第149話武田対策
文字数 3,075文字
姉川の戦いも終わり、徳川家は遠江国へと帰還した。
成政は自身の精鋭部隊である黒羽組の創設に着手した。先の戦で磯野員昌を止めたのが利家率いる赤母衣衆だったことを聞いて、自身もそのような部隊が欲しいという気持ちが強まっていた。
本多忠勝と榊原康政にも協力してもらい、ようやく目途が立ちつつあったとき、家康から武田家への対策についての評定を開きたいとの通達があった。未だ二百しか集めていない状態だが、しかたあるまいと成政は浜松城の評定の間へと赴いた。
いつも通り、酒井忠次と石川数正、大久保忠世などの家老たちが勢揃いしていた。
成政が着座すると、奥から家康が現れ「皆の意見が聞きたい」と開口一番に言う。
「武田信玄が駿河国を狙っているとの知らせが入った。無論、防ぐための対策を講じたい」
今や徳川家は東海道を支配する大大名である。
岡崎の商業政策も上手くいっており、銭も豊かでしかも鉄砲も少なくない数揃っている。
武田家に対抗できなくはない。
「恐れながら、駿河国に軍勢を集め、進攻を阻むのはいかがでしょうか?」
大久保の意見に酒井は「正攻法だが、それしかあるまい」と賛同した。
「我らが軍勢三万を駿河国に駐在させれば時を稼げます。武田家は農兵が中心。農繫期になれば軍勢は自然と引きましょう」
酒井の言葉に家康は頷いた。
石川はちらりと成政を見た。その視線に気づかない成政ではない。
「いかがした、石川殿」
「佐々殿も何か意見があるのではないか?」
成政に注目が集まる。
しかし彼は「大久保殿と酒井殿の意見に賛同いたす」と返した。
「それしか方策は無さそうだ。まあ浜松城が寡兵にならぬように気をつければいい」
「……なるほどな」
成政が折り合いの悪い酒井と大久保の意見を尊重したので、石川は拍子抜けした気分だった。
しかし、三人の考えを上回るほどの策を持ち合わせていない石川は賛同するしかなかった。
次の議題である誰が駿河国の駿府城を守るかを決める最中、成政は考える。
もし、信玄が駿河国ではなく、遠江国や三河国を攻めてきたら?
後方支援に特化した岡崎を焼かれてしまえば、成政が構想していた戦ができなくなる。
さらに言えば、浜松城を直接狙ってくる可能性も捨てきれない。
けれども、そんな消極的な考えを言ったところで、守りを固める策を取りやめては、今度は駿河国が危うくなる。
駿河国を獲られては、残りの二国が狙い放題だ。
だから、己の考えすぎということで済ませるしかなかったのだ、成政としては。
「それでは大久保忠世に駿府城を任す。これにて評定を終わりとする」
評定が終わり、成政はその場から去ろうとする――とそこで家康に「成政。そなたに頼みがある」と呼び止められた。
「ははっ。何の主命でございますか?」
「岡崎の竹千代……いや、信康の様子を見てきてくれないか」
つい先日、竹千代は岡崎城主に就いたのをきっかけに元服し、徳川信康となっていた。
成政は、そういえば本多正信と話さなくてはならない事柄があるのを思い出し「承知仕りました」と言う。
「あれはそなたのおかげで優秀な若者になった。感謝いたす」
「もったいないお言葉にございます」
家康が上機嫌に言ってくれたので、成政も嬉しくなる。
ということで急ぎ浜松城から岡崎城へと成政は向かった。
道中、城下町の工場の様子を見つつ、上手く商業が回っているなと確認した。
そして岡崎城の広間にて、信康と謁見する成政。
「おお! 成政、久しぶりではないか!」
若い頃の家康によく似た顔立ちの信康は親愛の笑みを浮かべて成政を歓迎した。
成政は「ご無沙汰しております」と頭を下げる。
「良い良い。それより何の用だ? 父上からの主命か?」
「実は様子を窺いに参りました。浜松より献上したきものもございます」
浜松の特産品は別室に置いてある。
信康は「気を使いすぎるなよ」と気安く笑った。
「お前にはたくさんのことを学んだ。おかげで岡崎はますます栄えるぞ」
「いえ。若様のご人徳とご手腕の賜物でしょう」
実を言えば岡崎城は成政が精魂込めて内政を行なっていた。
それを本多正信が引き継いでいるのだから、どんな者でも治められる。
信康は気づいていないが、成政はわざわざ言う必要はないと思っていた。
その後、雑談をしてからそろそろ職務に入る信康を見送って、成政は井伊家の跡継ぎである虎松に会いに行った。
岡崎城の訓練場で槍の稽古をしている少年――虎松だ――に成政は声をかけた。
「精が出るな、虎松」
「――ああ! 佐々様! お久しゅうございます!」
成政と見るや素早くお辞儀をする虎松に「そう堅くならずともいい」と肩に手を置いた。
尊敬の眼差しで見る虎松。
成政は「実はお前に話があるんだ」と言う。
「話ですか? なんでしょうか?」
「黒羽組という精鋭部隊を作っている。その組頭補佐にお前を就けたいのだ」
いきなりの申し出に「えっ!? 私が!?」と目を白黒させる虎松。
成政は「しばらく考える時間をやろう」と言った。
「お前は私を超える逸材だ。だからこそ、強くあってほしい」
「さ、佐々様……」
「他にやるべきことがなければ、私についてこい。一人前の男にしてやる」
虎松は成政をじっと見て「悩むことなどありません」ときっぱり言った。
「是非、やらせてください! お願いします!」
成政は満足そうに「お前ならそう言ってくれると信じていた」と笑った。
「詳しい話は黒羽組ができてからしよう。それまで稽古を励むがいい」
「――はいっ!」
◆◇◆◇
「これは佐々様。いらっしゃるのなら出迎えたものを――」
「私も突然の主命だったのだ。それに出迎えなどいい」
徳川家の勘定奉行として辣腕を振るっている本多正信と会えたのは、夕方近くの頃だった。
正信は岡崎城の彼に与えられた部屋で政務をしていた。
成政は「岡崎の商業政策は上手くいっているようだな」と腰を下ろした。正信は膝を壊しているので、座っての対談が二人の主だった。
「ええまあ。三河木綿だけではなく、鉄砲の生産も上手くいっております。ただ、鉛の仕入れが……」
「織田家も入用なのだ……そうだな、新しい取引先を考えよう」
堺の豪商である今井宋久との取引は順調だが、それが独占してしまうと危ういと感じていた。
だから京の茶屋四郎次郎という三河出身の商人にも交渉しようと考えた。
「正信殿。何か他に問題はないか?」
「商業的には問題は無さそうですが」
「なんだ。他に問題でもありそうな言い方だな」
「実は政策が回り過ぎて、私と大蔵殿ではまとめきれなくなったのです」
成政は「文官を揃えたつもりだが」と苦い顔になった。
「それでも足りないのか?」
「作業は文官たちでまかなっています。しかし、先見性のある指導者が少なすぎる」
「……兵はいても指揮官が足りないのか」
そこまで考えなかった成政。
家康に相談しようと決意する。
「まあ嬉しい悲鳴であることには変わりないですね」
「そうだな。ここまで発展するとは思わなかった。正信殿のおかげだ」
「お褒めの言葉、感謝いたします」
素直に受け取るものの、正信は自身の手柄とは思えなかった。
これまでの政策は全て、成政が決めていた。
自分はそれを全うしたに過ぎない。
「ああそうだ。鉄砲をあるだけ浜松城に移送してくれないか?」
「駿府城ではなく、浜松城ですか? 何故ですか?」
成政は口角をあげて「念のためさ」と言う。
正信は随分と悪い顔だなと思いつつ「かしこまりました」と了承した。
悪い顔のときは成政の策が当たるのだと分かっていたのだ。
成政は自身の精鋭部隊である黒羽組の創設に着手した。先の戦で磯野員昌を止めたのが利家率いる赤母衣衆だったことを聞いて、自身もそのような部隊が欲しいという気持ちが強まっていた。
本多忠勝と榊原康政にも協力してもらい、ようやく目途が立ちつつあったとき、家康から武田家への対策についての評定を開きたいとの通達があった。未だ二百しか集めていない状態だが、しかたあるまいと成政は浜松城の評定の間へと赴いた。
いつも通り、酒井忠次と石川数正、大久保忠世などの家老たちが勢揃いしていた。
成政が着座すると、奥から家康が現れ「皆の意見が聞きたい」と開口一番に言う。
「武田信玄が駿河国を狙っているとの知らせが入った。無論、防ぐための対策を講じたい」
今や徳川家は東海道を支配する大大名である。
岡崎の商業政策も上手くいっており、銭も豊かでしかも鉄砲も少なくない数揃っている。
武田家に対抗できなくはない。
「恐れながら、駿河国に軍勢を集め、進攻を阻むのはいかがでしょうか?」
大久保の意見に酒井は「正攻法だが、それしかあるまい」と賛同した。
「我らが軍勢三万を駿河国に駐在させれば時を稼げます。武田家は農兵が中心。農繫期になれば軍勢は自然と引きましょう」
酒井の言葉に家康は頷いた。
石川はちらりと成政を見た。その視線に気づかない成政ではない。
「いかがした、石川殿」
「佐々殿も何か意見があるのではないか?」
成政に注目が集まる。
しかし彼は「大久保殿と酒井殿の意見に賛同いたす」と返した。
「それしか方策は無さそうだ。まあ浜松城が寡兵にならぬように気をつければいい」
「……なるほどな」
成政が折り合いの悪い酒井と大久保の意見を尊重したので、石川は拍子抜けした気分だった。
しかし、三人の考えを上回るほどの策を持ち合わせていない石川は賛同するしかなかった。
次の議題である誰が駿河国の駿府城を守るかを決める最中、成政は考える。
もし、信玄が駿河国ではなく、遠江国や三河国を攻めてきたら?
後方支援に特化した岡崎を焼かれてしまえば、成政が構想していた戦ができなくなる。
さらに言えば、浜松城を直接狙ってくる可能性も捨てきれない。
けれども、そんな消極的な考えを言ったところで、守りを固める策を取りやめては、今度は駿河国が危うくなる。
駿河国を獲られては、残りの二国が狙い放題だ。
だから、己の考えすぎということで済ませるしかなかったのだ、成政としては。
「それでは大久保忠世に駿府城を任す。これにて評定を終わりとする」
評定が終わり、成政はその場から去ろうとする――とそこで家康に「成政。そなたに頼みがある」と呼び止められた。
「ははっ。何の主命でございますか?」
「岡崎の竹千代……いや、信康の様子を見てきてくれないか」
つい先日、竹千代は岡崎城主に就いたのをきっかけに元服し、徳川信康となっていた。
成政は、そういえば本多正信と話さなくてはならない事柄があるのを思い出し「承知仕りました」と言う。
「あれはそなたのおかげで優秀な若者になった。感謝いたす」
「もったいないお言葉にございます」
家康が上機嫌に言ってくれたので、成政も嬉しくなる。
ということで急ぎ浜松城から岡崎城へと成政は向かった。
道中、城下町の工場の様子を見つつ、上手く商業が回っているなと確認した。
そして岡崎城の広間にて、信康と謁見する成政。
「おお! 成政、久しぶりではないか!」
若い頃の家康によく似た顔立ちの信康は親愛の笑みを浮かべて成政を歓迎した。
成政は「ご無沙汰しております」と頭を下げる。
「良い良い。それより何の用だ? 父上からの主命か?」
「実は様子を窺いに参りました。浜松より献上したきものもございます」
浜松の特産品は別室に置いてある。
信康は「気を使いすぎるなよ」と気安く笑った。
「お前にはたくさんのことを学んだ。おかげで岡崎はますます栄えるぞ」
「いえ。若様のご人徳とご手腕の賜物でしょう」
実を言えば岡崎城は成政が精魂込めて内政を行なっていた。
それを本多正信が引き継いでいるのだから、どんな者でも治められる。
信康は気づいていないが、成政はわざわざ言う必要はないと思っていた。
その後、雑談をしてからそろそろ職務に入る信康を見送って、成政は井伊家の跡継ぎである虎松に会いに行った。
岡崎城の訓練場で槍の稽古をしている少年――虎松だ――に成政は声をかけた。
「精が出るな、虎松」
「――ああ! 佐々様! お久しゅうございます!」
成政と見るや素早くお辞儀をする虎松に「そう堅くならずともいい」と肩に手を置いた。
尊敬の眼差しで見る虎松。
成政は「実はお前に話があるんだ」と言う。
「話ですか? なんでしょうか?」
「黒羽組という精鋭部隊を作っている。その組頭補佐にお前を就けたいのだ」
いきなりの申し出に「えっ!? 私が!?」と目を白黒させる虎松。
成政は「しばらく考える時間をやろう」と言った。
「お前は私を超える逸材だ。だからこそ、強くあってほしい」
「さ、佐々様……」
「他にやるべきことがなければ、私についてこい。一人前の男にしてやる」
虎松は成政をじっと見て「悩むことなどありません」ときっぱり言った。
「是非、やらせてください! お願いします!」
成政は満足そうに「お前ならそう言ってくれると信じていた」と笑った。
「詳しい話は黒羽組ができてからしよう。それまで稽古を励むがいい」
「――はいっ!」
◆◇◆◇
「これは佐々様。いらっしゃるのなら出迎えたものを――」
「私も突然の主命だったのだ。それに出迎えなどいい」
徳川家の勘定奉行として辣腕を振るっている本多正信と会えたのは、夕方近くの頃だった。
正信は岡崎城の彼に与えられた部屋で政務をしていた。
成政は「岡崎の商業政策は上手くいっているようだな」と腰を下ろした。正信は膝を壊しているので、座っての対談が二人の主だった。
「ええまあ。三河木綿だけではなく、鉄砲の生産も上手くいっております。ただ、鉛の仕入れが……」
「織田家も入用なのだ……そうだな、新しい取引先を考えよう」
堺の豪商である今井宋久との取引は順調だが、それが独占してしまうと危ういと感じていた。
だから京の茶屋四郎次郎という三河出身の商人にも交渉しようと考えた。
「正信殿。何か他に問題はないか?」
「商業的には問題は無さそうですが」
「なんだ。他に問題でもありそうな言い方だな」
「実は政策が回り過ぎて、私と大蔵殿ではまとめきれなくなったのです」
成政は「文官を揃えたつもりだが」と苦い顔になった。
「それでも足りないのか?」
「作業は文官たちでまかなっています。しかし、先見性のある指導者が少なすぎる」
「……兵はいても指揮官が足りないのか」
そこまで考えなかった成政。
家康に相談しようと決意する。
「まあ嬉しい悲鳴であることには変わりないですね」
「そうだな。ここまで発展するとは思わなかった。正信殿のおかげだ」
「お褒めの言葉、感謝いたします」
素直に受け取るものの、正信は自身の手柄とは思えなかった。
これまでの政策は全て、成政が決めていた。
自分はそれを全うしたに過ぎない。
「ああそうだ。鉄砲をあるだけ浜松城に移送してくれないか?」
「駿府城ではなく、浜松城ですか? 何故ですか?」
成政は口角をあげて「念のためさ」と言う。
正信は随分と悪い顔だなと思いつつ「かしこまりました」と了承した。
悪い顔のときは成政の策が当たるのだと分かっていたのだ。