第135話人間の証

文字数 3,057文字

 松永久秀が利家の説得により降伏した――その知らせを聞いた信長は唖然とした後に「ふははは、利家め。やりよるわ!」と大笑いした。
 すぐさま摂津国の芥川城にて会見の準備が整えられた。集まったのは佐久間や丹羽、柴田や森と言った織田家の重臣だった。

 その中には明智光秀と木下藤吉郎もいた。明智はもしも信長の身に何かあれば即刻松永を斬るつもりだった。藤吉郎は天下の大悪人か、とても恐ろしいなと内心怯えている。
 利家の先導で久秀が信長と相対する――余裕綽々に笑っていた。

「松永弾正。こたびは降伏するとのこと。相違ないか?」
「違いませぬ。儂は織田殿に降伏いたします」

 諸将の間におお、と感嘆の声が響き渡る。
 信長は満足そうに「利家、見事である」と褒めた。
 しかし利家は「俺が、ですか?」と首を捻った。

「お前の説得で松永は降伏したと、書状に書いてある」
「いえ、説得など……おい、おっちゃん。どういうことだ?」

 天下の大悪人、そして大和国を支配する松永久秀に対し、気安くおっちゃん呼ばわりする利家。
 これには柴田が「こら利家! 口を慎め!」と怒った。

「無礼であろうが!」
「あ、すみませんでした……」
「良いのですよ、柴田殿。儂が許しました――ま、元々降伏するつもりだったのだがな。お前の手柄になればいいと思って」

 久秀がにやにやとあくどい笑みを浮かべた。
 利家は「へっ。そんなくだらねえ手柄要るかよ」と突っぱねた。

「戦働きで手柄は取る。あんたの情けは要らん」
「そうか。真っすぐな男だな。まるでイノシシ侍だ」
「……褒めてねえのは分かるぜ」

 場が些か濁ってしまったのを感じ取った信長はぱあんと柏手を打って「話はよく分かった」と言う。
 そしてぎろりと久秀を睨んだ。

「いきさつがどうであれ、降伏したのは間違いない。それは認めよう」
「それと、こちらに手土産が……」

 久秀が差し出したのは茶入だった。
 それも見事な形の唐物茄子茶入で、物の価値が分からぬものでも素晴らしいと思えるものだ。

「九十九髪茄子でございます」
「なに!? 天下三茄子の一つのか!?」

 信長が驚くのは無理もない。
 あの三代目将軍、足利義満が愛用した名茶器だからだ。
 久秀は惜しむことなく「降伏の証として受け取ってくだされ」と言う。

「であるか。ならば貰っておこう」
「それで、大和国のことは?」
「この名器に免じて、そのまま治めても良い」

 久秀は深く頭を下げて「かしこまりました」と感謝した。
 その後、利家と久秀が退出し、その場には柴田勝家と森可成、丹羽長秀と佐久間信盛、明智光秀と木下藤吉郎だけが残った。

「殿、よろしいのですか?」

 明智の言葉に信長は「あれは器量がある。精々、利用すれば良い」と笑った。
 柴田と丹羽は何と甘いことだと思いつつ頷くしかなかった。

「それで、義昭公が将軍位に就く準備は整ったのか?」
「ええ、つつがなく行なわれております」
「光秀、しばらく将軍の補佐をせよ。いつ何時戦になるか分からんからな」

 明智は短く「承知」と答えた。
 信長は「猿、京の市中の様子はどうだ?」と訊ねた。

「はは。全て順調にございます。食い逃げどころか、落とした物をネコババするものもおりません」
「であるか。ならばよし――」

 信長の満足げな顔で一同はほっとした。
 これでようやく己の務めを終えられると思ったからだ。

「畿内の三好三人衆の勢力は弱まった。しかる後、岐阜城へ凱旋する」
「京に兵は残していきますか?」
「いや、兵糧のこともある。少数だけにしよう」

 信長は「家康の奴が駿河国攻めをするそうだ」と言い出した。

「もしかすると、武田家の進攻が始まるかもしれん。その備えとしても軍は必要だ」

 徳川家と聞いて、可成が真っ先に思ったのは佐々成政のことだった。
 彼は今、何をしているのだろうか――


◆◇◆◇


「織田殿は聡明な男だな。儂の意図を見破りおった」
「そりゃあ、殿だもんな。ていうか意図ってなんだよ?」

 久秀に与えられた部屋で利家は彼の相手をしていた。
 他の者は天下の大悪人と知っているので恐れている。
 必然、相手ができるのは利家しかいなかった。

「素直に訊けるのは美徳だが、些か真っすぐすぎるな」
「まあな。捻くれたジジイの相手すんのは慣れている」

 己の親父と政秀寺の沢彦和尚の顔が浮かんだ利家。
 だから目の前の悪人に親しみを覚えるのかもしれない。

「聞けばなんでも教えてくれると思い込んでいないか? 己で考えるということをしてきていない――そんな印象を受ける」
「どう思われようが構わねえ。でもま、当たりだな。俺は考えることが苦手で、殿に従っているだけだ」
「武勇だけではいずれ捨てられるぞ? 少しは学んだほうがいい」

 しかし久秀は目の前の男に助言をしているのを奇妙に思っていた。
 どうにもほっとけない気がする。
 目を離すとあっさりと死んでしまいそうになるから。
 だから信長もこの男を重用しているのだなと久秀は思った。

「儂の意図はともかく、これから織田家は将軍のために戦うことになるだろう」
「今だって戦っていることに変わりないぜ」
「天下泰平のために戦う――そんなものはまやかしなのにな」

 利家は沢彦のジジイと同じこと言ってらあと思った。
 へへ、沢彦よ。あんたはやっぱり悪人よりの善僧だったんだな。

「まやかしだからこそ、目指すんだよ。現実にあるもんだけ望んでいたら、この世に欲しいものが無くなるときが来るじゃねえか」
「むう。小賢しいことを言いよる」
「まやかし、いや夢があるからつらい現実を受け入れて、人は戦うんだよ」

 久秀は目の前の大男の評価を改めた。
 何年も高僧と対話しているからこそ出る言葉だと思えた。

「それに将軍の権威があるんだ。従わねえ大名なんざいねえ」
「どうかな? 甘い考えだと思うが」

 利家の楽観的な考えに水を差すような、現実主義の考えをする久秀。

「時勢の読める大名だらけなら、百年近く戦国乱世が続くと思うか?」
「……読めねえ奴らばかりだから、続いたのか?」
「お前のように、意地っ張りな者もいれば、己の軍事力を過信するものもいる。血筋や家柄、血族に縛られて正しい判断ができぬ者もいる……世の中、道理が通らぬことが多すぎる」

 利家は久秀の言っていることが頭では分かっているが、真に理解できなかった。
 こちらが情をもって行なえば――なんとか落としどころがつくだろうと考えた。
 松永久秀のような大悪人でも従ったのだから。

「俺はさっきも言ったけど、難しいことを考えられるほど、頭が良くねえ」

 利家は久秀ではなく、自分に言い聞かすように語った。

「俺の力が及ばないことが多い。家中だけじゃなくて、外の大名に対する備えとかできねえ。俺は何でもできる男でもねえ。槍働きしかできねえ、戦馬鹿だ。だけどよ――それでいいと思っている。ただ殿のために働く先兵でもいいと思っている。出世なんざどうでもいい。俺は殿の背中を追うだけだ。あるいは殿の敵を打ち滅ぼすだけだ」

 久秀は急に、信長のことが羨ましくなった。
 利家の真っすぐな思いが眩しすぎると彼は感じた。

「そうか……ならば突っ走れ」

 松永久秀にしてみれば珍しく、利家を応援したくなった。
 死ぬには惜しいと思ってしまったのだ。

「戦国乱世を突っ走り――その夢の果てを見よ。そして叶えるのだ。主君の野望と己の願望を。それこそが人の欲の根源。何かが欲しいと思えることこそ、人間の証なのだ」

 利家は「言われるまでもねえ」と笑った。

「俺は真っすぐ生きるだけだ。今までと変わりはしねえ」
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