第89話慶次郎との喧嘩
文字数 3,091文字
朱槍を向けられた状況で、利家はまず冷静に「まつ、そこの部屋に入ってろ」と告げた。
無論、目線は慶次郎と名乗る男から離さない。
「と、利家……!」
「早くしろ。お前を守りながらじゃあ戦えない」
まつが心配そうな声をあげるのを、後ろで聞きながら――朱槍が何の手加減も無く、何の躊躇も無く突いてきたのを、片手で掴んで止める。
「結構な挨拶じゃねえか」
「はん。親父から聞いた通り――すげえな、あんた」
朱槍による刺突を止められたことにさしたる動揺が無い慶次郎。
それで利家は、こいつ俺のことを知っているのかと考えた。
だが深く考える前に、利家は掴んだ朱槍を捻って慶次郎の手から放そうとした。
「そんなら、こうだ――」
利家の動きを予想していたのか、捻られる前に慶次郎は朱槍を手放して迫る。
接近戦に持ち込むつもりかと思った利家も一拍遅れて朱槍を放す。
真っすぐな右手の正面突きが利家の左胸に打たれた。
「――ちっ」
利家は防御が間に合わず、後ろに吹き飛んだ――というより後ろに下がることで衝撃を逃がそうと狙ったのだ。既にまつが後ろにいないことは気配で分かっていた。
しかし予想外に力強い打撃だったので、廊下を越えて部屋まで突っ込んでしまった。障子が格子ごと破れて壊れてしまった。
「この程度じゃあねえよなあ、利家さんよ」
ゆっくりと慶次郎は利家に歩み寄る。
一見、余裕を持った行動だったが、いつ何時、起き上がって反撃されても備えている。
「もちろんだ! この野郎!」
ばらばらになった障子を吹き飛ばしながら、利家は慶次郎に襲い掛かった。
慶次郎は決して油断などしていなかったが、その速度に動揺した。予想より――二倍も速い!
「おらぁ!」
「――ぶっ!?」
慶次郎の顔面に利家の拳が突き刺さる。
利家と同じように後方に飛ぶということはできず、もろに受けてしまった慶次郎。
どたんと仰向けに倒れる。
「どうした? どうしたよ? さっさと立てよ」
「……追撃しないんだな」
自分を見下ろす利家に、そんな風に言いながら、慶次郎はゆっくりと起き上がった。
着物の埃を払う仕草をしながら「近づいたらぶん殴ってやろうと思ったのに」と呟く。
「手負いの獣ほど、厄介な奴はいねえからな」
「親父から猟師の真似事しているって聞いたけど、本当だったんだな」
利家はさっきからこいつが言っている親父って何者だ? と考える。
前田慶次郎利益って言っていたが……一族の者とは思えない。
それから冷静に戦況を考える。自分が今持っている武器は脇差だけ。刀は預けている。
一方、傾いた格好をしている慶次郎は朱槍以外の武器を持っていないらしい。
お互い、大きな怪我はしていないようで、まだまだ決着は着きそうにないだろう――
「お前たち、そこまでにしてくれ」
そう声をかけてきたのは、当主である利久だった。
利家は慶次郎から視線を外して、声のほうを向いた――
「隙あり!」
慶次郎が利家に殴りかかる。
利家は腕で防御しようとした――その拳が止まる。
慶次郎の姿が消えたと思ったら視界が上に向く。
慶次郎は拳に注目させて、止めた後素早く足払いしたのだ。
仰向けに倒れる利家。
馬乗りになる慶次郎――
「親父! 俺の勝ちだよな!」
高らかに勝利宣言する慶次郎に対し、寝巻姿の利久は苦笑しながら「お前の負けだよ」と答えた。
「はあ? どう見たって――」
「利家の右手、見てみなさい」
慶次郎は利家の右手を見て――ぎょっとした。
彼はいつの間にか脇差を抜いていて、慶次郎の左胸、つまり心臓に狙いを定めていた。
殴るより先に刺されることは明らかだった。
「え、あ、あんた……」
「……さっさとどけ。利久兄の言うとおり、俺の勝ちなんだからよ」
ごくりと唾を飲み込む慶次郎。
これが、戦場を経験した、武将の凄み。
槍の又左の異名を持つ、前田利家の本領――
「……あはは。俺の負けだ!」
あっさりと負けを認めた慶次郎は馬乗りの体勢から離れた。
その悔しさを微塵も感じさせない姿に利家は「潔いな」と意外そうに言う。
「勝ち負けにこだわる男だと思ったが」
「あの状況で負けを認めなかったら恥かくのは俺だからな」
それから慶次郎は「俺が負けたのは、これで二回目だ」と清々しい声で言った。
「次は絶対負けねえからな」
「お前なあ……次があると思っているのか?」
「ああ。だからあんたは俺を殺さなかったんだろう?」
慶次郎は傍に落ちていた朱槍を肩に担いで言う。
「あんたとの勝負、楽しかったぜ。またやろうな!」
厄介な男に好かれてしまった。
利家は面倒に思ったものの、どこか爽やかな風が心に吹いた気がした。
◆◇◆◇
「利家、怪我は大丈夫ですか?」
「擦り傷はあるけどな……って、痣になっているじゃねえか! あいつ、どんな馬鹿力してやがる!」
その後、慶次郎は「助右衛門と遊んでくる」と言って、現れたときと同じように唐突に去ってしまった。嵐のような男だなと利家は呆れた。
部屋から出てきたまつは「大丈夫ですか大丈夫ですか大丈夫ですか」と何度も繰り返しながら利家を抱きしめた。夫が死ぬかもしれない――慶次郎にはそんな気は無かっただろう――戦いを目の当たりにしてひどく動揺していた。
それから前田家の屋敷で治療を受けたのだが、侍女たちに「利家の体に触ることは許しません」と利家に見えない角度で極寒の視線をまつは向けた。侍女たちは震えあがり、薬と包帯を置いて逃げてしまった。
しかしまつだけでは治療は難しいので、利家の母であるたつに手伝ってもらっている状況だった。
「あの慶次郎という人、何者ですか……」
「そんな怖い顔するなって。あいつに恨みとかねえんだから」
人をそれだけで呪い殺せそうな顔をしているまつに優しく言う利家。
母のたつは困ったように「あの慶次郎は利久の養子ですよ」と答えた。
「滝川一益様の一族からもらったのです」
「そういや、そんな話、したようなしなかったような」
「あの子が来てから、前田家はてんてこ舞いですよ。まるであなたを思い出します、利家」
まつに包帯を手渡しながら、たつはどこか懐かしそうに言う。
利家は苦い顔で「俺、あんな乱暴者だったか?」と問う。
「もうちょっと節操あったと思うが」
「織田の殿様と出会ったとき、あの方を殴ろうとしたのを覚えていませんか?」
「…………」
まつが塗り薬を塗り終えて「あの慶次郎、いずれ前田家当主になるんですか?」と問う。
利久には実子がいない。それで養子を貰うということは、なってもおかしくないことだった。
「そうなるかもしれません。だけど、あの子には当主としての自覚がありません。足りないものもたくさんあります」
「だけど、あいつならいい当主になりそうだぜ。戦場で活躍できるしな」
利家が意外にも慶次郎を認める発言をしたので、まつとたつは顔を見合わせた。
「利家。あの者に恨みがないとはいえ、そこまで買っているんですか?」
「うん? そうじゃねえが……そういうことになるのか?」
「どっちなんですか?」
不思議そうなまつよりも、もっと不思議そうな顔をしている利家。
彼自身、理由を考える――そして分かった。
「ああそうか。俺と利玄兄の関係に似ているんだ」
死んだ利玄の名前が出て、たつは悲しそうな顔をした。まだ癒えてない傷だった。
「養子でも、面倒みてやりてえな」
「利家……」
「あいつはきっと、何かやりそうな気がする」
利家は笑っていた。利玄の言ったとおりに当主になる気は無かったし、あの慶次郎なら前田家の当主を任せられると思えたからだ。
前田家の未来は明るいと利家は安心できた。
無論、目線は慶次郎と名乗る男から離さない。
「と、利家……!」
「早くしろ。お前を守りながらじゃあ戦えない」
まつが心配そうな声をあげるのを、後ろで聞きながら――朱槍が何の手加減も無く、何の躊躇も無く突いてきたのを、片手で掴んで止める。
「結構な挨拶じゃねえか」
「はん。親父から聞いた通り――すげえな、あんた」
朱槍による刺突を止められたことにさしたる動揺が無い慶次郎。
それで利家は、こいつ俺のことを知っているのかと考えた。
だが深く考える前に、利家は掴んだ朱槍を捻って慶次郎の手から放そうとした。
「そんなら、こうだ――」
利家の動きを予想していたのか、捻られる前に慶次郎は朱槍を手放して迫る。
接近戦に持ち込むつもりかと思った利家も一拍遅れて朱槍を放す。
真っすぐな右手の正面突きが利家の左胸に打たれた。
「――ちっ」
利家は防御が間に合わず、後ろに吹き飛んだ――というより後ろに下がることで衝撃を逃がそうと狙ったのだ。既にまつが後ろにいないことは気配で分かっていた。
しかし予想外に力強い打撃だったので、廊下を越えて部屋まで突っ込んでしまった。障子が格子ごと破れて壊れてしまった。
「この程度じゃあねえよなあ、利家さんよ」
ゆっくりと慶次郎は利家に歩み寄る。
一見、余裕を持った行動だったが、いつ何時、起き上がって反撃されても備えている。
「もちろんだ! この野郎!」
ばらばらになった障子を吹き飛ばしながら、利家は慶次郎に襲い掛かった。
慶次郎は決して油断などしていなかったが、その速度に動揺した。予想より――二倍も速い!
「おらぁ!」
「――ぶっ!?」
慶次郎の顔面に利家の拳が突き刺さる。
利家と同じように後方に飛ぶということはできず、もろに受けてしまった慶次郎。
どたんと仰向けに倒れる。
「どうした? どうしたよ? さっさと立てよ」
「……追撃しないんだな」
自分を見下ろす利家に、そんな風に言いながら、慶次郎はゆっくりと起き上がった。
着物の埃を払う仕草をしながら「近づいたらぶん殴ってやろうと思ったのに」と呟く。
「手負いの獣ほど、厄介な奴はいねえからな」
「親父から猟師の真似事しているって聞いたけど、本当だったんだな」
利家はさっきからこいつが言っている親父って何者だ? と考える。
前田慶次郎利益って言っていたが……一族の者とは思えない。
それから冷静に戦況を考える。自分が今持っている武器は脇差だけ。刀は預けている。
一方、傾いた格好をしている慶次郎は朱槍以外の武器を持っていないらしい。
お互い、大きな怪我はしていないようで、まだまだ決着は着きそうにないだろう――
「お前たち、そこまでにしてくれ」
そう声をかけてきたのは、当主である利久だった。
利家は慶次郎から視線を外して、声のほうを向いた――
「隙あり!」
慶次郎が利家に殴りかかる。
利家は腕で防御しようとした――その拳が止まる。
慶次郎の姿が消えたと思ったら視界が上に向く。
慶次郎は拳に注目させて、止めた後素早く足払いしたのだ。
仰向けに倒れる利家。
馬乗りになる慶次郎――
「親父! 俺の勝ちだよな!」
高らかに勝利宣言する慶次郎に対し、寝巻姿の利久は苦笑しながら「お前の負けだよ」と答えた。
「はあ? どう見たって――」
「利家の右手、見てみなさい」
慶次郎は利家の右手を見て――ぎょっとした。
彼はいつの間にか脇差を抜いていて、慶次郎の左胸、つまり心臓に狙いを定めていた。
殴るより先に刺されることは明らかだった。
「え、あ、あんた……」
「……さっさとどけ。利久兄の言うとおり、俺の勝ちなんだからよ」
ごくりと唾を飲み込む慶次郎。
これが、戦場を経験した、武将の凄み。
槍の又左の異名を持つ、前田利家の本領――
「……あはは。俺の負けだ!」
あっさりと負けを認めた慶次郎は馬乗りの体勢から離れた。
その悔しさを微塵も感じさせない姿に利家は「潔いな」と意外そうに言う。
「勝ち負けにこだわる男だと思ったが」
「あの状況で負けを認めなかったら恥かくのは俺だからな」
それから慶次郎は「俺が負けたのは、これで二回目だ」と清々しい声で言った。
「次は絶対負けねえからな」
「お前なあ……次があると思っているのか?」
「ああ。だからあんたは俺を殺さなかったんだろう?」
慶次郎は傍に落ちていた朱槍を肩に担いで言う。
「あんたとの勝負、楽しかったぜ。またやろうな!」
厄介な男に好かれてしまった。
利家は面倒に思ったものの、どこか爽やかな風が心に吹いた気がした。
◆◇◆◇
「利家、怪我は大丈夫ですか?」
「擦り傷はあるけどな……って、痣になっているじゃねえか! あいつ、どんな馬鹿力してやがる!」
その後、慶次郎は「助右衛門と遊んでくる」と言って、現れたときと同じように唐突に去ってしまった。嵐のような男だなと利家は呆れた。
部屋から出てきたまつは「大丈夫ですか大丈夫ですか大丈夫ですか」と何度も繰り返しながら利家を抱きしめた。夫が死ぬかもしれない――慶次郎にはそんな気は無かっただろう――戦いを目の当たりにしてひどく動揺していた。
それから前田家の屋敷で治療を受けたのだが、侍女たちに「利家の体に触ることは許しません」と利家に見えない角度で極寒の視線をまつは向けた。侍女たちは震えあがり、薬と包帯を置いて逃げてしまった。
しかしまつだけでは治療は難しいので、利家の母であるたつに手伝ってもらっている状況だった。
「あの慶次郎という人、何者ですか……」
「そんな怖い顔するなって。あいつに恨みとかねえんだから」
人をそれだけで呪い殺せそうな顔をしているまつに優しく言う利家。
母のたつは困ったように「あの慶次郎は利久の養子ですよ」と答えた。
「滝川一益様の一族からもらったのです」
「そういや、そんな話、したようなしなかったような」
「あの子が来てから、前田家はてんてこ舞いですよ。まるであなたを思い出します、利家」
まつに包帯を手渡しながら、たつはどこか懐かしそうに言う。
利家は苦い顔で「俺、あんな乱暴者だったか?」と問う。
「もうちょっと節操あったと思うが」
「織田の殿様と出会ったとき、あの方を殴ろうとしたのを覚えていませんか?」
「…………」
まつが塗り薬を塗り終えて「あの慶次郎、いずれ前田家当主になるんですか?」と問う。
利久には実子がいない。それで養子を貰うということは、なってもおかしくないことだった。
「そうなるかもしれません。だけど、あの子には当主としての自覚がありません。足りないものもたくさんあります」
「だけど、あいつならいい当主になりそうだぜ。戦場で活躍できるしな」
利家が意外にも慶次郎を認める発言をしたので、まつとたつは顔を見合わせた。
「利家。あの者に恨みがないとはいえ、そこまで買っているんですか?」
「うん? そうじゃねえが……そういうことになるのか?」
「どっちなんですか?」
不思議そうなまつよりも、もっと不思議そうな顔をしている利家。
彼自身、理由を考える――そして分かった。
「ああそうか。俺と利玄兄の関係に似ているんだ」
死んだ利玄の名前が出て、たつは悲しそうな顔をした。まだ癒えてない傷だった。
「養子でも、面倒みてやりてえな」
「利家……」
「あいつはきっと、何かやりそうな気がする」
利家は笑っていた。利玄の言ったとおりに当主になる気は無かったし、あの慶次郎なら前田家の当主を任せられると思えたからだ。
前田家の未来は明るいと利家は安心できた。