第132話暗殺指令

文字数 3,133文字

「伊賀の忍び衆の中でも手練れのものを集めたか?」
「殿の仰せの通りに。しかし何をする気で?」

 大蔵長安が怪訝な顔で成政に訊ねる。
 彼らは出来立ての浜松城の廊下を歩いていた。
 ほぼ遠江国を支配したので、次の目標である駿河国攻略のための戦略を練った上で、成政は忍び衆による効果的な軍団を作ろうと画策していた。

 庭先に集められた四十名の忍び衆。
 流石に精鋭揃いだなと成政は感じた。

「この中で最も腕の立つ者は?」
「……こちらに控える善兵衛でございます」

 老練な忍びが指し示したのは、十代の若者だった。
 優男のように顔つきは穏やかだ。
 しかし強いのか弱いのか、判然としない――己を隠している証拠だと成政は考えた。

 おそらくはこちらを信用していないのだろう。
 雇い主と雇われの身という関係だからだ。
 それはこちらが不利になっても、忍びに対して不利益になることはしないということ――

「善兵衛か。良い名だ。これからお前は、私の傍にいて――守ってもらいたい」

 善兵衛はにこやかな顔を崩さず「へえ。かしこまりました」と頷いた。
 どことなく嘘っぽかったが、まあいいだろうと成政は無理やり納得した。

「他の者は逐次私の指示を聞いてもらいたい。もちろん、報酬は用意する」

 この程度で忍び衆の心を掴めるとは思っていない成政。
 しかしある程度のやる気はあったほうがいい。
 成政は「今日はご苦労だった」と解散を命じた。

「善兵衛、影で私を守っておくれ。頼んだぞ」

 このとき、何気なく成政は善兵衛の肩に手を置いた。
 するとにこやかな顔が不思議そうなものに変化する。

「……どうかしたか?」
「なんでもありはしません……」

 ふっと善兵衛は影のように消えた。
 それまで黙っていた大蔵長安は「凄まじい男ですねえ」と感心した。

「殿、今度は何を企んでいるんですか?」
「何も企んでおらん」
「おっと。そうでした。殿は悪巧みをするんですね」

 その言い方が妙におどけていたので、成政は一拍を置いて「あははは。元猿楽師は言うことが違うなあ」と笑った。

「このままの勢いで駿府城を攻める。それで今川家は終わりさ」
「同時に武田義信たちの援助を打ち切るんですか?」
「いや、まだ打ち切らない。駿河国を手中に収め、完全に掌握するまで、彼らには戦い続けてもらう」

 大蔵は「実にあくどい」と笑った。
 成政は「そうかな?」と笑わなかった。

「明日の評定ではどのようなことを話し合われるのですか?」
「駿河国の進攻の時期だろう。私はもう攻め込んでもいいと思っている」
「慎重な殿にしては急いでいるんですね」

 それは織田家が上洛目前だからだ。もし援軍要請があったとしたら一度駿河国攻略を打ち切らなければならない。
 そのことを大蔵に話すと彼は「よく考えていますねえ」と頷いた。

「もう一つ、殿は話したいことがあるのだろう」
「なんでしょうか?」

 成政はどうでも良さそうに言う。

「今川家当主、氏真殿の処遇だろう。まったく、殿はお優しいことだ――」


◆◇◆◇


「駿河国進攻は、即刻おやりになるべきです。既に遠江国は我らのもの。攻めぬ道理はございませぬ」

 浜松城の評定の間。
 開口一番に強気な発言をしたのは成政だった。
 これには酒井忠次も石川数正も、大久保忠世も他の家臣も驚いた。
 てっきり成政はじっくりと攻めるべきだと主張すると思っていたのだ。

「随分と気の早いことだな……しかしもたついていると武田家に駿河国を奪われるかもしれない」
「武田義信と飯富虎昌らが下山城で善戦しておりますが、限界が近い様子――もはや猶予はございません」

 家康にどうにか決断してもらおうと迫る成政。
 すると酒井が「あまり急がれると足元を掬われる可能性がございます」と言い出した。

「遠江国は手に入れてまだ日が浅い。まずは善政を敷いて、民の騒乱を沈めてからでも遅くないのではないでしょうか」
「それでは、武田家の進攻を抑えられぬ」

 成政が短く反論すると酒井の顔色がさっと変わった。
 真っ赤に染まったまま「無礼な!」と怒鳴った。

「わ、私を戦の知らぬ小僧扱いするな!」
「今攻めぬと駿河国を手に入れるのに数十年かかる。それが何故――分からぬのだ!」

 成政も声を張り上げて自身の考えを押し通そうとする。
 家康は困ったように「これ。家臣同士で争うでない」と止めた。

「両者の意見、真に道理があると思う。しかしながら、私は忠次の意見を採用したい」
「なんですと……?」

 意外な言葉に成政だけではなく、家臣一同驚いた。
 常日頃、成政の献策を取り入れている家康の意外な決断だったからだ。

「殿! どうして――」
「もし今、駿河国を手に入れたら遠江国と合わせて領地が倍以上増える。その広大な土地を円滑に治めるには人材が足らん。今川家から引き抜けば良いが――私はあまりその者たちを信用できんのだ」

 成政が考えもしなかったことである。
 三河国は各々の武将たちの地元であるから簡単に治まった。
 しかし縁も由緒もない土地をいきなり治めるには格と力が必要だ。

「いくらそなたが優秀でも、急速に広がった領地をまとめて治めるなどできん。それに領地経営にもたついている間に、それこそ武田家が攻めてきたら目も当てられぬ」
「…………」
「焦りは禁物だ。ゆっくりと今川家の者を内通させて、攻め落とそう」

 成政は家康をじっと見つめて、それから頭を下げた。

「分かり申した。仰せの通りに致します」
「よう分かってくれた。それではまず――」

 満足げに家康は頷き、諸将に指示を出し始めた。
 その間、成政は唇を噛み締めて怒りを鎮めていた。
 成政の様子を見ていた石川だけが、どこか不気味なものを感じながら、畏れ慄いていた。


◆◇◆◇


「このままでは、織田家との勢力差が開いてしまう! 何故それが分からぬのだ!」

 一人自室に籠って怒りを吐き出している成政。
 己以外の家老の邪魔によって予定が狂いつつあるのを感じていた。
 今まで遠慮していたものの、我慢ならなくなってきている。

「どうすれば……善兵衛はおるか」

 外に控えていた善兵衛がすうっと障子を開けて「お呼びでございますか」と入ってきた。
 成政は「殺してほしい者がいる」と暗い顔で告げた。

「へえ。誰でございましょう」
「今川家重臣、朝比奈泰朝だ」

 朝比奈は史実では最後まで今川家に付き従った忠義の男である。
 とても寝返らせるのは難しいと成政は思っていた。

「それと、徳川家が行なったと分からせるようにしてくれ」
「……承知」

 善兵衛は先ほどと同じように障子を閉めて、任務へと向かった。
 ふうっと溜息をして――成政は素早く襖を開けた。
 そこには彼の妻、はるがいた。
 彼女は唐突に開けられたことで驚いていた――それ以上に怯えていた。

「……いつからそこにいた?」
「あ、その、私は、夕餉の、知らせを――」
「全部、聞いていたのか」

 成政ははるを睨んでしまった。
 初めて怒っている成政を見てはるはどうしていいのか分からず――泣いた。

「申し訳ございませぬ!」
「……いや、すまなかった。私が悪い」

 成政ははるのことを愛していた。
 自分が血生臭いことをしていると悟られたくなかった。
 もう少し、配慮するべきだったと――反省した。

「私が、恐ろしいか」
「…………」
「そうだろうな、私は人殺しだから」

 はるに背を向けて何も言えずにいる成政。
 その背中に身体を預ける――はる。

「…………」
「どうか、おそばにいさせてください。もう、二度と、邪魔はしませんから……」

 成政ははるを抱きしめることができなかった。
 自分にはその資格がないと分かっていたから。

 静かに泣いている妻。
 原因は自分にあると――痛いほど分かっていた。
 しかし、彼はもう、覚悟を決めていたのだ。
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