第55話悲しみの月夜

文字数 3,107文字

 稲生の戦いは信長の勝利で終わった。
 多くの兵を失った戦であったが、これによって織田弾正忠家の当主として、ようやく認められることとなる。

 さて、問題となるのは謀叛を起こした信行の処遇である。
 降伏を申し出た後、彼の居城、末森城で謹慎していた。
 信長は家臣一同から処断するべきと進言されている。
 しかし、父の信秀の遺言を考えてしまう。

 そんな中、信長の元に彼ら兄弟の母、土田御前が清洲城に来訪してきた。

「信長! どうか信行を許してあげてください!」
「…………」

 平身低頭――いや、床に額を擦り付けて、必死に哀願する母親。
 信長は、そんな母の姿を見たくは無かった。

「母上。何故、信行を止めてくれませんでした?」
「そ、それは……」
「俺が当主になったことが、そんなに不満なのですか?」

 信長は実母に対して、何の期待もしなかった。
 幼少期から信行のことばかり可愛がっている母親。
 親愛を持てというのが無理な話だった。

「ふ、不満と言うわけでは……」
「何か、隠していることはありませんか?」

 曖昧な聞き方だが、効果的な問い質しでもあった。
 土田御前は顔を挙げて「隠し事などしていません!」と引きつった顔と声で言う。
 信長は何かおかしいなと思ったが「まあいい」と続けなかった。

「信行を連れてきてください。何らかの処分を言い渡さなければなりません」
「しょ、処分……」
「今日のところはお帰りください」

 土田御前は蒼白な顔のまま、肩を落として帰ってしまった。
 厳しい言い方を信長はしたが、そうしないと情が移りそうになってしまう。
 親子ではあったが、大名の当主としてけじめはつけないといけなかった。

 信長はその後、斉藤道三の様子を見ようと席を立った。
 小姓たちを引き連れて、道三のいる部屋に入る。

「わしの銭だああああ! うひひひ、よく取り返してくれたな!」
「ええ。これで良いですか?」

 銭を嬉しそうに撫で回す道三と苦笑している成政の姿がそこにあった。
 信長は「舅殿。お久しぶりですね」と笑いかけた。

「今日はどうなされた?」
「おお! そこの若者が、わしの銭を取り返してくれたのだ!」

 満面の笑みで笑う道三。
 成政もそれに付き合って笑っている。

「そうですか。それは何より。成政、後で褒美をくれてやる」
「ありがたき幸せ」
「ああ、褒美だったな。わしは……というより、おぬしは誰だ?」

 呆けた目で信長に問う道三。
 信長は「織田信長です」と答えた。

「お前たち下がれ。成政はここにいろ」

 小姓たちを下がらせると「信行の処分のことだが」と単刀直入に信長は言った。

「親父殿の遺言、覚えているか?」
「はい。一度は許せ、とおっしゃっておりました」
「聞かなかったことにできるか?」

 信長の冷酷な声音に、成政は身震いする思いをした。

「……殿の仰せならば」
「で、あるか――」

 成政の言葉に信長は満足そうに頷いたとき、道三は「そりゃあいかんな」と待ったをかけた。
 成政と信長が唖然とする中、道三は言う。

「信行の勢力全てが婿殿に従ったわけではない。今、信行を処断すれば、柴田や林が何を仕出かすか分かったものではない。それにだ、柴田や林は失うのに惜しい。まず、あやつらの心服させることが肝要だ。それに、信行もなかなか人望があるようだ。あいつは婿殿の右腕になってくれるだろうよ」

 理路整然とした言葉に、成政は慄いていた。
 呆けていても、ここまで頭が回るのか。
 それに信行だけではなく、柴田や林のことも把握している。

「……流石、美濃のまむしだな」

 信長の感心した声に道三は不敵に笑った。

「ところで、飯はまだかのう」
「……晩まで時間がありますよ」

 成政が道三の背中を擦った。

「舅殿の言葉、身に染みました」
「うん? そうか。それは良かったのう」

 信長は満足そうに頷いて、部屋から出ようとする。
 その前に、彼は成政に訊いた。

「利家はどこにいる?」
「……あいつは、実兄の葬儀に参加しています」
「であるか。後で様子を見に行ってくれ」

 信長は利家の兄が死んだことを知っている。
 自分の弟との戦いで死んだことを重々承知している。
 成政はなんとなく、合わせる顔がないんだろうと考えた。


◆◇◆◇


 前田利玄の葬儀は、つつがなく進んだ。
 母のたつは泣きつかれたのか、放心している。
 父の利春は沈痛な思いで見守っていた。

 長男の利久は悲しんでいた。
 一番付き合いのある弟だったからだ。
 また同じくらい悲しかったのは。
 利家があからさまに元気の無い様子だったことだ。

 焼香を彼にしては丁寧に終えて、そのまま葬儀の様子を見ている。
 それが何だか居た堪れない。
 利久は利玄が死んだ経緯は、利家から聞いていた。
 責任を感じる必要はないと思うが、彼の性格上、そう思いこんで仕方がないのだろう。

 葬儀が終わった後、利久は利家を自室に呼び出した。

「利家。ご苦労だったな」
「……ああ」

 労いの言葉に短く返す利家。
 利久は優しさと思いやりをもって言う。

「利玄のことは、お前の責任じゃない」
「…………」
「あれは、お前を助けられて、嬉しかったんだろう」

 利家は「……なんでそんなこと、利久兄に分かるんだよ」とぶっきらぼうに訊ねた。

「本当は無念だったかもしれないだろ」
「分かるさ。あいつはそういう奴だった」
「だから、なんで分かるんだよ!」

 利家が耐え切れなくなって怒鳴る。
 利久は「分かるさ」ともう一度言った。

「俺も、利玄と同じ立場だったら、そうしたはずだ」
「……利久兄」
「お前だって、俺や利玄が窮地だったら、守っただろう?」

 何も言えなくなった利家は、唇を噛み締めた。
 利久は「あいつ、格好つけすぎなんだよ」と利玄をなじった。

「飄々として、何も考えていないようで、家族を大事にしていた」
「……それは分かる」
「でも、俺にはできない生き方をしていた」

 利久はごほんと咳払いして「なあ利家」と慈愛をこめた声で言う。

「あいつが死んだことは、悲しいことだ。だから泣けよ」
「……男が泣くかよ」
「利玄やお前は滅多に泣かない。でもな、泣いたっていいんだよ。立ち止まるのも必要なんだ」

 利家は深呼吸して「外に行く」と小さく呟く。
 利久は何も言わず、見送った。

 外はすっかり夜で、綺麗な満月が煌々と輝いていた。

「……利玄兄。俺はあんたのことは苦手だったけどよ。何も俺を庇って死ななくていいじゃねえか。一生、忘れることなんてできねえよ」

 庭の大きな石に座って月を見ていると「利家?」と声をかける者がいた。
 利家は淋しそうに笑みを浮かべて言う。

「なんだ。まつじゃないか」

 十才になったまつは、以前より美しく大きく成長していた。
 まつは心配そうに「泣いているんですか?」と利家に近づく。

「今から泣こうと思うんだ。だからあっち行ってくれねえか?」
「私がいたら、泣けませんか?」
「女に涙なんか、見せられねえよ」

 軽く利家が笑うと、まつはしばらく黙って、それから何か決意したように、利家に近づいた。

「あん? お前、どういう――」

 怪訝な顔をしている利家の頭を、まつは抱き締めた。
 ささやかな柔らかさが、利家を包み込む。

「……まつ?」
「私は、涙を見ません」

 まつは利家の頭を撫でながら言う。

「泣いてください。泣き止むまで、一緒にいます」
「…………」
「これでは、駄目ですか?」

 利家は、まつの身体に手を回した。
 そして――

「……少し、泣く」
「ええ、どうぞ」

 顔を預けて、静かに涙を流す利家。
 まつは頭を撫で続けた。

 まつは利家を慰めたかった。
 自分にできることを何でもしてあげようと思った。
 弱りきった利家を助けたかった。
 月下で考えたのは、それだけだった。
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