第129話甲賀衆の忍び

文字数 3,124文字

 佐和山城から出陣した信長率いる織田軍は、南近江国の六角家へと攻め入った。
 総勢六万の兵をもってすれば、まず負けはない――しかし信長は油断などしなかった。
 百年近く前、六角家を討伐しようとした将軍が陣中で病死した例もある。
 そのときに活躍――暗躍したのが甲賀衆であった。

「殿。甲賀衆が六角家の兵と共に、和田山城に籠っているようです」
「で、あるか……」

 池田恒興の報告に、陣中にて思案を巡らす信長。
 傍に控えていた丹羽長秀が皆を代表して「いかがなさいますか?」と問う。

「六角家の兵はともかく、甲賀衆は厄介だ。兵糧や水に毒など入れられたら戦どころではなくなる」
「では、和田山城は遠巻きに兵糧攻めいたしますか?」

 池田の問いに首を振る信長。
 陣の中心に敷かれた南近江国の地図を眺めつつ「和田山城は無視せよ」と命じた。

「わざわざ敵の防備が固まっているところに攻め入るのは上策ではない」
「となりますと……どこを攻めますか?」
「……箕作城だな。ここを落とせば和田山城と六角家の本拠地である観音寺城を分断できる」

 信長は「佐久間と丹羽、そして猿」と三人の将に言う。

「お前たちで落としてこい。なるべく早くな」

 この主命に諸将はどよめいた。
 佐久間と丹羽は家老だから命じられて当然だが、まさか藤吉郎のような身分の軽い者が抜擢されるのは意外だったからだ。

「かしこまりました。丹羽殿、木下、参ろう」

 佐久間は文句一つ言わずに丹羽と藤吉郎を促した。
 丹羽も心得たように従い、藤吉郎は内心、動揺しつつ後に続いた。
 残された将にも次々と指示が伝わる。

「……利家はどうした?」

 信長がふと、この場に利家がいないことに気づく。
 すると同じ赤母衣衆の毛利新介が「実はここに来る道中のことですが」と申し上げた。

「甲賀衆らしき者を見かけたらしく、殿の身を守るために遅れてくると……」
「なに? あやつめ、気を使い過ぎだ」

 甲賀衆は油断ならない。
 しかし、利家ならば平気だろう。
 むしろ同情すら覚える。
 そう判断し、信長は指示を続けた。


◆◇◆◇


「おい。そこのお前」

 昼過ぎ、日がまだ高い頃だった。
 利家が話しかけたのは、岩に腰かけている旅人の装いをした男だった。
 腰には刀を差していない。だから武家ではないことが分かる。

「……なんだ貴様は?」

 明らかに鎧姿の利家に返す言葉ではなかった。
 徐々に旅人の殺気が高まっているのが伝わってくる。

「やっぱり、忍びかよ。面倒だな」
「だったら話しかけなければいいだろう」
「そうはいかねえ。そんな殺気立っている野郎が、何もしでかさないわけがない」

 旅人は岩から立ち上がり、すうっと横に移動する。
 利家も同じく移動した。互いに戦いやすい場所を選んでいるのだろう。
 そうして二人が向かったのは膝まで草が伸びている草原だった。

「貴様は名のある武将と見た。名は?」
「前田又左衛門利家……槍の又左つったら分かるか?」
「なんと。赤母衣衆筆頭の勇士か」

 旅人は驚いたように目を開いたが、一切動揺していなかった。
 それどころか懐から苦無を取り出した。

「貴様を殺せば値千金だな」
「はっ。俺は値段を付けられるほど、安い男じゃねえぜ?」

 利家は携えていた槍の先を旅人――忍びに向ける。
 忍びは「他に武士はいないようだが」と言葉を続けた。

「一人きりで戦うのか?」
「何か問題でもあるか?」
「いや、好都合だと思っただけ――だ!」

 いきなり持っていた苦無を投げる忍び。
 武士とは違い、卑怯卑劣な手段を使う彼ららしい不意打ちだった。
 しかし利家は冷静に槍で払った。
 地面に苦無が突き刺さる。

 利家はさてここからどうするか考える。
 目の前の忍びは槍の間合いに入らず、遠くから攻撃するだろう。
 近づこうにも苦無の牽制で難しい。
 奴の苦無が無くなるまで持久戦するか……いや、時間がかかりすぎる。

「……そういや、初めて見るな」

 利家は物珍しそうに苦無を拾う。
 忍びは「投げるつもりか?」と苦笑した。

「訓練を受けていないお前では真っすぐ飛ぶことすら叶わないぞ?」
「そうだな。でもま、やってみるか――」

 そう言って、投球動作に入る利家。
 せせら笑う忍びに向かって――思いっきり投げた!
 その投げられた苦無の速さは尋常ではなく、真っすぐに忍びへと一直線に迫る!

「くっ――」

 予想外の速度に忍びは焦りながらなんとか避けた。
 その隙を突いて利家が接近する。

「――ふっ!」

 投げられたのは二本の苦無。
 真横に並んでいる――利家は屈んだ。
 そうしなければ、苦無の間に張られた鉄線で首を落とされただろう。

 忍びは後方に下がりつつ、利家の足の速さに驚いていた。
 普通に走ったら追い付かれることは必定だった。
 まきびしでも巻いて逃げるか――

 忍びは戦う者ではなく忍ぶ者である。
 ゆえに敵前逃亡は恥でもなんでもなかった。
 それに『前田利家は油断ならない』という情報は今後の六角家や甲賀衆にとって重要だろう。

「逃げられると――思うなあ!」

 びゅん! と風を切りながら投げられたそれに忍びは当たってしまった。
 しかも後頭部だった。前後不覚となる。
 投げられたのは槍で、しかも槍投げの要領ではなく、槍自体が横回転した滅茶苦茶な投げ方だった。

「くう……!」

 槍先や石突ではなく、槍の中心あたりだったのが幸いし、忍びは持っていた煙幕玉を投げられた。もくもくと煙る草原。下手に進むと危ないと思った利家は煙幕を避けつつ後方に下がった。
 そして煙幕が晴れたころには、忍びはいなくなっていた。

「初めて忍びと戦ったが、あんなのがごろごろいるのか……」

 改めて厄介に感じた利家。
 投げた槍を回収して溜息をつく。

「新介たちに任せておけって言っておいて逃がすとは。情けねえぜ」


◆◇◆◇


「で、あるか。お前が逃がしてしまうとは。よほどの忍びだと言える」

 本陣に戻った利家は仔細を報告すると、信長は愉快そうに笑った。
 そして「逃がしたことは気にするな」と気遣いを見せる。

「六角家を滅ぼせば甲賀衆は解散してしまうだろう」
「そうですね。決着を付けられなかったのは残念ですが」
「ところで、お前に命じたいことがある」

 信長の主命を聞くとなって、利家は姿勢を正した。

「赤母衣衆を率いて猿の援軍をせよ」
「藤吉郎のですか? 佐久間様や丹羽様ではなく?」
「あやつの兵が一番少ないしな。それに軍師である半兵衛もいる。良い策を聞けるだろうよ」

 利家は「かしこまりました」と頷いて赤母衣衆の面々がいる陣へと向かう。
 信長は「相変わらず気持ちの良い奴だ」と笑った。

「友とはいえ、出世された格下の者の援軍に、嫌がりもせず向かうとは。分かっているのかどうか分からんが。とにかく男気のある奴だ」


◆◇◆◇


「ひどくやられましたな。頭のこぶはなかなか引きませぬぞ」
「分かっている。あの野郎、滅茶苦茶だ。武士らしくない」

 先ほどの忍びが根城に帰り、治療を受けていた。
 施しているのは年配の男だが、どうも忍びのほうが身分が高いらしい。
 丁寧な治療を受けながら「あのまま戦っていたら負けていた」と忍びは言う。

「本当に危なかった……」
「あなた様ほどの手練れにそこまで言わすとは。織田家の武士はお強いのですね」
「あの前田だけが特別だと信じたいな」
「そうでしょうとも。それに、お得意の鉄砲があれば……」
「偵察のつもりだったからな。それならば暗殺のつもりで行けば良かった」

 忍びは悔しそうにしている。
 年配の男が「終わりましたぞ」と告げる。

「今度会ったときは、必ず借りを返す……」
「執念深いですな。それでこそ、名人と謡われたお方ですぞ――」

 年配の男は畏敬を込めて忍びの名を呼ぶ。

「――杉谷善住坊殿」
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