことで連日経済ニュースで取り上げられた。ある意味で名士であり財界有名人。ベイグランディアホテルズは、桜丈ホールディングスの傘下に組み入れられて経営再建中。

水無月 千景(28)みなずき ちかげ

「パワハラで会社訴えてやるぅ! めちゃんこ慰謝料請求してやるんですドチクショー!」


東京大学理学部卒のアラサー。経済産業省資源エネルギー庁に在職経験のある元官僚。桜丈ホールディングスの管理部門に勤めるかたわらで、会社の意向(業務範囲として)で小春と小雪の家庭教師をしている。絶賛婚活中だが程良い相手が見つからず、念のため生涯独身にも備えて最近4500万円で東京の真ん中に中古1LDK49平米を購入した。

桜丈 陸(58)おうじょう りく

「ぼくは当てもなく荒野を彷徨う金鉱堀さ。泥に塗れた地べたで過ごし、何度かグッドラックを引き当てた、それだけのことだよ」


桜丈ホールディングス元・代表取締役社長にして、現・無職ニート。明治後期から続く旧・桜丈財閥の本家筋にあたる四代目。桜丈財閥は繊維産業を中核とした中規模な産業複合体にすぎなかったが、軍需衣料品に経営を過度に依存していたためGHQに目を付けられ、太平洋戦争後の財閥解体で主要企業のすべてを切り離され、いくつかの不動産を残すだけで有名無実化していた。だが陸の代で、手持ちの不動産を担保になりふり構わぬ賭けに出て、急激な膨張を成し遂げた。その規模感は、戦前の桜丈財閥のスケールに比肩する程度にまで戻ったとされ、日本経済界の一つの奇跡と受け止められている。

さも意味深な言い回しをするものの、大して深い意味はない。自らが創り上げたグループの代表を、ある日突然に辞任してしまった。一見自分勝手な引退のように見えて、強引に幕引きしてしまったのには、実は本人の狙いもある。

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