第57話算盤と調略

文字数 3,144文字

 稲生の戦いから二年が過ぎた。
 信長はあまり戦をせず、内政に力を入れていた。失った国力を取り戻すため、清洲の町や熱田の町などの重要な土地の商業政策を重視した。

 結果として尾張国の下四郡は豊かな土地になった。元々津島という重要港を手中にしているので、商業を動かす銭は持っていたのだ。

 利家と成政は信長の指示で様々な仕事をしていた。
 治安維持や兵の訓練などが主な仕事で、いかにも武将という勤めに励んでいた。

 そんな折、とある珍しいものが織田家にもたらされた。
 それは南蛮渡来の物ではなく、唐から輸入されたものだった。

「あん? なんだみんな。何集まっているんだよ?」

 馬廻り衆の面々が一つの部屋に群がっているのを見つけた利家は、なんだなんだと興味を示して中に入る。
 すると服部小平太が利家に笑いかけた。

「ああ。算盤という珍しいものを、商家の伊藤屋の主人が献上してきたんだよ」
「算盤? ああ、あれか」

 利家が頷いたのを見た小平太は「なんだ知っているのか」と怪訝な顔をする。

「あー。どっかで聞いたんだよ」
「そうか。それで、みんな興味津々で見ているんだ」
「殿への献上品だろ? いいのか?」
「飽きたから見ていいって許可が出た」

 殿らしいなと思いつつ、利家は「俺にも見せてくれよ」と輪の中に入る。
 馬廻り衆たちが空けると、算盤が机の上に置かれていた。
 縦に六個の球があり、それぞれ一個と五個で仕切られて、それが横にずらりと並んでいる。全て木でできていて、細やかな細工が施されていると感じられる。

「ふうん。確か、計算機だったよな?」
「ああ。説明が書かれている紙が横においてあるだろ? でもそれ見ても分からないんだよ」

 小平太が肩を竦めると周りも同意して頷く。
 利家は説明書を一読すると「ああ、分かった」と頷いた。

「分かったって……利家、理解できたのか?」
「ああ。こうやるんだ」

 利家は慣れた手つきで仕切りの上の球を弾く。
 そして「帳簿持って来いよ」と言う。

「これであっているか確かめてやるから」

 皆が半信半疑のまま、台所役の木下藤吉郎が連れて来られた。
 藤吉郎は何が何だか分からないまま、利家に帳簿を差し出す。

「前田様、一体何をなさるのですか?」
「お前の仕事を手伝ってやるよ」

 利家は帳簿を見た後――素早い手つきで算盤を弾き出した。
 一見、でたらめに動かしているように思える一同だったが、利家だけは理解しているようだった。

「……うん? ここ間違っているぞ」
「へっ!? 左様ですか?」
「ああ。二百六十にならないといけないのに、十四足らない……ああ、ここの数字足してないじゃないか」

 藤吉郎が時間をかけて確認すると「……そ、そのとおりです!」と驚いた。

「前田様、ありがとうございます!」
「いや、良いんだ」

 利家が笑うが、周りの馬廻り衆たちはどよめいている。

「と、利家? どうして算盤の使い方が分かるんだ?」
「あん? えーと、これ読んだら何となく分かった」
「……そんな賢かったか?」

 小平太の物言いに「馬鹿にすんなよ!」と笑いながら返す利家。

 彼が算盤を使えたのは、もちろん説明書を読んだからではない。
 前世で彼の両親が健在だった頃、習い事に通っていて、その中の一つに算盤教室があったというだけなのだ。

「ほう。算盤が使えるのか、利家」

 いつの間にか、部屋の外にいた信長。
 利家と馬廻り衆、藤吉郎が頭を下げる中、彼は「お前にくれてやる」と笑った。

「良いんですか? 伊藤屋の献上品でしょう?」
「俺が使うより、お前が使ったほうが役立つしな」

 利家は平伏して「ありがとうございます」と礼を述べた。
 それから信長は「ちょっと利家、話がある」と続けた。

「評定の間に来い。一つ確認したいことがある」
「承知しました」
「他の者は仕事に戻るように」

 利家は算盤を懐に仕舞うと、信長の後に続いた。
 そして評定の間に入ると、成政が座っていた。

「なんだ。お前も呼ばれていたのか」

 成政が怪訝な表情で訊ねる。利家はどうしてそんな顔をするのか分からなかったが「ああ、そうだ」と言って彼の隣に座った。
 信長が上座に座ると「弟のことだが」とさっそく本題に入った。

「最近、信行が『信勝』に改名したのは知っているか?」
「ええ。柴田様が清洲城に訪れた際に、聞きました」

 利家は聞かされたとき、柴田も不思議に思ったと言っていたと思い出した。
 信長は「改名した理由は分からんが」と腕組みをした。

「どうも気にかかる。利家、探ってもらえないか?」
「俺がですか? 探るのは不得手というか……」
「何も直接聞けというわけではない。勝家と親しいのだろう? それとなく話を聞いてみてくれ」

 利家は「承知しました」と頷いた。

「成政も同じですか?」
「うん? いや、違う。別の主命がある」
「そうですか……」

 利家の反応を見て、信長は「なんだ。一人では心細いのか?」と茶目っ気たっぷりに言う。
 成政は「そんなタマではないだろうに」と呆れながら利家を見る。

「そ、そういうわけじゃないです! ただ成政がここにいるのが、不思議で!」
「お前たち、仲が悪いと思っていたが、案外そうではないみたいだな」

 信長がからかうように言うと、二人は声を揃えて「仲良しではないです!」と言った。
 それから顔を合わせて「真似すんな!」とこれまた声を揃えて言う。
 その様子を見て信長は面白いと思った。

「気は合うようだな! 実に面白いぞ!」
「……殿。私の主命はなんですか?」

 不快感を表に出している成政が訊ねる。
 信長は「ああ。実はいよいよ信安と信賢親子との決着をつけようと思ってな」と真面目に言う。

「そのための布石として、やってもらいたいことがある」
「……いよいよ、尾張国の統一が成るのですね」

 成政の声は震えていた。
 利家の胸も熱くなった。

「まだ決まったわけではない。向こうのほうが兵は多い。家格も上だ。だからこそ、策が必要となる」
「その策とは?」
「犬山城城主、織田信清を味方につけることだ」

 織田信清は美濃国の境にある犬山城の城主で、どこにも属さない一種の独立勢力である。

「成政、調略をもって信清を味方につけろ」
「……難しいことをおっしゃいますね」
「俺はお前ならできると思っている」

 なかなか矜持をくすぐるようなことを言う信長に成政は感心した。
 だから「承知しました」と頷いた。

「信清には味方についたら領地を渡すと言ってくれ。それが条件だ」
「委細承知」
「それでは、下がってよい」

 信長にそう言われたので、利家と成政は評定の間から下がった。
 そして成政はすぐに信清の元へ向かった。
 彼は調略に時間をかけてしまったので、利家が算盤を使いこなせたという話を聞くことはなかったのである。

 一方、利家も柴田のいる末森城へ向かおうとしたが、その前に森可成に呼び止められた。

「利家、少しお待ちなさい」
「ああ、兄いか。何か用か?」
「殿から柴田殿に探りを入れるように言われたのでしょう?」

 利家は「殿から聞いたのか?」と訊ねてしまう。
 すると可成は「ふふふ。素直ですね」と笑った。

「駄目ですよ。簡単に主命を明かしては」
「……ずりぃよ、兄い」
「一つ、忠告しておきます」

 可成は笑顔から真剣な表情へと変えた。
 利家は背筋を正した。

「柴田殿は何か、秘密を隠しています」
「…………」
「迂闊にそれを抉じ開けぬように」

 利家は「もし開けてしまったら?」と訊ねた。

「うっかり開けてしまったら、どうするんだよ?」
「それは、あなた次第ですよ、利家」
「俺次第?」

 可成は「あなたの心のまま、行動してください」と意味深に言って、その場を後にした。
 利家はなんか変なことを言われたなと思いつつ、馬屋へと向かった。
 懐の算盤が、じゃらっと鳴いた。
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