第116話皆が泣いた日

文字数 3,566文字

 鵜殿長照が城主を務める上ノ郷城を攻め落とす戦に、成政は一軍を任された。松平家の家老なのだから当然の扱いだったが、成政はあまり好ましくなかった。後詰、つまり後ろで守りを固める役目で、先陣を切ることもなく、先軍の大将でもなかった。

 彼は工場などの商業政策を松平家で担当しているが、本来は戦で活躍する武将だった。それなのに後ろで控えるよう取り計られたのは家中の意見からだった。

「佐々殿は今や松平家に無くてはならぬ家老である。危うい先陣など任せられん」

 酒井や大久保、鳥居などが家康に進言したのだ。
 もし成政に何かあれば――そう考えた家康が直々に成政の配置を決定した。
 これでは成政も異議を述べられない。

「殿。あんまり戦況はよろしくないですねえ」

 やることがないので兵糧の帳簿を眺めたり、戦場の様子を窺っている大蔵長安。
 成政は陣幕の奥に座って「そうだろうな」と頷いた。
 上ノ郷城はなかなかの堅城である。力攻めしてもすぐに落ちそうにない。

「暇ですねえ……酒でも飲みたいですわ」
「殿のご命令があればすぐに出陣する。あまり油断するなよ」
「後詰ですよ? 我々が出陣するってことになるんなら、かなり不味いでしょう?」

 長安の言うとおりだなと成政は思った。
 敵は城を守るのに必死で攻める余裕などない。
 さらに本陣まで攻めてくるほど勢いもなかった。

「そういや、殿の奥方はもうすぐ子が産まれますね。もしかしたら戦が終わる頃に――」
「かもしれないな」

 成政の言葉は短かったが、付き合いが浅い長安にも分かるほど、あからさまにそわそわしだした。なるべく考えないようにしていたのだろう。長安は己の言葉で主君が動揺したのでしまったなと思った。

「すみません。戦なのに余計なことを」
「別に気にしていない。それに余計なことではなく、大事なことだ」
「……あっしは妻がいませんからよくわかりませんが、やはり心配ですか?」

 成政は出陣前に見た、自分の妻のはるの姿を思い出した。お腹が大きくなっていて、気丈に振る舞っているけど不安そうだった。女性の機敏に疎い成政でも、夫婦となったはるの変化には鋭かった。

 古今東西の男にありがちなことだが、出産する妻より弱気になってしまう。代わりたいものなら代わってあげたいと思うのが常だった。

「ああ。戦とはまた違った緊張を味わっている」

 長安は甲斐国で人を斬り殺した成政が狼狽えているのが微笑ましく思えた。今まで底が見えなかった主君が普通の人間のように写ったからだ。

 長安が成政に安心させるような言葉を投げかけようとしたときだった。家康がいる本陣から伝令が来た。

「何事だ?」
「申し上げます。城攻めの戦略について、殿が佐々様に話が聞きたいと」

 伝令の言い方は角の立たないものだったが、要するに上ノ郷城攻めが上手くいかないから、状況を打開する名案をくれと言っているのだ。
 成政自身、長引くのは本望ではない。早く帰ってはるの様子が知りたかった。

「承知した。すぐに向かう。大蔵、任せたぞ」
「へえ。かしこまりました」

 馬に乗って本陣まで駆ける成政。
 陣幕に入ると、爪を噛む家康と喧々諤々と意見を交わしている重臣たちがいた。
 成政が「煮詰まっているようですね」と言いつつ自身の席に着いた。

「鵜殿の奴、必死に抵抗しておる。今川家から援軍が来るかもしれん。成政、何か妙案はあるか?」

 家康の率直な言葉に、余裕がまったくないなと成政は感じた。
 はっきり言ってしまえば成政は、上ノ郷城を落城させた方法を知らない。いくら未来知識のある歴史オタクだったとはいえ、細かいところは覚えていない。
 だから成政は頭に思い浮かんだことを言う。

「そうですね……伊賀の忍者衆を何人か連れてきています。彼らにできるかどうか訊いてきます」
「忍者衆に? 何を訊くと言うのだ?」

 家康の疑問に成政は当然のように言う。

「潜入して門を開けられるかどうかです。もし可能なら正面を力攻めして城方の注意を引き、裏門を開けて味方を入れます」

 奇しくも史実で上ノ郷城を落城させた方法と一緒だった。
 実際は家康が甲賀衆を用いて行なった策なのだが。

「よし。そなたに一任する。忍者衆に可能ならやってみよ」
「ははっ。承知しました」

 他の重臣たちは、反論を述べる前に家康が決定してしまったので、口を挟めなかった。
 酒井忠次は苦々しく成政を見た。
 それらを無視して、成政は伊賀の忍者衆の元へ向かった。

 数刻後、上ノ郷城は落城した。
 成政の策は見事に当たったのだ。


◆◇◆◇


 かつて成政は『歴史の修正力』について考えたことがある。
 未来知識で史実を変えようとしても、修正力で均されてしまう。
 池に小石を投げこんでも、波紋を広げるだけで元通りになる。

 例えば平手政秀の自害を阻止しようとして――結局自害してしまったこと。
 例えば斉藤道三の戦死を阻止しようとして――痴呆になってしまったこと。
 例えば前田利家が茶坊主に十阿弥を斬って――追放になってしまったこと。
 例えば木下藤吉郎が桶狭間で敵兵に襲われ――成政が助けてしまったこと。

 歴史の修正力は『人の意思に関係なく』『そうであるように』『正しい道筋へと』『直す』
 それを実証されたのが、今回の戦だった。
 家康が思いつかなくても、成政の発案で城は落とされた。
 甲賀衆が実行しなくても、伊賀衆に命じられ実行された。

 しかし成政は気づいていない。
 頭に『思い浮かんだ策』が歴史の修正力によるものだと気づいていない。
 利家が池に岩を投げ込んで励ましたことで、きっと変えられると信じてしまった。
 その思い上がりが――彼を大きく狂わせる。


◆◇◆◇


 戦を終えて岡崎城に戻ると、成政は真っ先に自身の屋敷に帰った。
 家の者に妻の様子を訊ねると、今まさに産まれようとしている。
 すぐに駆け付けたかったが、侍女たちに止められた。産婆に任せるようにと。
 はるが苦しんで上げた叫び声を聞きながら、成政は神仏に祈り続けた。

「……私は神仏を信じていない。戦国乱世に産まれさせた、神仏を」

 はるのいる部屋の隣で、両手を合わせて必死に懇願する成政。

「虫が良いと分かっている。私が神仏に嫌われていることも、私が神仏に顔向けできないのも、十二分に分かっている。だけど――」

 成政の固く閉じられた瞼から、少しずつ涙が流れた。

「はると産まれてくる子を助けてやってくれ。私は地獄に落ちてもいい。だから、お願いします……!」

 一層強く、神仏に祈った瞬間。
 隣から騒ぐ声がした。
 嫌な予感がした――

「どうした! 何があった!?」

 乱暴に襖を開けると、ぐったりとしたはると、必死に産まれたばかりの赤子を揺する産婆がいた。手伝っていた侍女たちが成政を見た。

「吐きな! 吐くんだよ!」
「な、何をして――」
「この子、何か飲み込んでいる! 喉に! 詰まっているんだよ!」

 産婆の必死な声。
 はるは心配そうに赤子を見ている。
 成政は動けない。

「――っ! よし、吐いた! ……泣け! 泣くんだよ!」

 全てが遠くに聞こえる。
 全身が震えるのを感じる。

「息をしてない。身体も動いて――」

 成政とはるの子。
 その命が消えようと――

 成政の脳裏に浮かんだのは、自身の友の得意そうな顔。
 ――成政。お前、諦めるのかよ?

「貸せ! 私に子を!」

 産婆からひったくって、赤子を抱く成政。
 布団に寝かせて――気道を確保して、指先で胸を押す。
 必死になって未来知識を――思い出す!

「死なせない! 死なせはせんぞ!」

 はるも産婆も侍女たちも、成政の必死な姿を見守っていた。
 成政は赤子に呼びかける。

「生きろ! 生きるんだ! お前はまだ知らないだろう!」

 声をかけ続ける。
 手を止めない。
 蘇生を続ける――

「この世は乱れているけど、戦ばかりでろくでもないけど! それでも――素敵なことや楽しいことが溢れているんだ!」

 成政は滂沱の涙を流しながら――

「私とはるは、お前が産まれてくるのを待っていたんだ! だから、生きろ!」

 ――そのとき、赤子の口から空気が漏れた。

「あ、ああ……」
「おぎゃあ――おぎゃああああああ!」
「ああああ――」
「おぎゃああああ! おぎゃああああ!」

 赤子から出た泣き声。
 成政は――抱きしめた。

「良かった……! 良かった!」

 周りが呆然とする中、成政ははるに赤子を見せる。

「はる……私たちの子だ……!」

 はるは産後だというのに、疲れ果てているのに、成政の言葉で――

「う、ううう……」
「元気な男の子じゃあないか」
「ひっく、うわああああ……」
「あはは。よく頑張ったな。偉いぞ、はる」
「うわああああああん! うわああああああん!」

 盛大に泣いた。
 成政も泣いた。
 産婆も侍女たちも泣いた。

 皆が泣いた日。
 佐々成政とはるの息子が産まれた。
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