第159話三方ヶ原の戦い
文字数 3,369文字
駿遠三を支配下に置いている徳川家に対し、進攻を開始した武田家は恐るべし戦略を取っていた――なんと駿河国を無視して家康の拠点である遠江国を攻め始めたのだ。これには徳川家家中も混乱してしまった。決戦は駿河国だと思い、兵力を集めていたからだ。
守りの薄い城や砦を両手で掬うが如く、一気に制圧してしまった武田信玄。そして四名臣や諸将たち。日に五つの城が落とされたと聞いた家康は爪を噛みつつ「おのれ、信玄入道!」と憤った。
「すぐさま浜松城に兵を集めよ! ただし駿河国の兵は動かすな!」
家康は名君である。信玄の目的が駿河国にあるかもしれないと考えていた。
もし、この連日の落城や敗北に連鎖して駿河国も狙われたら目も当てられない。
せっかく手に入れた土地を失いたくないのだ。
「殿。一つ策がございます」
浜松城に二万の軍勢が集まった段階で成政が家康に進言した。その評定の場には酒井や石川、鳥居など徳川家重臣が大勢いた。
「私に一万の兵をくだされ。さすれば今後行なわれる三河国への進軍を防いでみせます」
全兵力の半分の指揮権を要求する。これには家康も即答できなかった。
成政を信頼していないわけではない。
しかし遠江国しか攻められていない現状で三河国を守りに行くのは些か考えすぎとも思えた。
「今は浜松城で籠城策を取るべきだ! 三河国までは手が回らない!」
「武田信玄を狙うのならまだしも、守勢のために兵は割けぬ!」
酒井忠次や鳥居元忠が反論する中、成政は「三河国を獲られたらおしまいです」と冷静に応じた。
「三河国には工場があります。ここまで徳川家が発展し続けられた拠点を獲られたら危ういです。さらに言えば、三河国から挟撃に合えば籠城してももちません」
これは大きな博打だった。成政に兵を預けて三河国の守りにつかせるのは一見悪くないが、それを察知して武田信玄が浜松城を攻め立てたら、その時点で徳川家は滅亡する。一つ確実に利益になることは、成政の策に乗れば、浜松城の一万人分の兵糧を消費せずに籠城できるということだけだ。成政ならば現地調達できるだろう。
「……成政、すまぬ。まだ武田家がどのような手を取るか分からぬ状況で、一万の兵は与えられん」
「まあ殿がおっしゃるのであれば、私は引くしかありません」
成政の素直な反応に疑念を抱いたのは石川数正だけだった。
以前、成政が家康に黙って今川家の者を暗殺したときと同じ感覚だ。
しかし何か言おうとする前に「であるならば」と成政は続けた。
「黒羽組の五百騎を使うことを許していただきたい。いわば遊軍です」
家康はしばし悩んだ後「分かった。決して無謀な戦を仕掛けぬように」と厳命した上で許可を出した。
他の家臣は一万の兵よりはマシかと考えた――石川以外は。
「今後の武田家の動きに注視しつつ、一度解散とする。皆ゆっくり休んで備えてくれ」
家康の言葉に家臣たちは三々五々と己の持ち場へ行く。
成政はさっそく、黒羽組をいる兵舎に行こうとする。
「佐々殿、何を考えている?」
声をかけたのは石川数正だった。
成政は至極普通に「三河国を救う算段ですよ」としれっと答える。
「黒羽組は精強ですが、いかんせん、人数が少ない。いかがしたものかと考えております……」
「相手は大軍だぞ? 五百程度では焼け石に水だ」
石川の言っていることは至極真っ当で、たった五百の遊軍など武田信玄からしたら無視してもいいくらいの勢力だ。
しかし成政は「寡兵であってもやらねばならぬときがあります」と三河武士のようなことを言い出した。
「……佐々殿、何を考えている?」
同じ問いを発したのは、成政の底が見えなかったからだ。
まるで戦場をひっくり返してしまいそうな、全てを台無しにしてしまいそうな、深淵なる闇を感じさせる――
「……時間がない故、失礼します」
成政は答えなかった。
それがますます石川を不安にさせた――
◆◇◆◇
浜松城を無視して、三方ヶ原へ進軍しているとの情報が家康の元に入ると、彼はすぐさま出陣すべしと命令を発した。籠城していたのを放置されたという恥に対する憤りではない。むしろ守りを固めていたからこそ、狙われなかったと家康は考えていた。
ならば何故、進軍を決意したのか。
それは武田家の蹂躙を防ぐためだ。
現在でも武田家の村々への焼き討ちが報告されていた。
「遠江国の民を救うためだ! 今、野戦をしなければ信を失う!」
酒井や石川が止めても、戦国最強と謳われた武田信玄に挑むことを選んだ家康。
主君の命令が絶対である三河武士たちは従うしかなかった。
珍しく、酒井や大久保はここに佐々がいれば止められたと考えていた。
徳川家康は戦の経験豊富な武将ではないが、今川家での人質時代に太原雪斎に軍略を習っている。その戦略眼をもって、彼には勝機があった。
三方ヶ原を通過すれば祝田の坂がある。急な坂道であるがゆえに、反転がしづらく後方の攻撃には弱い。
三河国を狙っているのであれば進軍を急いでいるはずだ。何故ならば武田信玄自体、祝田の坂を急所だと考えているはず――今出陣すれば狙えるかもしれない。
というわけで家康は一万一千の兵を急がせて、三方ヶ原に向かったのだが――家康の人生でもっとも悲惨な大誤算が起こってしまった。
「た、武田が……三方ヶ原に陣を……?」
祝田の坂を下ることなく、家康を待ちかねていたのだ――そこまでが武田信玄の作戦だった。
家康が三河国を捨てられないこと、遠江国の民の信望を失えないこと、そして勝機を見出したこと――その全てを見切られたのだ。
「殿! 相手は二万近くおります! このままでは――」
「分かっておる! しかし退けぬ! 鶴翼の陣を敷け!」
数に劣る徳川家が鶴翼の陣を敷く。
この時点で家康は錯乱していたのだろう。
対する武田家は魚鱗の陣形で一気呵成に攻める――
◆◇◆◇
「味方の兵が次々と討たれております。まだ待ちますか?」
「いや、十分だ。私たちはこれより武田信玄の本陣を狙う」
黒羽組の面々の表情は一様に輝いていた。
恐れを知らない度胸知らずではない。
頭である佐々成政がよくよく言い聞かせていたからである。
「へへへ。腕が鳴りますね」
組頭の可児才蔵はにやにや笑っている。
成政は「油断するなよ」と忠告した。
彼は今、祝田の坂の頂点にいた。
戦況がじっくりと分かる――武田信玄の本陣も分かっていた。
今強襲すれば、確実に勝てる。
「行くぞ、皆の者――蹂躙を始めようではないか」
成政の馬上からの指示に全員が静かに頷いた。
気づかれないようにとの指示だが、全員が従うのは難しいことだ。
普通、戦場ならば叫びたくなる。
それを命令一つで押さえつけているのは、成政の統率力が凄まじいのだ。
成政は五百の兵で魚鱗の陣形を敷いた武田家の後方を奇襲した。
その鮮やかな強襲で武田家は混乱の極みに達した。
勝ち戦だと確信した直後である。無理はなかった。
「殿! 本陣はここですぜ!」
「ああ、分かっている!」
武田信玄の本陣まで辿り着いた成政はそのままに勢いで本陣に突っ込む。
本陣には驚愕している武田信玄がいた。兵士や小姓が数人いるが黒羽組は二十名近くいる。
「お久しぶりですな、武田信玄殿」
「貴様は……佐々成政か?」
軍配を盾にしつつ、信玄は油断なく言う。
「たった一度会っただけで覚えてくださるとは光栄です」
「貴様ごときが、このわしを討ち取るのか?」
「ええ。そうですね」
武田家の兵士と小姓が襲い掛かるが、黒羽組に撃退される。
成政は信玄だけを見据えている――
「ふははは、面白い。さあ、やるがいい」
「――覚悟、ありですね」
成政は馬から下りて、槍を構え、武田信玄と対峙し――素早い動きで槍を繰り出した。
信玄は抵抗せず、左胸を突き抜かれた――
「……言い残すことはありますか?」
槍を引き抜いた成政は信玄に近づく。
どくどくと流れる血を手でふさぐこともなく、信玄は「ないな……」と答えた。
「佐々よ。これから貴様は重圧を背負うことになる……この信玄を討った者として、知られることになる。その覚悟が、あるのか?」
「ええ、ございます」
「いつまで、背負う?」
成政は腰に差していた名刀村正『濡烏』を抜いた。
そして信玄の問いに答える。
「無論、生き続けるまで――」
守りの薄い城や砦を両手で掬うが如く、一気に制圧してしまった武田信玄。そして四名臣や諸将たち。日に五つの城が落とされたと聞いた家康は爪を噛みつつ「おのれ、信玄入道!」と憤った。
「すぐさま浜松城に兵を集めよ! ただし駿河国の兵は動かすな!」
家康は名君である。信玄の目的が駿河国にあるかもしれないと考えていた。
もし、この連日の落城や敗北に連鎖して駿河国も狙われたら目も当てられない。
せっかく手に入れた土地を失いたくないのだ。
「殿。一つ策がございます」
浜松城に二万の軍勢が集まった段階で成政が家康に進言した。その評定の場には酒井や石川、鳥居など徳川家重臣が大勢いた。
「私に一万の兵をくだされ。さすれば今後行なわれる三河国への進軍を防いでみせます」
全兵力の半分の指揮権を要求する。これには家康も即答できなかった。
成政を信頼していないわけではない。
しかし遠江国しか攻められていない現状で三河国を守りに行くのは些か考えすぎとも思えた。
「今は浜松城で籠城策を取るべきだ! 三河国までは手が回らない!」
「武田信玄を狙うのならまだしも、守勢のために兵は割けぬ!」
酒井忠次や鳥居元忠が反論する中、成政は「三河国を獲られたらおしまいです」と冷静に応じた。
「三河国には工場があります。ここまで徳川家が発展し続けられた拠点を獲られたら危ういです。さらに言えば、三河国から挟撃に合えば籠城してももちません」
これは大きな博打だった。成政に兵を預けて三河国の守りにつかせるのは一見悪くないが、それを察知して武田信玄が浜松城を攻め立てたら、その時点で徳川家は滅亡する。一つ確実に利益になることは、成政の策に乗れば、浜松城の一万人分の兵糧を消費せずに籠城できるということだけだ。成政ならば現地調達できるだろう。
「……成政、すまぬ。まだ武田家がどのような手を取るか分からぬ状況で、一万の兵は与えられん」
「まあ殿がおっしゃるのであれば、私は引くしかありません」
成政の素直な反応に疑念を抱いたのは石川数正だけだった。
以前、成政が家康に黙って今川家の者を暗殺したときと同じ感覚だ。
しかし何か言おうとする前に「であるならば」と成政は続けた。
「黒羽組の五百騎を使うことを許していただきたい。いわば遊軍です」
家康はしばし悩んだ後「分かった。決して無謀な戦を仕掛けぬように」と厳命した上で許可を出した。
他の家臣は一万の兵よりはマシかと考えた――石川以外は。
「今後の武田家の動きに注視しつつ、一度解散とする。皆ゆっくり休んで備えてくれ」
家康の言葉に家臣たちは三々五々と己の持ち場へ行く。
成政はさっそく、黒羽組をいる兵舎に行こうとする。
「佐々殿、何を考えている?」
声をかけたのは石川数正だった。
成政は至極普通に「三河国を救う算段ですよ」としれっと答える。
「黒羽組は精強ですが、いかんせん、人数が少ない。いかがしたものかと考えております……」
「相手は大軍だぞ? 五百程度では焼け石に水だ」
石川の言っていることは至極真っ当で、たった五百の遊軍など武田信玄からしたら無視してもいいくらいの勢力だ。
しかし成政は「寡兵であってもやらねばならぬときがあります」と三河武士のようなことを言い出した。
「……佐々殿、何を考えている?」
同じ問いを発したのは、成政の底が見えなかったからだ。
まるで戦場をひっくり返してしまいそうな、全てを台無しにしてしまいそうな、深淵なる闇を感じさせる――
「……時間がない故、失礼します」
成政は答えなかった。
それがますます石川を不安にさせた――
◆◇◆◇
浜松城を無視して、三方ヶ原へ進軍しているとの情報が家康の元に入ると、彼はすぐさま出陣すべしと命令を発した。籠城していたのを放置されたという恥に対する憤りではない。むしろ守りを固めていたからこそ、狙われなかったと家康は考えていた。
ならば何故、進軍を決意したのか。
それは武田家の蹂躙を防ぐためだ。
現在でも武田家の村々への焼き討ちが報告されていた。
「遠江国の民を救うためだ! 今、野戦をしなければ信を失う!」
酒井や石川が止めても、戦国最強と謳われた武田信玄に挑むことを選んだ家康。
主君の命令が絶対である三河武士たちは従うしかなかった。
珍しく、酒井や大久保はここに佐々がいれば止められたと考えていた。
徳川家康は戦の経験豊富な武将ではないが、今川家での人質時代に太原雪斎に軍略を習っている。その戦略眼をもって、彼には勝機があった。
三方ヶ原を通過すれば祝田の坂がある。急な坂道であるがゆえに、反転がしづらく後方の攻撃には弱い。
三河国を狙っているのであれば進軍を急いでいるはずだ。何故ならば武田信玄自体、祝田の坂を急所だと考えているはず――今出陣すれば狙えるかもしれない。
というわけで家康は一万一千の兵を急がせて、三方ヶ原に向かったのだが――家康の人生でもっとも悲惨な大誤算が起こってしまった。
「た、武田が……三方ヶ原に陣を……?」
祝田の坂を下ることなく、家康を待ちかねていたのだ――そこまでが武田信玄の作戦だった。
家康が三河国を捨てられないこと、遠江国の民の信望を失えないこと、そして勝機を見出したこと――その全てを見切られたのだ。
「殿! 相手は二万近くおります! このままでは――」
「分かっておる! しかし退けぬ! 鶴翼の陣を敷け!」
数に劣る徳川家が鶴翼の陣を敷く。
この時点で家康は錯乱していたのだろう。
対する武田家は魚鱗の陣形で一気呵成に攻める――
◆◇◆◇
「味方の兵が次々と討たれております。まだ待ちますか?」
「いや、十分だ。私たちはこれより武田信玄の本陣を狙う」
黒羽組の面々の表情は一様に輝いていた。
恐れを知らない度胸知らずではない。
頭である佐々成政がよくよく言い聞かせていたからである。
「へへへ。腕が鳴りますね」
組頭の可児才蔵はにやにや笑っている。
成政は「油断するなよ」と忠告した。
彼は今、祝田の坂の頂点にいた。
戦況がじっくりと分かる――武田信玄の本陣も分かっていた。
今強襲すれば、確実に勝てる。
「行くぞ、皆の者――蹂躙を始めようではないか」
成政の馬上からの指示に全員が静かに頷いた。
気づかれないようにとの指示だが、全員が従うのは難しいことだ。
普通、戦場ならば叫びたくなる。
それを命令一つで押さえつけているのは、成政の統率力が凄まじいのだ。
成政は五百の兵で魚鱗の陣形を敷いた武田家の後方を奇襲した。
その鮮やかな強襲で武田家は混乱の極みに達した。
勝ち戦だと確信した直後である。無理はなかった。
「殿! 本陣はここですぜ!」
「ああ、分かっている!」
武田信玄の本陣まで辿り着いた成政はそのままに勢いで本陣に突っ込む。
本陣には驚愕している武田信玄がいた。兵士や小姓が数人いるが黒羽組は二十名近くいる。
「お久しぶりですな、武田信玄殿」
「貴様は……佐々成政か?」
軍配を盾にしつつ、信玄は油断なく言う。
「たった一度会っただけで覚えてくださるとは光栄です」
「貴様ごときが、このわしを討ち取るのか?」
「ええ。そうですね」
武田家の兵士と小姓が襲い掛かるが、黒羽組に撃退される。
成政は信玄だけを見据えている――
「ふははは、面白い。さあ、やるがいい」
「――覚悟、ありですね」
成政は馬から下りて、槍を構え、武田信玄と対峙し――素早い動きで槍を繰り出した。
信玄は抵抗せず、左胸を突き抜かれた――
「……言い残すことはありますか?」
槍を引き抜いた成政は信玄に近づく。
どくどくと流れる血を手でふさぐこともなく、信玄は「ないな……」と答えた。
「佐々よ。これから貴様は重圧を背負うことになる……この信玄を討った者として、知られることになる。その覚悟が、あるのか?」
「ええ、ございます」
「いつまで、背負う?」
成政は腰に差していた名刀村正『濡烏』を抜いた。
そして信玄の問いに答える。
「無論、生き続けるまで――」