第121話稲葉山城の落城

文字数 3,207文字

「藤吉郎、あれが裏門だな……どうする? 攻め込むか?」
「いや。本軍が攻め始めてから行なうようにと、殿からの命令があった」

 茂みに隠れながら利家と藤吉郎は会話していた。
 傍には利家につけられた兵と藤吉郎の家臣が潜んでいる。
 稲葉山城の裏門は険しい山間にあった。余程土地に詳しくないと分からないが、場所さえ分かれば辿り着くのは容易かった。そうでなければいざというとき脱出できないだろう。

「見張りはいるようだが、数は少ない。油断しているようだな」

 右手で筒を作ってその中を覗き込むようにして城の様子を窺う利家。
 藤吉郎は「利家がいれば百人力だ」と笑った。

「簡単に突破できるだろう」
「おいおい殿。俺たちもいるんだぜ?」

 文句を言う蜂須賀小六だったが、本気で言っているわけではない。その証拠に表情は明るい。どことなく楽しげでもある。確実に成功する奇襲をかけられるのだから当然の態度だった。

「分かっている。頼りにしているぞ、小六」
「お。騒がしくなったな」

 利家の耳に喧騒の音が聞こえた。
 鬨の声、兵が上げる叫び。つまり――城を攻める音だ。

「よし、行こう。各々配置に着け」

 藤吉郎の命令で静かに裏門へ近づく。
 皆が互いに頷いて――裏門の塀に梯子をかける。
 五、六人が一気に登って城内に潜入する。
 人が殺し合う音がして、それが止んでからしばらくして、閂が外されて裏門が開いた。

「よし――城内の者に裏切り者が出たと触れ回れ!」

 裏門から攻め入っても少人数なので制圧は難しい。
 ならば城内を混乱させることで本軍が攻めやすくさせようと藤吉郎は考えた。

「火を放て! 騒ぎを大きくしろ!」

 利家の命令で火矢が放たれた。
 火災は強烈な異常事態である。
 目に見える現実は裏切り者がいるという虚報を真実にさせる。
 結果として恐慌状態に陥った斉藤家の兵は同士討ちを始めた。

「さてと。斉藤龍興を探すか」
「ああ。討ち取れば一番手柄だな」

 利家と藤吉郎は兵を引き連れて龍興がいるであろう城の最上階を目指す。
 混乱で二人に襲い掛かる兵は小六たちに排除された。
 階段を上った先の部屋。利家は成政と共に斉藤道三に会ったことを思い出した。確か、この先がそうだった。
 兵が襖を開けると――そこには白装束を着た若者がいた。

 知性的と言えば聞こえはいいが、どことなく策略家のような印象がある。細身であまり身体を鍛えていないと思われる。青白い顔色。以前会った道三の面影がある気がする。

「……斉藤龍興殿だな?」
「ああ、そうだ」

 市井の噂では暗君のはずだが、線の細い知性的な青年にしか見えない。
 かつて信長は龍興を高く評価していたと利家は思い出した。

「その姿……覚悟の上とお見受けいたす」
「そうでなければこんな格好はしない」

 藤吉郎との問答にも些かの躊躇が無い。
 死ぬ準備をとっくに済ませているらしい。

「さあどうする? わしを斬るのは誰だ? お前か? それとも――背丈の大きいお前か?」

 沈着冷静な態度に利家は思わず「本物の斉藤龍興なのか?」と言ってしまった。

「肝が据わっている。とても……」
「暗君に見えない、か。その評価は嬉しいが、的外れと言えよう。わしは……暗君だよ」

 龍興は口の端を歪めた。笑ったのだと気づいたのは藤吉郎だけだった。そして自嘲していると分かったのも彼だけだった。

「家臣の離反。織田家の進攻を防げなかった。そして今、落城し討たれる運命にある。情けない話だ」
「……ならば何故」

 藤吉郎は降伏しなかったのかと聞こうとしたが、龍興が惨めに思えたのでそれ以上言えなかった。利家もそうだった。
 龍興は「わしにも矜持がある」ときっぱり言った。

「祖父や父上が治めたこの美濃国をあっさり譲ることはできなかった。くだらない意地だ。つまらない気位だ。ただそれだけの理由だ」

 龍興は背筋を伸ばして「辞世の句は詠んだ」と言う。
 切腹のための小刀も横に置いてある。

「介錯を頼みたい。よろしいか?」
「……殿に命乞いなさらぬと?」
「見苦しい真似などできん」

 利家が一歩前に出る。
 刀を納めたまま――藤吉郎に告げる。

「なあ、藤吉郎。手柄を諦めてくれねえか?」
「まさか……利家、正気か? また浪人になるかもしれないぞ?」

 藤吉郎は気づいたが、小六たちは何が何だか分からない。
 横取りするつもりなのかと思うが、そういう風には見えない。
 利家は龍興に近づいて――腕を取って立たせた。

「……お前、何を?」

 戸惑う龍興の両肩に、利家は両手を添えた。
 二人は見つめ合う――

「――生きろ」

 利家の言葉の意味が分からず、理解が遅れて追いついた。

「わしに、逃げろと言っているのか?」
「ああ。裏門には兵がいない。それまでに雑兵に討たれなければ生きて城を出られる」
「……先ほど、あの者も言ったが、正気なのか?」

 利家は「血迷っているかもな」と笑った。

「考えてみれば、あんたも不幸だよな。祖父や父親が争わず、一致団結して治めていたら、家臣の離反なんて起こらなかった。いや、義龍公が長生きしていればこうはならなかったかもしれない」
「今更、仮定の話をしても仕方あるまい……」
「そうだな。だから今、あんたは負けている。だけど――死んではいない」

 利家は「殿にはあんたが逃げたという」と龍興と周囲の者に言った。

「別の大名家に仕えて織田家と戦おうが、復讐を忘れてどこか遠くの国で生きるのも自由だ」
「お前は……わしが織田家の敵になってもいいと言っているんだぞ?」
「それ以外の意味があるんなら教えてほしいけどな」
「だが、お前はどうなる? 何らかの処分を受けるかもしれない」
「俺のことは良いんだ。自分の心配をしろよ」
「訳が分からない……なんで助けようとするんだ?」

 利家は頬を掻きながら「口に出すことじゃあねえけどよ」と照れていた。

「あんたが落城の責を祖父や父親、家臣のせいにしたら、迷いなく斬れた。でもあんたは自分だけの責任として収めようとしていた。そいつは凄い覚悟だ。立派な態度だ。君主としてあるべき姿だ。そんな男を俺は斬れない。斬っちまったら後悔するし、斬られるのを止められなくても後悔する」

 龍興だけではなく、藤吉郎と小六たちも黙って聞いていた。

「それに言っておくが、あんたが織田家と敵対しても――全くもって平気だ」
「……どういう意味だ?」

 利家は自慢げに、真っすぐに答えた。

「決まっているだろ? この俺がいるからだ!」

 根拠でも確信でもなく、ただの根性と自信だった。
 何の証にもならない。
 それでも、不思議と納得できてしまう。

「ふっ。敵の大将を逃がした罪で切腹してしまうかもしれないのにか?」

 おかしくてたまらなかった。
 目の前にいるのは馬鹿だと思った。
 しかし、本物の男だと思った。

「まあそうなったら、藤吉郎に頼むわ」
「そこでそれがしに頼らないでくれ」

 龍興は喉を鳴らすように笑って、それから晴れ晴れとした表情で言う。

「感謝する。しかし今度会うときは敵になるだろう」
「ああ、そうだろうな。だけど次はねえぜ?」
「一度だけで十分だ。それでは――さらばだ」

 龍興は堂々と、白装束のまま、部屋を出た。
 美濃国を治めた大名に相応しい、立派な去り方だった。

 小六たちは手を出さなかった。見逃してしまえば利家だけではなく、藤吉郎も何らかの処分を受けてしまうかもしれないと分かっていた。だが今の会話を聞いてしまったら、出す気は失せてしまった。

「あーあ。こりゃあ切腹かな」
「今更言うなよ……それがしも同罪だ」
「お前は気絶して、知らなかったことにする」
「ふざけるな。利家、それがしはお前の友だぞ?」

 藤吉郎は仕方ないなという風な笑みを見せた。

「それに、策に誘ったのはそれがしだ。責任は一緒に取る。水臭いことを言うな」
「……いつの間にか立派になったじゃあねえか」

 利家の感心した声に、藤吉郎は胸を張って答えた。

「利家に鍛えられたからな」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み