第73話不器用な愛情

文字数 3,283文字

 利家が追放されて翌年。
 尾張国の周辺が騒がしくなってきていた。
 今川家が尾張国に侵攻するとの情報が舞い込んできたからだ。

 何でも今川家当主である今川義元自らが攻めてくるらしい。
 関所を排除し、他国の情報が入ってくる織田家だから掴めたことである。
 知らせを聞いた織田家は騒然としている。

 織田家の兵力は五千ほどで、今川家は二万五千の大軍勢を擁している。
 単純に考えて、五倍の兵力だ――野戦では勝ち目など無い。
 また兵力差を知った兵の中には脱走する者も続出した――

「不忠者が多いな……武士だったら主君のために一所懸命働け!」
「そうだな。たとえ負けるとしても、逃げ出すなど言語道断だ!」

 馬廻り衆の小平太や新介は力強く語っているが、その内容は自分たちが負けるだろうと予想されたものだった。
 誰もが負けると思っていた――信長と成政以外は。

「成政。そちらが武田家の忍びか」
「ええ。柳――そういう名らしいです」

 清洲城の一室にて、成政が信長に紹介した男は、農民風の格好をしていた。
 貧しい百姓という風貌で、頭に手拭いを被り、ほつれた着物を着ている。どこからどう見ても農民だ。しかしそう思わせることが柳の目的だとするならば、見事と言う他無い。

「へへへ。以後よろしくお願いします」

 下卑た笑い声でへりくだる柳。忍びは腕に自信のある者が多く、ある程度矜持を持っているものだが、柳には傲慢な感じは一切無かった。それこそが彼の処世術なのかもしれない。
 信長は「義元を誘導し、寡兵にさせる必要がある」と眉間に皺を寄せた。

「そのためにはある程度の犠牲が必要だと思われます」
「……砦や将を見殺しにせよ。そう言いたいのか?」
「ええ。薄汚い手段ですけど」

 信長は「是非もなし」と呟いた。
 柳は「当日のことになりますが」と話を進めた。

「義元の本隊を一ヶ所に留めておくには、何らかの策が必要です」
「分かっている。何の名目もなしに、本隊だけを残すのは難しい」
「……地元の村に、酒や食べ物を義元に届けさせるのはいかがですか?」

 成政の提案に信長は「戦勝祝いには早すぎるな」と笑った。
 彼には義元がそのような手に引っかかるとは思えなかった。

「もちろん、これは一つの手です。他にも考えます」
「やって損はないな。よし、手配しておけ」

 そして信長は「お前は便宜上、織田家家臣として扱う」と言う。

「武田家とのつながりが明るみに出ないほうが、お前も助かるだろう?」
「へえ。ご配慮ありがとうございます」
「既に梁田広正という男に話をつけている。お前はそやつとして行動しろ。いいな?」

 実際の人物に成り代われば、身元が判明することは少ない。
 当人と打ち合わせ済みならまずないだろう。

「かしこまりました。では私はこれで。失礼します」

 柳が去った後、成政は「あの忍び、信用できますか?」と信長に問う。

「もし裏切ったとしたら――」
「なんだ。お前が信玄公と交渉したのだろう?」
「ええまあ。もし裏切られたと考えると恐ろしくて」
「安心しろ。柳は……武田家は裏切らない」

 自信たっぷりに答える信長に「どうしてですか?」と成政は訊ねてしまった。
 信長だって猜疑心が無いわけではないはずなのに。

「人は他人を裏切るとき、その他の人間のことは滅多に裏切らないものだ」
「…………」
「今川家が弱体したほうが、武田家にとって都合もいい。それもあるがな」

 成政は信長の大きさを改めて実感した。
 凡人は裏切りの意味は分かっていても、本質は掴めないものである。
 それを若くして既に把握していた。

 やはり器が違いすぎると成政は心の中で思った。
 天下に覇を唱えようとする君主の片鱗が見えていた。
 だからこそ、この戦――勝てると成政は確信した。


◆◇◆◇


「道三様、お身体の調子はいかがですか?」
「……道三? はて、誰だったかな?」

 清洲城に保護されている斉藤道三の体調はここ数日悪化していた。
 食事が喉を通らない。医者が煎じた薬も効かない。
 誰の目から見ても、永くないことは明らかだった。

「あなたのことですよ。身体はいかがですか?」
「……よう分からん。苦しいことは分かるが」
「そうですか……」

 頬がこけて顔色も真っ青、眼球がぎょろりと飛び出ている。
 頭も回らない道三に成政は懇切丁寧に今の状況を告げた。

「ふうん。よう分からんが、出て戦うしかないな」
「そうですよね……戦うしか道はありませんね」
「天候にも左右されるな。雨が降れば好機が訪れる」

 痴呆になってもそれだけの分析ができるのは凄いというより凄まじいが、胡乱な精神と病弱の肉体では何もできない。
 成政が匙で粥を与えていると、障子が開いた――道三の娘、帰蝶であった。

「帰蝶様。これは――」
「そのままで結構です。父上の食事を続けなさい」

 成政は帰蝶の険しい顔に圧されてしまう。
 信長との関係は悪くない――いや、内心どう思っているか分からない。
 彼女は子を成せなかった。心無い者は役立たずと罵っているようだ。

 彼女の代わりに側室を多く持つようになった信長。早々に長庶子の奇妙丸を跡継ぎに指名したのも期待していない表れなのだろう。

 成政は男女の機微に疎く、どうして二人は離縁しないのか気になっていた。確かに美濃国を攻略する名分として、帰蝶の夫であることは有効だ。道三の国譲り状も効力を発揮できるのもそのおかげである。しかしそれでも――

「父上はもう、永くないのですね」

 疑問形ではなく、確信した物言いに成政は誤魔化すことなく「そのとおりです」と答えた。
 帰蝶はくすりと笑って「これでようやく、父上は楽になれるのですね」と言う。

「人の物を奪って盗む人生に、ようやく終止符が打たれるのですね」
「……帰蝶様は、道三様のことをどう思っていますか?」

 歴史好きとして聞きたいことの一つであった。
 信長の正室ということで近づくのはできなかったので、この機会を逃したら、もう二度と訊けないだろうと成政は予感していた。

「評判のよろしくない父ですから。それは苦労しましたよ。前の夫にも警戒されましたし」
「……そう、ですか」
「でも私に対しては、とても優しかったですね」
「えっ? そうなんですか?」

 意外な言葉に、成政はあからさまに驚いた。
 しかし失礼だと気づいた彼は「申し訳ございません」とすぐに謝った。

「いいのですよ。父は……私が欲しいものを惜しみなくくれました。まるでそれが贖罪と言わんばかりに」
「……贖罪、ではありませんよ」

 成政は無礼だと思いつつ、帰蝶の言葉を否定した。
 もし勘違いしたまま、道三を看取ったら、帰蝶が後悔すると思ったからだ。

「贖罪ではないと? ではなんでしょうか?」
「道三様なりの愛情ですよ」

 成政は道三と接しているうちに、彼の愛情表現の拙さを知った。
 器用に戦国乱世を渡ってきた道三の、不器用な家族への愛情に気づいていた。

「人が欲しいものをあげる。それが国盗りまで果たした道三様の、たった一つの愛情表現だったのです」
「…………」
「盗癖のある道三様の始まりは、ただ欲しかっただけだったからです。物欲が愛情に直結すると勘違いしていたのです」

 なんとも悲しい話だ。
 もしも道三の家族愛が不器用でなければ。
 斉藤義龍との確執を産むことは無かっただろう。

 成政の話を聞いた帰蝶の目から涙が零れた。
 雫がゆっくりと着物の上に落ちる。

「ふふふ、今となっては、確かめようもないですね」
「帰蝶様……」

 このとき、出来過ぎた話のようなことが起きた。
 もしも奇跡というものがあるのなら、それ以外に表せない――

 道三が帰蝶の頬に手を添えた。

「泣くな、帰蝶」
「ち、父上……?」
「大事に思っているから、泣くんじゃない」

 道三は不安定な精神でありながら、自分の娘に対して、しっかりとした言葉で告げた。

「お前のことは、いつだって愛している」

 それが斉藤道三の愛情が篭もった最後の言葉だった。
 帰蝶は声も無く涙を流した。
 成政は目の前の奇跡が信じられなかった。

 道三は無言のまま、帰蝶の目から涙を拭った。
 その表情は娘に向けるに相応しい笑顔だった。
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