第140話悪い顔

文字数 3,070文字

 徳川家が駿河国を制圧したのは、織田家が伊勢国を手中に入れたのと同時期だった。
 それと同じくして、下山城が陥落し武田義信と飯富虎昌は捕らえられた。成政が二人への援助を打ち切ったのもあるが、後援者だった今川家が滅んでしまったのが最大の原因だろう。

 徳川家は三国の太守となり、東国において比類なき領土を手に入れた。
 今後の方針としては領国の守備及び発展が決められた。いつ何時、武田家が攻めてくるかもしれない。そのためにも兵力や鉄砲の量産をしなければならなかった。

 さて、そんな折に京の将軍御所で能の舞台が披露された。
 これには織田家の武将や諸侯などが招かれた。
 無論、徳川家も例外ではない。守備を家臣の酒井忠次らに任せて、家康は上洛した。
 そこに徳川家家老として成政も随行した。はっきり言えば家康との関係は元通りとは言えなかったが、気を使われたのだろう。成政は黙って従った。

 能とは演劇に近い。好む者は食い入るように見るが、素養のない者や初めから興味のない者は退屈な時間である。成政はあまり興味が無く、すぐに離席してしまった。家康と信長の姿が見えないのも気がかりだった。

「おう成政。久しぶりだなあ」

 将軍御所を適当に歩いていると、懐かしい馬鹿の声がした。
 振り返ると一廉の武将になった利家がそこにいた。

「なんだ利家。随分と立派な姿をしているじゃあないか」
「まあな。これでも赤母衣衆筆頭だ。見栄えは良くしておかねえとな」
「馬子にも衣裳だけどな」
「孫? まだいねえよ」

 成政はそういう意味じゃないと否定しようとしたが、面倒臭くなって「殿はどちらにおわす?」と訊ねた。
 利家は「今から案内しようと思ってな」と首をしゃくった。

「面、貸せや」
「……いいだろう」

 人の誤解を恐れない物言いに懐かしさを思い出す成政。
 隣を歩いていると利家が唐突に言いだした。

「成政、お前……悪い顔になったなあ」

 ぎゅっと喉元を掴まれる言葉だった。
 さりげなく、成政は「お前の気のせいだ」と否定したが、声が震えていた。

「別に不細工になったわけじゃねえぜ。なんつーか……松永のジジイみたいだ」
「松永……あの松永弾正か?」
「ああ。もしかすると松永のジジイに引っ張られて、俺がお前をそういう風に見てしまったかもしれねえが……」

 利家は成政の顔をまじまじと見る。
 純粋だった昔と違って、荒み切った顔。
 人を裏切ってきた男の顔だった。

「すげえ悪いことでもしたのか?」
「……もしそうだ、と言ったら――お前はどう思う?」

 ここで成政が不敵な笑みを浮かべて自信満々に言ったら利家の答えは『やっぱりな。そうだと思ったよ』になっていた。
 しかし成政がほんの少しだけ疲れた表情を見せたので、利家は気遣うように「お前は働き過ぎだよ」と笑った。

「いくら徳川家のためだって言っても――限度はあるわな」
「限度? 私は自らに疲れを覚えるほど老いてはいない」
「違う。人を陥れるような真似のことだ」

 真っすぐ言われた、飾り気のない指摘だった。
 成政の顔色がさっと変わる。
 しかし利家は構わずに「自分のためにやっていることだろうが、罪悪感も覚えているだろう」と続けた。

「それで押し潰されちまったら、元も子もねえ。誰だって好んで汚れ仕事はしたくないからな」
「お前に……何が分かるんだよ……」
「分からねえよ。分かりたくもない。俺はお前の言うとおり、馬鹿だから」

 利家は「だけど、分かることはあるさ」と成政を見つめた。

「お前には、何か目的がありそうだ」
「…………」
「でも目的のために自分が駄目になるなんて、馬鹿らしいとは思わねえか?」
「…………」
「一番優先しなきゃいけないのは、お前自身だ。その順番ってのが、大事なんじゃねえか?」

 成政はふうっと息を吸って、利家に「馬鹿のくせに良いことを言うな」と笑った。
 その笑みは険の取れた、存外爽やかなものだった。

「今まで悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しくなった」
「そりゃあ良かった。ぐちぐち悩むお前の面ほど、陰気なものはねえ」
「……ありがとうな、利家」

 素直な成政の感謝に、利家は目を丸くした。
 次第に二人ともおかしくなって――笑い合った。
 昔を思い出すような、やりとりだった。


◆◇◆◇


 信長と家康のいるやや広い部屋。
 利家は「遅くなりました」と謝罪をして成政を伴って入った。
 信長は「久方ぶりだな、成政」と歓迎した。

「元気そうで何よりだ――少し顔が険しくなったか?」
「はっきりと悪くなった、とおっしゃってくださいよ」
「利家と違って、俺はそこまで厚顔無恥になれん」

 先ほどのやり取りを知っているかのような発言。
 おそらく、予想したのだと成政は思った。
 利家は信長の後ろに控えた。
 成政は家康の後ろに控えた。

「さて。若狭国の武藤家を攻めるために徳川殿を呼んだのだが……」
「織田殿。そうではないことは私にも分かる。真の狙いは――朝倉家だろう」

 家康は信長が回りくどい言い方を嫌うことを知っていた。
 だから単刀直入に切り出したのだ。
 信長は「まさしくそのとおりよ」と頷いた。

「朝倉家当主の義景――幾度も上洛を促しても、一向に腰を上げん。それは織田家並びに将軍家を愚弄する行為だ。また、義昭公が身を寄せたときも兵を挙げなかった。故に討伐する」

 戦国大名としては至極普通の言い回しに、家康も利家も反対しなかった。
 しかし、成政だけが思案していた。
 未来知識を活用すれば――浅井家が問題だ。

「織田様。一つ気がかりなことがございます」
「申してみよ」
「北近江国の浅井家です。かの家は朝倉家と懇意の間柄。もし朝倉家攻めをしている最中に、後方から攻められたら――」

 信長は「確かに、長政ならば攻めてくるだろう」と頷いた。
 長政の人柄を知らない成政は多少疑問に思ったが、続けて信長は言う。

「浅井家には一切知らせず、勢いをもって朝倉家を滅ぼす――そのほうが良かろう」
「一ついいかな、織田殿。私としては浅井家に仲立ちしてもらい、朝倉家を従わせるほうが簡単ではないか?」

 家康の発案は理にかなっている。越前国を獲るにしても、外交によって実効支配を得たほうが、今後の内政がやりやすくなる。
 しかし信長は「それでは駄目だ」と首を振った。

「織田家に従わぬ者は武力をもって討伐する。そうしなければ足利家の二の舞になる」
「武力を持たぬ支配には、意味がないと?」
「ああ。だからこそ、越前国は獲る。北陸への備えにもなるからな」

 信長の考えは分かるが、これでは史実と同じようになってしまうと成政は危惧した。
 無論、家康は助かることを知っているが、未来を変えた自分が生き残れるかは分からない。
 どうする――

「了解した。徳川家も協力しよう」
「ああ。よろしく頼む」

 成政が悩んでいる間に、協力が決定してしまった。
 これではどうにもならない。

「成政、顔色が悪いぞ? 何か心配事か?」

 話し合いが終わって両者の主君がいなくなった頃、利家は成政の様子が変だと気づき、声をかけた。
 成政は「浅井家が気になってな」と正直に話した。

「浅井家が後方から攻めてくるってやつか。なんとか阻止できねえのか?」
「……いや。私の杞憂かもしれない。気にしないでくれ」

 そんな言い方をされると、単純な利家は気になってしまう。
 しかし、朝倉家を攻めることは秘匿するべきことだった。
 だから誰にも相談できず――利家は黙るしかなかった。

 そして数か月後。
 織田家と徳川家は越前国の朝倉家を攻めることとなる。
 これには利家と成政も従軍した。
 二人とも、覚悟を決めていた。
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