第142話松永弾正の説得
文字数 3,096文字
木下藤吉郎にしてみれば、しんがりを請け負ったことは不幸である。
しかし、不幸中の幸いと言えるのは――家臣に竹中半兵衛がいたことだ。
かの軍師は落城した金ヶ崎城に籠城するふりをして、少数の兵だけで守った。
慎重な山崎吉家とそれに従う真柄直隆は後続の兵の到着を待ってから攻撃を仕掛ける。時間を稼ぎたい藤吉郎にしてみれば、その判断はありがたかった。
結果として大勢で攻めた朝倉家の足止めに成功した。
謀られたと知った山崎は焦って追撃をする――けれど、作られた柵によって進軍が阻まれた。
そして勢いを削がれた兵は、配置された鉄砲隊による狙撃で一気に殲滅される。
まさに虚実を交えた戦術、兵法だった。
「半兵衛。このまま行けば……それがしたちも無事に逃げられるだろうか?」
「こほ。もちろん、私の狙いはそれです」
次の柵まで移動する最中、藤吉郎は半兵衛と話し合っていた。
もし追いつかれたら皆殺しに遭ってしまう、命がけの鬼ごっこ。
だからこそ、綿密な連携が必要だった。
「私は生き残るつもりで、逃げています。ご安心ください」
「安心、か。京に着くまでできぬよ」
「大将はどっしりと構えるべし。さすれば兵たちは動揺しません」
病弱な半兵衛から言葉とは思えなかったので、藤吉郎は思わず大笑いしてしまった。
それを見た兵たちは、藤吉郎を豪胆と勘違いするのだった。
「まあ殿にお考えしてもらいたいことがありますけどね」
「うん? それはなんだ半兵衛?」
「いつまでしんがりをし続けるか、です。生き残るためにはその見極めが必要なのです、こほ」
無論、なりふり構わず逃げてしまえば藤吉郎たちは生き残れるだろう。
しかしそれは信長率いる本軍を危険に晒すこととなる。
しんがりの務めを果たせなかったことと同義である。
「……それがしは、殿に信頼されてしんがりを拝命したのだ。裏切るわけにはいかん」
「ええ。ですからしんがりを成功させつつ、私たちが生き残ることを考えましょう」
「策はあるか、半兵衛」
「ええ。百以上ございますよ」
頼もしい半兵衛の言葉に藤吉郎は笑った。
直後、後方から敵の軍勢の鬨の声が聞こえた。
二人は兵を指揮する――
「それよりも、信長公のことが心配です。確か、松永弾正も退却に同行していたはずですから」
「心配いらんよ。殿には利家がついている」
半兵衛は「前田様を本当に信頼しているのですね」と微笑んだ。
藤吉郎は「おぬしと同じくらいにな」と頷いた。
「利家さえいれば松永弾正なんぞ物の数に入らん。あの人は――そのくらい自分を持っていて強いのだ」
◆◇◆◇
「……ふう。手こずらせやがって」
槍先に着いた血をぶるっと血払いして、利家は野武士の死体から目を離した。
そして後ろで控えていた信長に「終わりました」と報告する。
「であるか。利家、ますます強くなったな」
「相手はただの野武士で徒歩でしたから。馬上で槍持ちの俺には勝てないですよ」
敗軍の将の首を狙う野武士や農兵が襲い来る中、利家は率先してそれらを打ち破っていた。
その働きは鬼神のようで他の赤母衣衆や馬廻り衆たちは感嘆の声を上げるほどだった。
「いやあ、良き家臣を得ておりますな、織田殿」
手放しに褒めているのは松永弾正である。
一切の戦闘に加わず、ひたすら信長の傍で傍観していた。
利家は上手いことやっているなと思いつつ、年寄りに戦えとは言えない。
「ああ。利家は城二つ分の価値があるからな」
「ほう。それはそれは……」
瞬間、弛緩した空気が漂う中、物見が大急ぎで帰ってきた。
息を切らしながら信長に跪くと「申し上げます!」と報告する。
「朽木谷にて、軍勢が道を封鎖しております! 旗印から――朽木元網!」
信長の眉間にしわが寄った。
朽木がどう出るのか、分からなかったからだ。
かの領主は幕府の家臣で織田家側であったが、同時に浅井家にも縁故があった。
もし浅井家に協力するのなら――信長を討ち取ろうとするだろう。
「ふむ。危うい局面ですな、織田殿」
「……松永。お前なら説得できるのではないか?」
信長の提案に松永は目を見開いた。
安易に頼ってきたのはいただけないが、この場で説得できるとしたら自分しかない。
それが分かった上での発言ならば――
「ま、できなくはないですな」
「であるか。ならば頼んだ」
「……裏切るとは考えないのですか?」
松永の言葉に周りの家臣たちは殺気立つが、信長は飄々と「裏切ってどうするのだ?」と敢えて問う。
「ここで裏切ったところで、お前にどんな旨みがある? 幕府から逆臣とされ、権力から大きく離れるぞ?」
「…………」
「まあお前は逆臣となろうとも関係なさそうだが。この後の支配が滞る」
本気で裏切らないと考えている信長。
信頼ではなく、周りの状況を計算しての言葉。
松永は「いいでしょう」と頷いた。
「前田殿、同行してくだされ」
「あん? なんでだ?」
「用心のために。そしてあなたの後学のためにですよ」
よく分からない利家は信長をちらりと見る。
信長は「構わん」と頷いた。
「松永の言うとおり、後学のために見ておけ」
「はあ……かしこまりました」
その後、松永は利家を伴って――堂々と朽木の陣へ向かった。
朽木の兵たちは松永と利家に槍を向けたが、あまりにも平然としているので度肝を抜かれた。
松永には朽木元網の考えが手に取るように分かっていた。だから自分は殺されないと踏んだのだ。
一方、利家は何も考えていない。いざとなれば朽木を人質にすればいいと単純に思っていた。
「朽木殿。しばらくでござったな」
とうとう朽木元網のいる本陣へ来た松永。
焦ったのは朽木である。顔中汗だらけにして「こ、これは松永殿……」と絶句した。
利家は朽木の顔を見て、あんま度胸がないなと判じた。
「なあ朽木殿。ここは織田家に味方したほうが良いぞ? この松永弾正が言っているのだ。信じたほうがいい」
「……私は浅井家に縁があり恩がある。それが分かった上で、おっしゃっているのか?」
「考えてみよ。織田信長をここで討ったとして、織田家は別の当主を立てるだけ。そして真っ先に狙われるのは――おぬしだぞ?」
顔が青を通り越して真っ白になってしまった朽木。
松永は笑みを浮かべたまま「それに織田家は公方様と御門のお褒めを預かっている」と続ける。
「つまりは官軍だ。その官軍に逆らえば逆賊にされる。代々続いた朽木の家が滅びたら、先祖に申し訳が立たず、子孫にも苦労をかけてしまうだろう」
「そ、それは分かる。しかしだ……」
「なあ朽木殿。おぬしに一つ言っておこう」
松永は利家にも聞こえる声で言った。
「実のところ、わしも裏切ろうと思った。しかしこのとき裏切れば苦しくなるのは己だ。朽木殿もそうだ。織田殿を討ったところで、浅井家からの見返りは知れたことよ」
「…………」
「それに、おぬしにとって一番大事なものを考えろ……朽木という家ではないのか? その武門を誇る名家をおぬしの判断で滅ぼしてもいいのか?」
利家はこのじじい、口が上手いだけじゃなくて、人の心を操ろうとしてやがると思った。
心揺さぶられるような、それでいてよろめいてしまいそうな。
怪しげな魅力を発していた。
「そうですな……松永殿の言うとおりだ……我らは織田家に味方する!」
朽木はその後、自ら信長を出迎え、丁重に京まで送った。
利家はこれが松永弾正という男かと唸ってしまった。
しかし単純極まりない利家は、朽木が松永の説得に応じなかった可能性を考えなかった。
もしも、朽木が信長を攻める姿勢を崩さなかったら――松永は何の躊躇もなく、信長を裏切っていただろう。
しかし、不幸中の幸いと言えるのは――家臣に竹中半兵衛がいたことだ。
かの軍師は落城した金ヶ崎城に籠城するふりをして、少数の兵だけで守った。
慎重な山崎吉家とそれに従う真柄直隆は後続の兵の到着を待ってから攻撃を仕掛ける。時間を稼ぎたい藤吉郎にしてみれば、その判断はありがたかった。
結果として大勢で攻めた朝倉家の足止めに成功した。
謀られたと知った山崎は焦って追撃をする――けれど、作られた柵によって進軍が阻まれた。
そして勢いを削がれた兵は、配置された鉄砲隊による狙撃で一気に殲滅される。
まさに虚実を交えた戦術、兵法だった。
「半兵衛。このまま行けば……それがしたちも無事に逃げられるだろうか?」
「こほ。もちろん、私の狙いはそれです」
次の柵まで移動する最中、藤吉郎は半兵衛と話し合っていた。
もし追いつかれたら皆殺しに遭ってしまう、命がけの鬼ごっこ。
だからこそ、綿密な連携が必要だった。
「私は生き残るつもりで、逃げています。ご安心ください」
「安心、か。京に着くまでできぬよ」
「大将はどっしりと構えるべし。さすれば兵たちは動揺しません」
病弱な半兵衛から言葉とは思えなかったので、藤吉郎は思わず大笑いしてしまった。
それを見た兵たちは、藤吉郎を豪胆と勘違いするのだった。
「まあ殿にお考えしてもらいたいことがありますけどね」
「うん? それはなんだ半兵衛?」
「いつまでしんがりをし続けるか、です。生き残るためにはその見極めが必要なのです、こほ」
無論、なりふり構わず逃げてしまえば藤吉郎たちは生き残れるだろう。
しかしそれは信長率いる本軍を危険に晒すこととなる。
しんがりの務めを果たせなかったことと同義である。
「……それがしは、殿に信頼されてしんがりを拝命したのだ。裏切るわけにはいかん」
「ええ。ですからしんがりを成功させつつ、私たちが生き残ることを考えましょう」
「策はあるか、半兵衛」
「ええ。百以上ございますよ」
頼もしい半兵衛の言葉に藤吉郎は笑った。
直後、後方から敵の軍勢の鬨の声が聞こえた。
二人は兵を指揮する――
「それよりも、信長公のことが心配です。確か、松永弾正も退却に同行していたはずですから」
「心配いらんよ。殿には利家がついている」
半兵衛は「前田様を本当に信頼しているのですね」と微笑んだ。
藤吉郎は「おぬしと同じくらいにな」と頷いた。
「利家さえいれば松永弾正なんぞ物の数に入らん。あの人は――そのくらい自分を持っていて強いのだ」
◆◇◆◇
「……ふう。手こずらせやがって」
槍先に着いた血をぶるっと血払いして、利家は野武士の死体から目を離した。
そして後ろで控えていた信長に「終わりました」と報告する。
「であるか。利家、ますます強くなったな」
「相手はただの野武士で徒歩でしたから。馬上で槍持ちの俺には勝てないですよ」
敗軍の将の首を狙う野武士や農兵が襲い来る中、利家は率先してそれらを打ち破っていた。
その働きは鬼神のようで他の赤母衣衆や馬廻り衆たちは感嘆の声を上げるほどだった。
「いやあ、良き家臣を得ておりますな、織田殿」
手放しに褒めているのは松永弾正である。
一切の戦闘に加わず、ひたすら信長の傍で傍観していた。
利家は上手いことやっているなと思いつつ、年寄りに戦えとは言えない。
「ああ。利家は城二つ分の価値があるからな」
「ほう。それはそれは……」
瞬間、弛緩した空気が漂う中、物見が大急ぎで帰ってきた。
息を切らしながら信長に跪くと「申し上げます!」と報告する。
「朽木谷にて、軍勢が道を封鎖しております! 旗印から――朽木元網!」
信長の眉間にしわが寄った。
朽木がどう出るのか、分からなかったからだ。
かの領主は幕府の家臣で織田家側であったが、同時に浅井家にも縁故があった。
もし浅井家に協力するのなら――信長を討ち取ろうとするだろう。
「ふむ。危うい局面ですな、織田殿」
「……松永。お前なら説得できるのではないか?」
信長の提案に松永は目を見開いた。
安易に頼ってきたのはいただけないが、この場で説得できるとしたら自分しかない。
それが分かった上での発言ならば――
「ま、できなくはないですな」
「であるか。ならば頼んだ」
「……裏切るとは考えないのですか?」
松永の言葉に周りの家臣たちは殺気立つが、信長は飄々と「裏切ってどうするのだ?」と敢えて問う。
「ここで裏切ったところで、お前にどんな旨みがある? 幕府から逆臣とされ、権力から大きく離れるぞ?」
「…………」
「まあお前は逆臣となろうとも関係なさそうだが。この後の支配が滞る」
本気で裏切らないと考えている信長。
信頼ではなく、周りの状況を計算しての言葉。
松永は「いいでしょう」と頷いた。
「前田殿、同行してくだされ」
「あん? なんでだ?」
「用心のために。そしてあなたの後学のためにですよ」
よく分からない利家は信長をちらりと見る。
信長は「構わん」と頷いた。
「松永の言うとおり、後学のために見ておけ」
「はあ……かしこまりました」
その後、松永は利家を伴って――堂々と朽木の陣へ向かった。
朽木の兵たちは松永と利家に槍を向けたが、あまりにも平然としているので度肝を抜かれた。
松永には朽木元網の考えが手に取るように分かっていた。だから自分は殺されないと踏んだのだ。
一方、利家は何も考えていない。いざとなれば朽木を人質にすればいいと単純に思っていた。
「朽木殿。しばらくでござったな」
とうとう朽木元網のいる本陣へ来た松永。
焦ったのは朽木である。顔中汗だらけにして「こ、これは松永殿……」と絶句した。
利家は朽木の顔を見て、あんま度胸がないなと判じた。
「なあ朽木殿。ここは織田家に味方したほうが良いぞ? この松永弾正が言っているのだ。信じたほうがいい」
「……私は浅井家に縁があり恩がある。それが分かった上で、おっしゃっているのか?」
「考えてみよ。織田信長をここで討ったとして、織田家は別の当主を立てるだけ。そして真っ先に狙われるのは――おぬしだぞ?」
顔が青を通り越して真っ白になってしまった朽木。
松永は笑みを浮かべたまま「それに織田家は公方様と御門のお褒めを預かっている」と続ける。
「つまりは官軍だ。その官軍に逆らえば逆賊にされる。代々続いた朽木の家が滅びたら、先祖に申し訳が立たず、子孫にも苦労をかけてしまうだろう」
「そ、それは分かる。しかしだ……」
「なあ朽木殿。おぬしに一つ言っておこう」
松永は利家にも聞こえる声で言った。
「実のところ、わしも裏切ろうと思った。しかしこのとき裏切れば苦しくなるのは己だ。朽木殿もそうだ。織田殿を討ったところで、浅井家からの見返りは知れたことよ」
「…………」
「それに、おぬしにとって一番大事なものを考えろ……朽木という家ではないのか? その武門を誇る名家をおぬしの判断で滅ぼしてもいいのか?」
利家はこのじじい、口が上手いだけじゃなくて、人の心を操ろうとしてやがると思った。
心揺さぶられるような、それでいてよろめいてしまいそうな。
怪しげな魅力を発していた。
「そうですな……松永殿の言うとおりだ……我らは織田家に味方する!」
朽木はその後、自ら信長を出迎え、丁重に京まで送った。
利家はこれが松永弾正という男かと唸ってしまった。
しかし単純極まりない利家は、朽木が松永の説得に応じなかった可能性を考えなかった。
もしも、朽木が信長を攻める姿勢を崩さなかったら――松永は何の躊躇もなく、信長を裏切っていただろう。