第70話笄斬り

文字数 3,413文字

 戦場にいるときと同じ形相で清洲城の廊下を走る利家。
 すれ違う侍女や小姓がぎょっとするほど、迫力のある凄まじい表情だった。
 途中の部屋で数人の笑い声の中に、いけ好かない声が混じっているのが分かった利家は、遠慮なく障子を乱雑に開けた。

「――拾阿弥ぃ! てめえ!」
「おやおや。粗忽者がやってきましたね」

 激怒している利家を目の前にしても、余裕を崩さずに手の中で笄を弄ぶ拾阿弥。
 それがますます利家の怒りを助長する――

「その笄を返せ……そいつは俺のもんだ」
「あー、そうでしたか。そいつは失敬しました……ふふふ」

 笑うというより嘲笑っている拾阿弥と彼の同僚である茶坊主だち。
 こいつら、何を笑っているんだと訝しげる利家。
 その理由が次の言葉で判明する。

「こんな小汚い笄を後生大事にしているなんて。槍の又左も程度が知れますね。ほほほ」
「なんだと……! もう一遍、言ってみろ!」

 利家が部屋に入る――制するように拾阿弥は言う。

「何度だって言いますよ。小汚い笄を大事にするほど、前田家はひもじいと。情けないことだ、きっと戦場での武功もまやかしなのでしょう」
「こ、この野郎……!」

 真っ赤を通り越して蒼白になっている利家。
 今にも殴りかかりそうになるが、拾阿弥の手の内に笄があることで、どうしても手を出せない。何かの拍子で折れたり壊れたりしたら、それこそどうにもならない。

「どうしたんですか? 殴ってこないんですか?」

 挑発しながら笄をくるりくるりと回す茶坊主に、尾張国中に名を轟かす猛将は何もできない。
 それを重々承知している拾阿弥は「返してほしければ頭を下げなさい」と要求した。

「ぬ、盗んでおいて、頭ぁ下げろだと?」
「これが本当にあなたの物か、分からないじゃないですか。証拠なんてどこにもない」
「き、貴様……!」
「言いがかりは止してくださいよ。ああ、別に頭を下げなくてもいいです。しかし――その場合、笄がどうなるか分かりませんけどねえ」

 十二分に利家にとってその笄がどれだけ大切か分かっている拾阿弥。
 茶坊主たちもにやにやしながら見ている。彼らは槍の又左の無様な姿が見たいのだ。
 それは利家が信長のお気に入りの武将であることも起因している。

「さあ。どうしますか? 下げるんですか、下げないんですか?」
「…………」

 利家は刀の柄に手をかけた――そのとき、様子を見に来ていた藤吉郎と小平太、新介の姿が後ろに見えた。彼らは一様に首を横に振った。
 もしここで信長のお気に入りである茶坊主の拾阿弥を斬れば、おそらく利家は死罪となるだろう。いくら信長でも利家を絶対に許しはしない。

 三人は利家に耐えるように仕草をした。短気な利家がそれに従うかどうかは分からないが、それに賭けるしかなかった。
 一方、利家自身もここで斬れば重罪になることが分かっていた。しかし武士として、一人の男として、ここまでの侮辱を受け入れることができなかった。

「下げないなら、私たちはこれにて。殿の傍にいないといけませんから」

 高笑いしながらその場を去ろうとする拾阿弥。
 その背中を見て、利家は考える――今なら誰にも邪魔されず、笄も無事に斬れる。
 高鳴る鼓動、荒くなる呼吸。

 だがそのとき、彼の脳裏に浮かんだのは。
 たおやかに微笑むまつの顔だった――

「待て――待ってくれ!」
「おや。いかがなさいましたか?」

 余裕を持って利家の言葉で止まる拾阿弥。
 利家は刀を腰から抜いて脇に置き、手を畳の上に添えた。

「頼む。笄を――返してくれ」

 それからゆっくりと頭を下げる。
 誰の目から見ても、明らかな土下座だった。

「ぷくくく。なんとも無様ですねえ!」

 拾阿弥の嘲笑を皮切りに、茶坊主たちも追従の笑みを浮かべ、大声で利家を罵った。

「笄一つにここまで人は惨めになれるんですねえ」
「哀れな男だ――いや、それ以下だな」

 利家の手が震えている。今にも殴りかかってもおかしくない。
 だがそれでも――利家は耐えた。耐え忍んだ。

「返してあげますよ――どうぞ」

 笄を利家の前にそっと置く、嘲笑を崩さない拾阿弥。
 それから最後に言い放った。

「これからは――偉そうな顔をしないでくださいね。戦しかできない屑なんだから」

 利家の全身が震える――だがそれでも耐えた。
 拾阿弥は利家を馬鹿にしながら茶坊主たちと共に去っていく。
 残されたのは利家だけ。そして一部始終を見守っていた藤吉郎たちは声をかけることすらできなかった。

 利家が動いたのはしばらく経ってからだった。
 笄を大切そうに懐に仕舞い、ゆっくりと立ち上がった。
 藤吉郎たちが見たのは、怒りでも悔しさもでもない、空虚な無表情だった。

「ま、前田様……」

 藤吉郎は呼びかけたものの、何を言えばいいのか分からない。
 小平太も新介も、彼の心中を慮って無言のままだった。

「……少し、出かけてくる」

 小さな声を絞り出して、利家は三人を見ずに、部屋を出て廊下を歩く。
 藤吉郎が呼び止めようとするのを、小平太が止める。

「藤吉郎、止せ。下手な同情や慰めは余計に傷つけるだけだ」
「……分かりました」

 藤吉郎は遠ざかる利家の背中をじっと見つめた。
 どこか物寂しげで、それは彼の故郷の農村で、ぽつんと置かれたかかしを思い出すようだった。


◆◇◆◇


 それからというもの、利家は様々な場面で拾阿弥に笄のことを引き合いに出された。
 小汚い笄のために、武士の矜持を捨てた臆病者と罵られたのだ。

「ふふふ。あんな笄が大切なんて。どうかしていますよねえ」
「…………」

 利家は一切返さず、ただ耐えていた。
 それがますます、拾阿弥の加虐心をくすぐった。
 抵抗できない者の痛いところを突く――それが何より楽しいようだった。

 馬廻り衆たち――小平太や新介は、信長に言おうか悩んだが、言うにしても事情を話さなければならない。耐え忍んで頭を下げたのに、その恥を主君にはとても言えない。それに一応は収まっていることを蒸し返すことは避けたかった。

 藤吉郎は柴田や可成に仔細を報告した。得意の弁舌でそのときの情景をこと細かく説明すると、柴田は怒り、可成も不快感を示した。

「分かった。わしがなんとかしよう。まずは利家に事情を聞くことにする」

 そう請け負った柴田だったが、次の日になると「駄目だ。埒があかん」と匙を投げた。
 藤吉郎が「どうしてですか!?」と詰問すると柴田は悲しそうな顔をした。

「あいつ、何一つ話さんのだ。むしろ『そんな事実はありません』と答えるだけだった」
「な、なんで……」

 何がなんだか分からない藤吉郎に、横で聞いていた可成は「おそらく、騒ぎにしたくないのでしょう」と呟いた。

「ま、そうだろうな。恥をかかされたことを公にしたくない気持ちは分かる」

 柴田の溜息混じりの考察に藤吉郎は悩んだ。
 今まで世話になっている恩人を助けたいと思った。
 その後、藤吉郎はどうにかしようと考えた――しかしそれが無駄になる出来事が起きた。

 評定の間で、信長が大勢の家臣と話していた。この日は各々の主命をまとめて報告する日であった。
 信長は茶を飲みながら報告を受けている。その場には利家と拾阿弥が同席していた。

 拾阿弥は信長に聞こえないような声量で利家を馬鹿にしていた。
 席の近い小平太と新介は、利家の代わりに怒りの表情を見せていた。
 だが利家はじっと目を閉じて耐えていた。

「まるで地蔵ですね。そんなことなら出家でもすればいいじゃないですか。腰抜けにはちょうどいいですよ」

 尽きることのない罵倒に利家の心の中に、沸々と怒りが湧いた。
 でも爆発するほどではないと彼は自分に言い聞かせていた。
 そんな中、触れてはいけないことを、拾阿弥は言う。

「腰抜けと言えば、稲生の戦いで死んだあなたの兄もそうでしたね」
「――っ!?」
「前田利玄……でしたっけ? 大した武勇もなく、あっけなく死にましたね」

 利家の視界が真っ赤になる。
 己が怒りに支配されるのが分かった。

「兄弟揃って腰抜けとは……まあ、あなたの妻も大差ないですよね。そう考えるとお似合いか」
「……どういう意味だ?」

 拾阿弥は逆鱗に触れたことに気づかず、とどめとなる言葉を言い放つ。

「腰抜けの一族に嫁ぐのに相応しいと言っているのです。何せ、あんな小汚い笄を夫に渡す――」

 利家の中で何かが決定的に切れた。
 誰も止める間もなく、己を律する間もなく。
 利家は刀を抜き、拾阿弥に斬りかかった――
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