第20話男が涙を流すとき

文字数 3,406文字

「犬千代、内蔵助。一緒に来てくれ」

 底冷えする寒さのある日。いつになく真剣で、それでいて明るさのない顔の信長に命じられた二人。犬千代は理由が分からなかったが、内蔵助は周りの噂から察していた。信長の走らせる馬の後を、同じく馬で両者は追った。

 信秀の居城である末森城に着くと、いつもは別室で控えろと命じられるはずなのに、一切何も言わずに信長は二人を伴って城内を歩き回る。そして信秀の私室の前で止まった。

「ここは親父の部屋だ。一緒に入るぞ」
「若……? 良いんですか?」

 ここまでの信長の態度と城内の重苦しい雰囲気で、鈍い犬千代でも信秀に何かあったのだと推測できた。だから言外に聞いたのだ。危篤の父親と会うのに自分たちが立ち会っていいのかと。

「……お前たちを紹介したい。そんな機会はもうないからな」

 どこか疲れきった声。二人は後ろにいるので信長の表情は見えなかったが、一言で言えば沈痛が正しいのだろうと思った。内蔵助はもちろん、犬千代も黙って従った。
 信長が部屋の襖を開けると、寝具に横たわる信秀と傍らで正座している平手政秀がいた。平手は信長だけではなく、小姓の二人がいること怪訝に思った。

「どうして、君たちも……?」
「……なんだ、政秀。信長は来たのか?」

 犬千代は四十二歳だというのに、年老いた男のように見える信秀に驚愕した。生気というものが感じられない。死相だけが目に映る印象しかない。
 内蔵助は信秀が今までたくさん戦ってきた男だと一目見て分かった。そうでなければこんなに心身が弱りきることはない。

「ああ。親父、来たぞ」

 信長はそう言って平手の向こう側、信秀の左側で顔の近くに座った。声音に悲しみはなかった。落胆もなかった。あるのは冷静さを強いた声だった。

「それで、何の用だ?」
「……家督の話だ。お前に織田弾正忠家を継がせたい」
「親父は隠居するのか?」
「ふふふ。もうわしは永くない……死んだら継げ」

 死に瀕しているのに、笑っている。身体の言うことが利かないというのに、苦しみに苛まれているのに、信秀は関係ないように笑う。

「信長……お前、尾張国をどうしたい?」
「まずは統一する。その後、他国に侵攻して勢力を広げる」
「そうやって、目指す先はなんだ?」
「天下を統一し、日の本を太平の世へと導く」

 信長はこのときばかりはうつけのふりをやめていた。自分の真の姿を晒すように今まで自分の胸中に秘めていた構想を明かす。

「尾張国は豊かな土地だ。平野が多く田畑を広げやすい。それに海もある。織田家が押さえている津島の港の税収は莫大だ。親父も知っているようにな」
「……ああ、そうだな」
「肥沃な土地による米と運上金の銭。これらを用いて、俺は農兵ではない強大な軍勢を作る。多くの人間を集めて兵として鍛え、農繁期でも戦えるようにする」

 信秀は弱りきった声で「そのようなことが可能なのか?」と問う。心配している風ではなく、興味のある声だった。

「ああできる。ここにいる犬千代と内蔵助がそうだ」

 突然、引き合いに出された二人は面食らったが、すぐにここに連れてこられた理由を悟る。信長の手招きですぐさま信秀に近づく。信秀は平手の手を借りて上体を起こした。

「ほう……お前たちが、その要か?」
「そうだ。武家や百姓の次男や三男、つまり家督を継げない者などを集めて一つの軍勢とする。この者たちは己の出世や利益のために働いてくれる」

 信長は「自己紹介しろ」と二人に命じた。

「前田犬千代です」
「佐々内蔵助です」
「……なんと頼もしそうな若武者ではないか」
「この二人以外にも大勢の若者が俺の配下としている」

 信長は信秀に自分の考えをさらに続けた。

「もちろん、人を集めるだけではない。銭で買える有益なものは全て買う。一丁ではあまり役に立たぬ鉄砲を大量に購入する。それに武器も工夫する。三間半の長槍を用いた長槍隊でどんな相手よりも強い軍勢を創設する!」

 次第に熱のこもった口調になる信長。その場に居る犬千代や内蔵助、平手政秀や信秀を引き込んでいく。

「それと銭を持つことで分かったこともある。銭を多く持つ者には不思議と銭が集まってくる。おそらく儲けられると踏んで投資する者やおこぼれに預かろうとする商人がやって来る。これを利用しない手はない。だから関所を撤廃して商人たちを誘致する」
「そうやって、織田家は銭を多く持つことになるのだな……」

 無論、信秀に全てが理解できたわけではない。だが根本は分かっていた。彼もまた銭の有益さと恐ろしさを熟知していた。だからこそ、朝廷に多額の献金ができていたのだ。

 しかし信長の考えは信秀の理解を超えていたところもあった。だからこそ、病床の今になって信長の有能さや計り知れない器のでかさを知った。

「信長……お前を後継者にして、良かった」

 だからだろう。今まで信長本人に言ったことがない本心を信秀は言ってしまった。
 信長は生まれて初めて、父親に褒められたことを一瞬遅れて自覚した。

「な、なにを――」
「お前なら、もしかすると、天下を統一できるかもしれん」

 傍に控えていた内蔵助は、死に際の者は嘘をつかないと前世の最期に知っていた。首を吊って死んだとき、遺書に自分の思いを吐露したときと一緒だったと思った。

「今までわしは、お前につらく当たってきた。後継者として鍛えようと思ってのことだが、それは不要だったな。とんびが鷹を産むとはまさにこのことだ」
「なに、言っているんだ。親父がいなかったら、俺の考えなど水泡に帰す……」

 信長の手が震えていることに気づいたのは犬千代だけだった。おそらく大きな悲しみが心を占めているのだろう。同時に褒められて感激していることも。

「信長……これだけは、言っておかねばならん……お前の母親、土田御前と弟の信行に気をつけろ……」
「……いずれ謀叛を起こすことは分かっている」
「ああ、そうだろうな。だから、一つだけ願いを聞いてくれ……」

 信秀は身内に甘い男だった。それは今わの際でも変わらない。

「一度だけ、許せ……」
「…………」
「……頼む」

 信長は唇を噛み締めた。慈悲の心はもちろんある。それに親父の最期の頼みならば聞かねばならないと分かっていた。

「分かった。一度だけ許そう。だが二度目は斬る」
「……それは、仕方ないな」
「俺は親父ほど甘くはない。だが身内は大切にする。それは約束するぞ」

 信秀は平手に「寝かせてくれ」と命じた。今まで黙っていた平手は忠実かつ配慮を持って主君を寝かせた。そして上を見上げる。下を向けば涙が零れてしまうから。

「これで、思い残すことはない……政秀、今まで苦労をかけたな。礼を言う」
「もったいなき、お言葉です」

 信長は信秀を静かに見送ろうと決めていた。決して取り乱すことなく、穏やかに逝かせてあげようと思っていた。
 しかし、その思いを、信長は放棄する。

「ふざけるな! 親父、死ぬんじゃない!」
「わ、若……」

 犬千代と内蔵助は、初めて見る信長の涙に驚いていた。しかし一人の子として、親の死に直面したのだ。考えてみれば動揺するのは当然のことだった。

「俺が尾張国を統一するまで生きてくれ! 頼む!」
「ははは……お前、悲しんでくれるのか……」

 信秀は満足そうに笑った。親として子の成長を見られた喜びで一杯の表情だった。
 もはや思い残すことはないという晴れ晴れとした顔でもあった。

「織田家を頼んだぞ、信長……」

 満面の笑顔でそう言って。
 そのまま――信秀は息を引き取った。

「親父……? 親父!」

 信秀の身体に縋りつく信長。
 平手は目を瞑って、主君の冥福を祈る。

 犬千代は思う。一人の親として立派だったと。そして一層、若のために励まなければならない。

 内蔵助は考える。信秀が亡くなったことで、信長が歴史の表舞台に立つと。己の生き残りをかけた戦いが始まる。

 信長はただただ悲しみにくれていた。そのせいで胸が張り裂けそうだった。
 これから彼の戦いが始まる。それは重々分かっていた。
 だがこのときだけは、涙を流して、悲しみに暮れていたかった。
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