第16話できること

文字数 3,268文字

 三河国の大名、松平広忠の死。その衝撃は隣国の尾張国だけではなく、駿河国の今川家も動揺させた。自分の息子である竹千代を見捨ててまで今川家に味方した男を失ったのは相当の痛手だろう。

 しかし大大名の今川義元は逆に好機と考えた。三河国を従属ではなく併呑し、自身の領土にすることとした。すぐさま軍師である太原雪斎を派遣し、その見極めをさせた。

 そのような緊迫した状況の中、犬千代は何をしているかと言うと――

「――甘い!」
「ぐは!?」

 那古野城の訓練場で、森可成に師事し、槍術の鍛錬に励んでいた。
 無論、長槍部隊ができた今、個人の武はさほど重要視されないが、犬千代は強くなりたい一心で鍛え続けている。

「牽制を少し入れたほうがいいですね。いつも真っ直ぐでは動きが読まれます」
「なるほど……」

 信長の直臣になった可成は、当然仕事が山ほどある。その合間に犬千代を鍛えているのは、単純に犬千代のことを気に入ったからだ。一本気で男気のある、気持ちの良い性格をしている犬千代は得てして好かれやすい。

「可成の兄いはすげえなあ」
「犬千代も上達していますよ。十本やれば三本取れるまで成長しましたし」

 犬千代も可成に懐いていた。実の兄弟よりも慕っていたし、親しんでいた。単に槍術が達者であることだけではなく、可成もまた人を惹きつける何かを持っていた。

「少し休憩しましょう」

 訓練場の端の日陰に移動した彼らは、竹筒から水を飲んで一息つかせた。犬千代は「そういえば、兄いは嫁さん貰ったらしいな」と何気なく訊ねた。可成はにこりと頷いた。

「ああ。帰蝶様の侍女、えい殿を嫁に貰いました。元々、彼女の父の林通安殿は知っていましたし、殿の仲介もありましたので」
「へえ。若が仲介か」
「犬千代は婚姻相手はいるんですか?」

 手拭で汗を拭きながら可成が問うと、水を飲んでいた犬千代は吹き出してしまった。驚いて気管に入ってしまったようだ。

「な、何言ってるんだよ! まだ元服もしてねえのに! それに俺は四男だしよ……」
「別に今すぐって話じゃないですよ。そういう話はないかと聞いただけです」

 犬千代は腕組みをして「まあ嫁に来てくれるなら誰でもいいけどよ」と顔を背けた。少し照れているようだった。

「まあ優しくて気立てが良かったら言うことねえよ。それに俺みたいないい加減な奴に嫁いでくれるなら、それだけで十分だ。贅沢は言わねえ」
「意外と謙虚ですね。いつものかぶき姿はどこに行ったんですか?」

 くすくす笑う可成に対して「うるせえ」と小声で言うしかない犬千代。二人の関係はこのように微笑ましいものだった。

「それよりも、お屋形様の噂、知っていますか?」

 少しの沈黙の後、可成は犬千代に問う。犬千代は「ああ、体調が悪いって話だろ」と真面目な顔で応じた。

「病に冒されているようですね。一部ではあまり長くないと」
「だからお屋形様の政務の一部を若が担っているんだな」

 信長は正室の長子である。普通に考えれば彼が家督を継ぐことは間違いない。であるならば父に代わって政務を執り行うのは道理であった。

「お屋形様が隠居するとは考えられませんが、もしもの場合があります」
「その場合、若が大名になる……そうなるとどうなるんだ?」

 可成は神妙な顔で「一気に周りから攻められるかもしれません」と答えた。犬千代はごくりと唾を飲み込む。

「当面の敵は上役の織田大和守家になりそうですね。地理的に考えても」
「それだけじゃねえ。東の今川も尾張国を虎視眈々と狙ってやがる」

 思ったよりも深刻であると犬千代は気づいた。一回でも負ければ滅んでしまうような、危うい綱渡りをしている状況。

「なあ兄い。俺はどうしたらいいんだ?」

 犬千代は姿勢を正して可成に訊ねた。

「俺は、若を尾張国の大名にしてやりてえ。そのために何をしたらいいんだ? 強くなるだけじゃ、若を守れねえし、若の敵を倒せねえ」
「……俺もそれを悩んでいました」

 可成はおもむろに立ち上がって、訓練用の槍を肩に担いだ。まるでやじろべえのように槍を水平にして両腕を絡ませる。

「俺たちは微力かもしれません。ちっぽけな存在かもしれません」
「…………」
「でも、集まればそれなりの力になるし、大きな存在にもなれる」

 可成は座り込んでいる犬千代と目を合わせて、それから笑った。

「できることをしっかりとやる。それしかないと思います」
「……兄い」
「何ができるのかは、自分で見つけるしかないですよ」

 それは犬千代が求めていた答えではないけど、目的を見出すきっかけになる一言だった。
 犬千代も槍を持って立ち上がった。

「俺は若のために戦うことしかできねえ。頭悪いし、新しいことも思いつかねえ」

 それでも犬千代はにかっと笑った。それはやるべきことを見つけて、迷いをなくした男の顔だった。

「だったら、若のために戦い続けるしかねえ。そんで若を尾張国の大名にしてやるぜ」

 可成は犬千代を羨ましく思った。短絡的ではなく、単純に物事を考えられるのは、一種の才能である。雑念を捨てることは武術においては重要だからだ。

「俺も戦い続けますよ。たとえ最後の一兵となっても――戦います」

 可成はそう言って、犬千代に「鍛錬を続けますよ」と促した。

「今日は今までよりも厳しくいきます」

 対して犬千代は犬歯をむき出しにして笑った。

「そいつは――楽しみだな」


◆◇◆◇


「今川家が、兄上の安祥(あんじょう)城を攻めるようだ。そのことがどういう意味か、分かるか? 竹千代」

 信長は那古野城の一室にて、竹千代と二人きりで話していた。
 竹千代はその問いに即答した。

「おそらく、庶長子の信広様を捕らえて、私と交換に持ち込むためだろう」

 信長は頷いた。彼もまったくの同意見だったからだ。竹千代は子供らしからぬ溜息を吐いた。

「私は信広様と会ったことがないが、どのような人物か?」
「とるに足らん凡将だ。だから兄上は確実に捕らえられるだろう。せめて自刃してくれれば助かるが」

 身内に苛烈な評価を下し、非情な決断を下す信長に恐ろしいものを感じながら、竹千代は「では、私は今川家に行くことになるな」と呟いた。

「三河国の民や武将は、素直に従わないと見ての策略か。流石は今川義元と太原雪斎だ。それで――信秀殿は私をいかがするつもりか?」
「安心しろ。交換に応じるだろうよ。親父は――身内に甘すぎる」

 信長は困った顔で僅かに口の端を歪めた。親の失態を見られた子供の表情だった。

「……信長殿は、私が今川家に行くことをどう思う?」

 竹千代は目の前の男はいざとなったら自分を斬るだろうと思っていた。己に不利益になるのであれば殺すのが戦国の習いである。

「口惜しいが見送るしかあるまい。もしもお前を殺せば三河国が敵に回るしな」
「…………」
「それにだ。俺はお前を殺したくない」

 信長の意外な言葉に竹千代は虚を突かれた。だから思わず「どうして?」と子供らしく訊ねてしまった。

「同情ならば無用だ」
「違う。お前は殺すのに惜しい。それに生きていたほうが面白そうだ」

 目の前の男が言っている意味がまるで分からない竹千代。面白い面白くないで判断するなんて、思ってもみなかった。そう考えると信広に対して冷淡なのは、率直に生かしても面白くないと思ったからだろうか?

「そういえば、内蔵助を家臣に欲しがっていたな」
「ああ。それはまことだ」

 いきなり話が変わったが、対応はできた竹千代。
 信長は「条件も聞いた。もしそれを満たせたら、内蔵助をやろう」と言う。

「よろしいのか? 内蔵助は大事な家臣では――」
「ああ。大事な家臣だ。だから大切にしろよ」

 信長が豪快に笑う。
 竹千代は改めて、彼の器の大きさに慄いていた――
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