第152話捨てておけねえよ

文字数 3,095文字

 ごおんごおんと寺の鐘が鳴る。
 同時に大勢の一向宗が経を唱えていた。
 あまりに多すぎる人の群れ、そして行軍によって地面が揺れる。

 織田家が三好家を攻めていたとき、背後から一向宗が襲い掛かった――多すぎる軍勢は、遠目から見たら津波のように迫りくる。

 本陣の中で次々と被害の報告を受ける信長。
 その表情は怒りと困惑に彩られていた。
 何故、本願寺が今になって動いた? 誰が描いた絵図なのだ?

 様々な考えが交錯する中、信長は決断を迫られていた。
 このまま戦うか、それとも退くか――

 姉川の戦いで大勝したが、未だに浅井家と朝倉家は健在である。
 さらに言えば、本願寺が織田家の敵に回ると、二家と同盟を組む可能性がある。
 そうなれば――京が危ない。

 朝倉家が治める越前国は一向一揆が盛んだ。しかし、本願寺がそれを抑える代わりに、京へ攻め立てろと盟約を結んだら――朝倉家は思う存分、領国から離れて進軍ができる。つまり京並びに畿内を攻めることができるのだ。

 それ故に、戦うべきか退くべきか、信長は迷っていた。
 無論、浅井家と朝倉家の進軍を止め、京を守ることは必須だ。
 けれども、今退却すれば――本願寺の追撃を受けてしまう!

「くそっ! 四面楚歌とはこのことか!」

 信長は怒声を発するが、抑える者はいない。
 全員、全ての状況が分かっていたからだ。

「恐れながら殿、ここは京へ退くことを提案いたします」

 提案したのは柴田勝家だった。
 音に聞こえた鬼柴田だが、この状況を危ういと考えていた。
 信長は「本願寺を叩かねば退却できん」と柴田を見る。

「だがあやつらには雑賀衆が味方している。そのせいで我が軍は大打撃を受けた」

 敵に回せば確実に負けると評された、傭兵集団の雑賀衆。
 それも退却できない理由の一つだった。

「このまま留まっていれば、さらなる被害を受け続けます」
「それも分かっている……」

 二人が話しているのを諸将は黙って聞いている。
 そこへ赤母衣衆筆頭の利家が本陣に入ってきた。

「利家。敵の様子はどうなっている?」
「一時的に小休止、といった感じですね。本願寺の野郎、余裕綽々だ」

 身体中、傷だらけで鎧に矢も刺さっている利家。
 疲れてはいるが、まだまだ戦えそうな気力はある。
 信長は利家が特別そうなだけで、他の兵は疲れ切っていると分かっていた。

「このままでは退けぬな……」
「殿。京に浅井家と朝倉家が進軍したら、狙われるのは宇佐山城ですぞ」

 柴田が必死になって説得しているのは、宇佐山城が心配だったからだ。
 もっと言えばそこの城主である森可成が気がかりだったのだ。
 あの男は大軍に攻められても、決して退かない――

「宇佐山城って、可成の兄いがいるところですよね? 狙われるってどういうことですか?」

 利家は状況がよく分かっていないようだ。
 信長は「今、本願寺だけ攻められているわけではない」と語る。

「この機を逃さず、浅井家と朝倉家も攻めてくるだろう。その目標は京だ」
「だ、だったら、一刻も早く退却して、宇佐山城の守りを固めないと――」

 その意見に柴田も頷いた――のだが。

「宇佐山城は、捨てる」

 信長の冷えた声音。
 これには利家と柴田も、そして諸将も沈黙してしまう。

「捨てるって、どういうことですか? 可成の兄いの城ですよ?」
「……二度言わすな」

 利家はゆっくりと信長に近づく――柴田が羽交い絞めして止めた。

「利家! 何を考えている!?」
「それは、こっちの台詞ですよ! 可成の兄いを見捨てるなんて、殿はできるんですか!」

 暴れる利家に柴田は力を込めて押さえている。
 諸将も利家を止めようと手足を握る。

「可成の兄いは殿に忠誠を尽くしてきたじゃないですか! それを見捨てるなんて、俺ぁ許さねえぞ!」
「利家! 俺だって同じ気持ちだ!」

 信長は立ち上がって、利家を睨みつけた。
 険しい顔をしている――しかし、利家には泣いているように見えた。

「援軍を送ることはできん! かといって退却もできん! 俺にはもはや手はない!」
「殿! それでもなんとか――」
「本願寺に和睦の使者を送ったが、門前払いを食らった! その上でできることはないのだ!」

 利家は唇を噛み締めた。
 可成を見捨てる決断をした信長が一番つらいことは分かる。
 しかし、他に手立てはないのか?
 このがんじがらめな状況を打破する方法なんて、考えつくのだろうか?

 答えは――否だった。
 信長は主君である。そして可成は家臣だ。
 主君のために家臣が死ぬのはよくある話だと割り切るしかない。

「利家、分かってくれ……」

 最後は弱々しく、まるで童のようにうな垂れた信長。
 そんな姿を見て利家は――

「……殿。赤母衣衆を使わせてください」

 覚悟を決めた利家。
 信長と柴田、そして諸将はハッとする。

「俺たちだけでも援軍に行く。それが駄目なら一人でも行く」
「馬鹿なことを言うな! そんな少数の兵を連れても意味がない! お前が討ち死にするだけだぞ――利家!」

 柴田が叱ったけれど、それでも利家は止まらない。
 逆に「殿は見捨てる判断をしたけどよ」と呟く。

「可成の兄いは俺の兄貴分なんだ。実の兄弟と同じさ。そんな人を――人として捨てておけねえ」
「利家……」

 柴田と諸将は彼から手を放した。
 じっとこちらを睨む信長に利家は「それに可成の兄いだけ死なせるわけにはいかないですよ」と乾いた笑みを見せた。

「死ぬなら一緒に死んでやりてえ。ま、俺は簡単には死なねえけど」

 そう言い残して本陣から出ようとする利家。
 その後姿に、信長は「いいだろう」と許可を出した。

「赤母衣衆を使ってもいい。だがな、利家」
「……なんでしょうか?」

 信長は振り返らない利家に言う。

「決して、命を無駄にするな。生きて帰ってこい」
「……その言葉、可成の兄いにも伝えます」

 さっと本陣から出た利家。
 信長はその場に座り込み「うつけが……」と呟いた。

「お前も可成も、得難い男だ。失いたくない。しかし、そうせねばならぬのだ」
「殿……」

 かつて己の息子を殺した男を、柴田は憐みの顔で見つめていた。


◆◇◆◇


「宇佐山城に行くのか。利家さん」

 赤母衣衆の半数を率いて、利家は陣から離れようとしているとき、話しかけたのは佐脇利之だった。彼は利家から残るように言われたのだった。

「ああ。可成の兄いを助けに行く」
「たった五百の兵で? 犬死にする気かよ」
「俺ぁ死ぬつもりねえよ」

 利之は冷静に「だったらどうして俺に託すとか言うんだよ」と問い詰める。

「自分が死んだら俺に引き継ぐようにって、毛利殿が言っていたぜ」
「……新介の野郎、内緒だって言ったのによ」
「死ぬつもりなら行くなよ。ていうか生きて帰ってこい」

 自分を嫌っている弟の意外な言葉に、利家は「お前、俺に生きてほしいのか?」と不思議そうに言う。

「当たり前だろう。まだあんたに勝ってねえからな」
「…………」
「勝ち逃げは許さねえよ」

 利家はにやにや笑って「じゃあ一生勝ち続けたら生きてほしいって思うのか?」と意地悪そうに言う。
 利之は「やっぱり死ね」と冷たく言い放った。

「人がせっかく心配しているのに、冗談を言うな」
「悪かったよ。それじゃ、行ってくる」

 馬にまたがり、利家は赤母衣衆の先頭に立つ。
 まるで昔を思い出すやり取りだなと利之は懐かしく思った。

「早く帰ってこい! こっちも厳しい戦いになるんだからよ!」
「ああ! さくっと浅井家と朝倉家を倒してくらあ!」

 利家は意気揚々と宇佐山城へ進軍した。
 対して、本願寺は追撃しなかった。
 向かい合う織田家本軍がそれを許さなかったのだ。
 そう指示をしたのは、信長だった――
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