第151話対武田前哨戦
文字数 3,316文字
武田の赤備えを率いる山県昌景が、駿河国の国境を脅かしているとの伝令が入った。
徳川家の大久保忠世はすぐさま軍勢一万を集め、進攻に備えようとした。
大物見らしく三千の兵で威圧している山県。
こちらから攻めることはせず、かといって無視もできない状況に、大久保は困っていた。
そんな折、浜松城から五千の兵を率いてやってきたのは佐々成政だった。
家康の主命でやってきたというが、大久保は嫌な奴が来たなとうんざりした。
最初の出会いから最悪の印象しか持っていない――しかし無視はできない。
「大久保殿。あなたはこのまま睨み合いを続けるつもりか?」
本陣に入るや否や、成政は大久保に詰問した。
不躾な問いに内心苛立ちを覚えた大久保。だがしかし、それを押し殺して「向こうはただ国境をうろついているだけだ」と答えた。
「別段、我らが危機に陥ることはない」
「一万の軍勢の兵糧や武具が消耗していくのだぞ。それがどれだけの損失か分かっているのか」
細やかな計算が苦手である、無骨な三河者の大久保。
その観点は見落としていた。
武田家が少しでも駿河国を落としやすくするための行動だとは考えていなかった。
「ならばどうする? 相手は赤備えだぞ?」
「たった三千の兵ごとき、私たちならば討ち滅ぼせる。協力していただきたい」
甲斐国の国境から動こうとはしない山県の軍勢。しかも前方に対して守りをきっちり固めている正攻法では敵わないだろう――大久保以下、徳川家の武将はそう考えていた。
「私が連れてきた五千の兵で奇襲をかける。混乱したと見たら一気呵成に攻め立ててもらおう」
「奇襲だと? どうやってだ?」
「既に私の忍びが奴らの後方へ回り込む道を見つけている。その間道を通るだけだ」
成政の提案に大久保は「そのようなことは!」と驚いてしまった。
策自体に驚いたわけではない。むしろ順当だと言える。
問題は後方に回り込むということは、甲斐国に侵入するということだ。
「別に不戦の協約を結んでいるわけでもあるまい。それに相手は油断しきっている。必ず成功するぞ」
「し、しかし……」
大久保も徳川家の家老である。幾たびの戦を経験している武将だ。
成政の言う策が的中するのは分かっていた。しかし、自分の判断で武田家との戦が始まるかもしれないという決断はできなかった。
「安心しろ。私の独断専行と言えばいい」
成政は最後に「頼んだ」と言い残して、本陣から出た。
大久保は呆然と見送るしかなかった――
◆◇◆◇
「殿。武田の赤備えと本気で戦うつもりですか?」
「無論だ。相手は徳川家を馬鹿にしている。舐められるのは御免だ」
自身の陣に戻った成政は可児才蔵の問いに答えた。
才蔵はにやにやしながら「腕が鳴りますね」と言う。
「音に聞こえた赤備えとの戦。胸も高鳴ります」
「油断するなよ。ここでお前を失いたくない」
それから成政は兵五千の組頭たちに「奇襲を行なう」と告げた。
一様に顔が強張る彼ら。武田家の強さは噂に聞こえていたからだ。
全員が才蔵のように強気でいられるわけではないかと成政は考えた。
「ま、奇襲と言っても難しく考えるな。相手に気づかれても構わない」
「……どういうことですか?」
組頭の一人が訊ねる。奇襲なのに気づかれてもいいとはどういうことだろう?
成政は「私たちの目的は三千の兵を撤退させることだ」と言う。
「気づかれれば山県は撤退する。その分、お前たちは死ななくて済む」
「はあ。もし迎撃とかされたら?」
「それはない。正面に大久保殿の一万の兵がいるのだから。むしろ撤退する奴らを追撃するかもしれないが、そこは状況を見て判断する」
成政はにっこりと微笑んで――実に悪そうな顔をしている――組頭たちを鼓舞した。
「楽な戦だ。肩の力を落として、ほどほどに追い立てよう」
成政の言葉に組頭たちは安堵した。
武田家に抱いていた恐れが徐々に消えていく。
それこそが成政の狙いだった。これから武田家と戦い続けるのだ。恐れていては負けてしまう。
◆◇◆◇
明け方頃、山県の赤備えの陣を成政率いる五千の兵が奇襲した。
人が一番気を緩ませるのは、夜明け前である。そこを突いた成政は完璧と言えるほどの奇襲攻撃を仕掛けられた。
どうして山県昌景という名将がこうまであっさりと奇襲を受けてしまったのか。
それは成政の配下である忍び衆の功績が大だった。
要所に設置していた物見の兵を暗闇の中、静かに仕留めていた――結果として全くの情報なしに受けてしまったのだ。
さらに言えば、山県は徳川家のことを侮っていた。
一万の兵を三千の兵で釘付けできたという事実。
無理に攻めてこようとしなかったという過去。
これらの要因で完全に見下していたのだ。
しかし、流石に山県は名将だった。
奇襲を受けて立て直せないと分かった彼は、すぐさま兵を退かせた。
僅か三百の損害で戦線から離脱したのだ。
成政は山県の陣を焼くと、そのまま大久保の一万と合流した。
このまま追撃しても相手は受けてくると分かっていたからだ。
それに当初の目的である山県の兵を退かせることは達成していた。
「へっ。武田の赤備えもたいしたことねえな」
三つの首を獲った才蔵の言葉に、周りの兵が同調する。
そうだそうだの声が大きく重なり、いつしか笑い声になる。
成政の欲しかったことはそれだった。過度な恐れを払拭し、これからの武田家攻略の糧となる勝ち戦が必要だったのだ。
「皆の者、浜松城に凱旋するぞ」
成政の得意げな声に兵たちは「応!」と声を揃えた。
馬上にいながら成政は自らの軍才を確信していた。
未来の知識だけではなく、戦略ゲームの知識を使えば勝てる。
これは過剰に思ってはならないが、頼りにはなることが分かった。
これらを踏まえて成政は次なる策を練る。
武田家を崩壊させるような策。
それは――
◆◇◆◇
「成政、ようやった! これで信玄も無理に攻めてこないだろう!」
浜松城で家康に褒められた成政。
平伏して「ありがたきお言葉にございます」と返した。
周りには家臣たちはいない。皆は武田家対策で忙しかった。
「しかし恐れながら、信玄の進攻は確実でしょう」
「成政よ。もし信玄が攻めてきたらいかがする?」
「無論、誠忠の思いで戦いますが、厳しいものになるでしょう」
家康は眉をひそめて「それほどにか」と困った顔になる。
「三河国の工場の生産量は順調に伸びております。鉄砲も数百丁揃えられました」
「そなたの内政策はぴたりと嵌ったようだな」
「武田家の進攻を食い止められたら、好機がございます」
好機という言葉に家康は「どのような好機だ?」と問う。
成政は一度深く呼吸して、言う。
「甲斐国を獲る好機です」
「……真か? 甲斐国は武田家の本領だぞ?」
「殿に偽りは言いませぬ。私は必ず、甲斐国を献上いたします」
成政の自信たっぷりな言葉に家康は「そなたはやれるとおもったことしか言わん」と認めた。
家康は成政のことを信用していた。それは兄弟に対する敬愛の念と似ていた。
もしかすると自分に足りなかった親への愛情すら感じていたのかもしれない。
だから盲目的とも言える信頼を成政に覚えていたのだ。
「それでは、そなたのやる気を出すようにしてやろう」
「やる気、ですか? 私は――」
「十分にあることは分かっている。だがな、そなたの働きに応えたいのだ」
家康は「空手形になるかもしれんが」と前置きをしてから言う。
「甲斐国を獲った暁には――そなたのものにしよう」
「……今なんと?」
家康の口からとんでもない言葉が出たので、繰り返し訊ねてしまう成政。
「つまり、甲斐国はそなたに任せると言ったのだ」
「本気でございますか?」
「ま、そなたが甲斐国を獲れたらの話だ。だが気にかけてくれ」
未だ獲っていない領土の話だが、成政は呆然自失となってしまった。
自分が一国の主になるかもしれないと思うと身体が震えた――
「殿! 火急の知らせでございます!」
そこへ入ってきたのは石川数正だった。
家康が「どうかしたのか?」と訊ねると、石川は「野田と福島にて織田家が――」と報告する。
「――本願寺に攻められ、窮地になっているとのこと!」
徳川家の大久保忠世はすぐさま軍勢一万を集め、進攻に備えようとした。
大物見らしく三千の兵で威圧している山県。
こちらから攻めることはせず、かといって無視もできない状況に、大久保は困っていた。
そんな折、浜松城から五千の兵を率いてやってきたのは佐々成政だった。
家康の主命でやってきたというが、大久保は嫌な奴が来たなとうんざりした。
最初の出会いから最悪の印象しか持っていない――しかし無視はできない。
「大久保殿。あなたはこのまま睨み合いを続けるつもりか?」
本陣に入るや否や、成政は大久保に詰問した。
不躾な問いに内心苛立ちを覚えた大久保。だがしかし、それを押し殺して「向こうはただ国境をうろついているだけだ」と答えた。
「別段、我らが危機に陥ることはない」
「一万の軍勢の兵糧や武具が消耗していくのだぞ。それがどれだけの損失か分かっているのか」
細やかな計算が苦手である、無骨な三河者の大久保。
その観点は見落としていた。
武田家が少しでも駿河国を落としやすくするための行動だとは考えていなかった。
「ならばどうする? 相手は赤備えだぞ?」
「たった三千の兵ごとき、私たちならば討ち滅ぼせる。協力していただきたい」
甲斐国の国境から動こうとはしない山県の軍勢。しかも前方に対して守りをきっちり固めている正攻法では敵わないだろう――大久保以下、徳川家の武将はそう考えていた。
「私が連れてきた五千の兵で奇襲をかける。混乱したと見たら一気呵成に攻め立ててもらおう」
「奇襲だと? どうやってだ?」
「既に私の忍びが奴らの後方へ回り込む道を見つけている。その間道を通るだけだ」
成政の提案に大久保は「そのようなことは!」と驚いてしまった。
策自体に驚いたわけではない。むしろ順当だと言える。
問題は後方に回り込むということは、甲斐国に侵入するということだ。
「別に不戦の協約を結んでいるわけでもあるまい。それに相手は油断しきっている。必ず成功するぞ」
「し、しかし……」
大久保も徳川家の家老である。幾たびの戦を経験している武将だ。
成政の言う策が的中するのは分かっていた。しかし、自分の判断で武田家との戦が始まるかもしれないという決断はできなかった。
「安心しろ。私の独断専行と言えばいい」
成政は最後に「頼んだ」と言い残して、本陣から出た。
大久保は呆然と見送るしかなかった――
◆◇◆◇
「殿。武田の赤備えと本気で戦うつもりですか?」
「無論だ。相手は徳川家を馬鹿にしている。舐められるのは御免だ」
自身の陣に戻った成政は可児才蔵の問いに答えた。
才蔵はにやにやしながら「腕が鳴りますね」と言う。
「音に聞こえた赤備えとの戦。胸も高鳴ります」
「油断するなよ。ここでお前を失いたくない」
それから成政は兵五千の組頭たちに「奇襲を行なう」と告げた。
一様に顔が強張る彼ら。武田家の強さは噂に聞こえていたからだ。
全員が才蔵のように強気でいられるわけではないかと成政は考えた。
「ま、奇襲と言っても難しく考えるな。相手に気づかれても構わない」
「……どういうことですか?」
組頭の一人が訊ねる。奇襲なのに気づかれてもいいとはどういうことだろう?
成政は「私たちの目的は三千の兵を撤退させることだ」と言う。
「気づかれれば山県は撤退する。その分、お前たちは死ななくて済む」
「はあ。もし迎撃とかされたら?」
「それはない。正面に大久保殿の一万の兵がいるのだから。むしろ撤退する奴らを追撃するかもしれないが、そこは状況を見て判断する」
成政はにっこりと微笑んで――実に悪そうな顔をしている――組頭たちを鼓舞した。
「楽な戦だ。肩の力を落として、ほどほどに追い立てよう」
成政の言葉に組頭たちは安堵した。
武田家に抱いていた恐れが徐々に消えていく。
それこそが成政の狙いだった。これから武田家と戦い続けるのだ。恐れていては負けてしまう。
◆◇◆◇
明け方頃、山県の赤備えの陣を成政率いる五千の兵が奇襲した。
人が一番気を緩ませるのは、夜明け前である。そこを突いた成政は完璧と言えるほどの奇襲攻撃を仕掛けられた。
どうして山県昌景という名将がこうまであっさりと奇襲を受けてしまったのか。
それは成政の配下である忍び衆の功績が大だった。
要所に設置していた物見の兵を暗闇の中、静かに仕留めていた――結果として全くの情報なしに受けてしまったのだ。
さらに言えば、山県は徳川家のことを侮っていた。
一万の兵を三千の兵で釘付けできたという事実。
無理に攻めてこようとしなかったという過去。
これらの要因で完全に見下していたのだ。
しかし、流石に山県は名将だった。
奇襲を受けて立て直せないと分かった彼は、すぐさま兵を退かせた。
僅か三百の損害で戦線から離脱したのだ。
成政は山県の陣を焼くと、そのまま大久保の一万と合流した。
このまま追撃しても相手は受けてくると分かっていたからだ。
それに当初の目的である山県の兵を退かせることは達成していた。
「へっ。武田の赤備えもたいしたことねえな」
三つの首を獲った才蔵の言葉に、周りの兵が同調する。
そうだそうだの声が大きく重なり、いつしか笑い声になる。
成政の欲しかったことはそれだった。過度な恐れを払拭し、これからの武田家攻略の糧となる勝ち戦が必要だったのだ。
「皆の者、浜松城に凱旋するぞ」
成政の得意げな声に兵たちは「応!」と声を揃えた。
馬上にいながら成政は自らの軍才を確信していた。
未来の知識だけではなく、戦略ゲームの知識を使えば勝てる。
これは過剰に思ってはならないが、頼りにはなることが分かった。
これらを踏まえて成政は次なる策を練る。
武田家を崩壊させるような策。
それは――
◆◇◆◇
「成政、ようやった! これで信玄も無理に攻めてこないだろう!」
浜松城で家康に褒められた成政。
平伏して「ありがたきお言葉にございます」と返した。
周りには家臣たちはいない。皆は武田家対策で忙しかった。
「しかし恐れながら、信玄の進攻は確実でしょう」
「成政よ。もし信玄が攻めてきたらいかがする?」
「無論、誠忠の思いで戦いますが、厳しいものになるでしょう」
家康は眉をひそめて「それほどにか」と困った顔になる。
「三河国の工場の生産量は順調に伸びております。鉄砲も数百丁揃えられました」
「そなたの内政策はぴたりと嵌ったようだな」
「武田家の進攻を食い止められたら、好機がございます」
好機という言葉に家康は「どのような好機だ?」と問う。
成政は一度深く呼吸して、言う。
「甲斐国を獲る好機です」
「……真か? 甲斐国は武田家の本領だぞ?」
「殿に偽りは言いませぬ。私は必ず、甲斐国を献上いたします」
成政の自信たっぷりな言葉に家康は「そなたはやれるとおもったことしか言わん」と認めた。
家康は成政のことを信用していた。それは兄弟に対する敬愛の念と似ていた。
もしかすると自分に足りなかった親への愛情すら感じていたのかもしれない。
だから盲目的とも言える信頼を成政に覚えていたのだ。
「それでは、そなたのやる気を出すようにしてやろう」
「やる気、ですか? 私は――」
「十分にあることは分かっている。だがな、そなたの働きに応えたいのだ」
家康は「空手形になるかもしれんが」と前置きをしてから言う。
「甲斐国を獲った暁には――そなたのものにしよう」
「……今なんと?」
家康の口からとんでもない言葉が出たので、繰り返し訊ねてしまう成政。
「つまり、甲斐国はそなたに任せると言ったのだ」
「本気でございますか?」
「ま、そなたが甲斐国を獲れたらの話だ。だが気にかけてくれ」
未だ獲っていない領土の話だが、成政は呆然自失となってしまった。
自分が一国の主になるかもしれないと思うと身体が震えた――
「殿! 火急の知らせでございます!」
そこへ入ってきたのは石川数正だった。
家康が「どうかしたのか?」と訊ねると、石川は「野田と福島にて織田家が――」と報告する。
「――本願寺に攻められ、窮地になっているとのこと!」