第71話男泣き

文字数 3,644文字

「――そんなことがあったのか。あいつ、馬鹿なことしやがって」

 清洲城の一室で、仔細を新介と小平太に聞いた成政はなんとも言えない表情で呟いた。彼の胸中にあったのはやるせない思いだった。利家が兄と妻を大事にしていることは分かっていた。拾阿弥とも仲が悪いということも重々承知していた。

 しかし、もっとも成政を酷く動揺させたのは『このことが分かっていた』という事実だ。
 いや、事実ではなく史実と言うべきだろう。
 成政は全て分かった上で放置していた。起こるべきことを見過ごしていたのだ。

「成政……利家どうなるのかな……柴田様と森様が殿を宥めているけど……」
「……さあな。私にはよく分からない」

 これは嘘だった。利家の処遇がどうなるのかも成政は分かっていた。
 しかし心配そうな小平太に全てを明かすわけにはいかない。だから誤魔化すことにした。

「まさか、死罪になるとかねえよな?」
「おい、新介! 言っていいことと悪いこと、あるだろうが!」

 新介の言葉に激高した小平太が怒鳴って胸ぐらを掴む。
 それは不安の表れであったのは言うまでもない。

「殿が利家を切腹させるわけねえだろ!」
「俺だって信じたいよ! でも殿の前での狼藉を――」
「やめろ二人とも!」

 成政は険しい顔と厳しい声で二人を叱責する。それらは迫力が伴っていて、二人は動きを止めてしまった。成政は冷静に自分も相当焦っているんだなとどこか遠くで思っていた。

「殿のことを信じるしかないだろう。それに利家の活躍を鑑みれば軽い処分で済むに違いない」
「……そうだな。信じるしかないな」
「ああもう! なんか歯がゆいなあ!」

 三人は全員、不安が渦巻いていたのだろう。各々黙り込んで必死に耐えていた。
 そのとき、がらりと襖が開いた。
 一斉に三人がその方向を見ると、そこには森可成が立っていた。

「……成政。殿がお呼びです。主命の報告が聞きたいと」
「かしこまりました。すぐに向かいます」

 成政は新介と小平太に「行ってくる」と立ち上がり、可成の後に続く。
 部屋を出る際、二人の悩んだ顔が見えて、ますますやるせない気持ちになった。

 城の廊下を二人静かに歩く。会話はなかった。成政と可成はさほど親しい間柄ではない。しかし利家を通じてどういう人間か分かっていた。
 だから互いの心を慮って無言を貫いた。

「殿、成政を連れてきました」
「……通せ」

 信長が普段より一段と低い声音で許可を出した。
 成政は一礼して、評定の間に入る――信長の顔は暗かった。
 中には柴田や丹羽、滝川らがいた。全員、成政に注目する。

「ご苦労だったな、成政。他の者は下がれ」
「殿! まだ話は――」
「下がれ、と言ったのが……聞こえんのか?」

 信長の威圧に柴田は二の句が告げられなかった。
 丹羽が「参ろう」と小さな声で促した。滝川が先に黙って立ち、柴田が最後に退座した。
 評定の間を出るとき、柴田は少しだけ成政に視線を向けた。どこか期待している目だった。

「では報告を聞こう。武田は協力してくれるのか?」

 成政が座るとさっそく信長は急かすように訊ねた。
 利家の件もあって早く聞きたいのだろう。
 成政は前口上無く、報告を始めた。

「武田信玄公と話し合えました。忍びを使って今川義元の居所を逐一報告してくれるそうです」
「ほう。上々ではないか。後は義元が出陣さえすれば、討ち取れそうだな」
「ええ。そのとおりかと」
「それにしても、どうやって信玄公と接触できたのだ?」

 成政は「長坂釣閑斎という武田家家臣に仲介してもらいました」と正直に答えた。

「彼の者は出世欲が強く、自身が仕えている武田勝頼を跡継ぎにしたいと考えていると聞いていましたので……」
「うん? ……ああ、武田義信は今川義元の娘を嫁にしていたな。なるほど、上手く考えたものだ」

 そう感心するものの、信長の表情は一切変わらない。
 まるで痛みを堪えているようだった。
 成政は「ありがたき幸せ」と頭を下げ、次の言葉を待つ。

「褒美を取らせよう。好きに申せ」
「……では、内蔵助の功績に免じて、犬千代を助けてやってください」

 ぴくりと頬を引きつらせる信長。
 敢えて幼名――昔の呼び方で、成政は懇願した。情に訴えるつもりだった。

「お前も、利家を助けたいと申すのか?」
「ええ。そのとおりです」
「信勝のときもそうだった。利家のことが嫌いではないのか?」

 成政は「ええ、嫌いですよ」と答えた。

「暑苦しい馬鹿ですよ。憎めないほど。真っ直ぐな馬鹿ですよ。眩しすぎますね。鬱陶しい馬鹿ですよ。助けてくれたこともあります。面倒を見るのが馬鹿馬鹿しくなるくらいの馬鹿です。だからほっとけなくて手を焼いて仕方ないです。だから――嫌いですよ、あんな奴」

 成政は一度言葉を区切って――

「でも死んでいい奴ではありません。嫌になるほど嫌いですけど、あいつがいなくなるのは淋しいです。だからどうか、死罪だけは、どうか」

 ――利家のために、頭を下げた。

「……で、あるか」

 成政が頭を下げてきたのを何度も見てきた。
 しかしこのときだけは、今までと違って――覚悟があった。
 信長も溜息を漏らすくらいの美しい覚悟。

「利家も幸せ者だ。いや、ある意味不幸かもしれんな」

 信長はやれやれといった感じで苦笑した。
 そして成政に優しく告げた。

「お前のような好敵手がいるのは、嬉しくもあり苦しくもあるな」
「殿……もったいなきお言葉です」
「勝家や可成、それに大勢の者から止められては、処分も難しい。分かった、死罪にはしない」

 それを聞いた成政の顔がぱあっと輝いた。
 信長はなんだこいつ、そういう表情もできるのかと笑った。
 しかし――

「だがお咎めなしでは家中に示しがつかん。それは分かるな?」
「……ええ。分かります。殿が何をおっしゃりたいのも」
「ほう。ならばお前は耐えられると思うか? あいつにこの罪が」

 成政は「耐え切れますよ」と即答した。
 好敵手に対する多大な信頼でもあった。

「あいつは、きっと戻ってきます。私はそう信じますよ」


◆◇◆◇


 清洲城の牢屋。
 手枷をつけられた利家は正座して静かに処分を待っていた。
 拾阿弥を斬ったときから、既に覚悟を決めていた。死ぬのは二度目だが、見苦しくないように潔く切腹できたらいいと思っていた。

 かつんかつんと足音がする。誰かがやって来たと思い、閉ざしていた目を開ける。
 足音が止まり、その正面には――成政がいた。

「よう、成政。いつ戻ったんだ?」
「ついさっきだよ。まったく、馬鹿だ馬鹿だと思っていたら、こんなことしやがって。大馬鹿野郎だよ」
「うるせえ……お前が俺の処分を言い渡すのか? まあそうだろうな」

 利家はすうっと背筋を伸ばして「いつでもいいぜ」と言う。

「ここで切腹するのか? ま、柴田様たちに詫びできなかったのは残念だな」
「ふん。何を勘違いしているんだよ」

 成政は手に持っていた鍵を見せ付けてから錠を外した。
 何事か理解できない利家だが「まさか逃がしてくれるってわけじゃねえよな?」と訊ねた。

「まさかだろう? そんなことしたら私まで切腹だ」
「なら何してんだ?」
「お前は死罪にならないよ。殿がそう裁決してくださった」

 牢屋の中に入り、利家の手枷の錠も外す成政。
 それから成政は――利家の頬を平手で殴った。

「この馬鹿野郎が。お前が死んだら、平手様やまつ殿、死んだ兄に申し訳ないと思わなかったのか?」
「…………」
「いい加減、自分一人じゃないってことに気づけ、馬鹿」

 利家は顔を伏せて「悪かった」とだけ言った。
 成政は鼻を鳴らして「お前の処分を言い渡す」と言う。

「織田家からの追放だ」
「……追放で、いいのか?」
「何言っているんだ? 浪人になるんだぞ? 重い処分だろう?」

 成政は「城から出て行け」とだけ告げた。
 利家は無言のまま、立ち上がった。

「そうそう。お前の刀や荷物は上の部屋に置いてある。取って行け」

 成政はそれだけ言って、利家を置いて牢屋から出た。
 利家はこれからどうしようと思いつつ、成政が出て行ってしばらく経ってから、上の部屋に移動した。

 部屋には確かに利家の刀と荷物が置いてあった。
 しかしその中に見慣れない紫の包みがあった。
 不審に思い、中を開けると、そこには十貫文の銭が入っていた。

「これは……? 一体、誰が?」

 利家はしげしげと包みを眺めて――気づいた。
 包みには村井家の家紋が入っていた。

 利家と村井貞勝に接点はない。あるとしたら彼の娘を妻にする予定の成政である。
 だとしたら、これは成政が用意したものかもしれない。

「……う、ううう」

 利家は知らない。成政が自分からの餞別だと分からないように、村井貞勝に頼んで銭を用意してもらったこと。そして村井のおせっかいで家紋入りの布を使われたことを。

 しかし、利家は成政からの贈り物だと分かってしまった。これからの暮らしの足しにしろと、握られた十貫文の銭は言っているようだった。

「あの野郎……ちくしょう……」

 利家の目から熱いものが零れた。
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